2008年06月26日 23:07
〔ボスニア・ヘルツェゴヴィナ/オーストリア/独/クロアチア〕GRBAVICA (2006年)
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ミリャナ・カラノヴィッチ/ルナ・ミヨヴィッチ/レオン・ルチェフ/ケナン・チャティチ サミル/Jasna Beri
内戦では最悪の市内戦の舞台ともなった、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ。そのグルバヴィッツァ地区に、母エスマと娘サラは暮らしていた。生活保護を受けながらバーで深夜まで働くエスマは、サラの修学旅行の費用を捻出する事に頭を悩ませていた。父親が戦争で英雄的に亡くなった『シャヒード(殉教者)』の子供なら費用は免除になると聞いても、エスマは一向に証明書を用意しようとしない。殉教者という以外は、父親の事をほとんど知らされずに育ったサラは、そんな母に不審を募らせていく。しかし、内戦で心身ともに深い傷を負ったエスマは、サラの父親の事も、過去の出来事として秘密にしておきたいかのように見えるのだった。
いや〜、参った。こんな映画を作られてしまったら、もう参ったとしか言いようが無い。この映画を観て心から良かったと思うが、全面降伏的な敗北感がある。自分の無知さに嫌気が差すし、事実だとは思いたくないし、受け止められない自分の弱さも嫌だ。徹底気に、自分の嫌な面ばかりが顕になる。何より、私はなんて自らの人生に甘えてきたのだろうと、情けない気持ちが強い。これまで自分が口にしてきた数々の愚痴、泣き言、文句が走馬灯のように脳裏を過ぎる。これまでも色々考えさせられる映画に出会ったが、この作品は問答無用で己の甘さに突き刺さった感じ。
そう思うのはやはり、主人公が『女性』だからだろう。この後はネタバレになるのか?と思って公式サイトを確認したら、ストーリー紹介に『全編』の要約が載っていた。ラストの描写に至るまでかなり明確に。なんと!?と思ったのだが、要するにこの映画に於いて、『意外性』は必要無いのじゃないかと、この映画の事がいかなる形であれ多くの人の所に届く事、それがとても重要なのじゃないかと思った。だからバレても良いのかなと。
ということで書かせていただくと、レイプという事実だけでも酷いのに、『強制出産』なんて・・・。言葉だけでも悲惨極まりないのに、僅か15年程前に実際に行われていたなんて。これはもう、同じ女性として許容できる過酷さの範囲を超えている。戦争なんてものにおよそ人道的なことなど望めないとしたって、どこまで悪意ある事を思いつくものか、際限は無いのだろうか。生命の誕生を凶器に替えるなんて、よもや人の心を狂気に狂わす『戦争』だと言っても、理屈にならない。
この事実に憤慨を感じつつも、女性として、映画の中のエスマの痛みも苦しみも、もはや想像できない域にある己の実情にも情けなさを感じた。実際にこうした苦しみを味わっている人が多くいた頃の自分自身の世界に対する無知さ、そんな痛みを想像すら出来ない安穏とした日々に暮らす自分。贅沢や安寧が罪だとは言わないが、今ある自分の境遇を幸せだと思えない事は、やはり罪に近いのだと思う。今の自分を作ったのは、間違いなく自分自身に他ならないというのに。
映画の中のエスマを作ったのは、エスマ自身ではないのだ。加えて余りにも無力であるから、その痛恨さに拍車がかかる。そして、その無力さもエスマの責任ではないのだ。エスマが愛した国、かつては幸せだった国、そうした巨大なものに、力を奪われた1人の女性。そしてその女性が心の支えにしているのは、この世で最も美しいと感じる娘。
こうした事を全て確認して映画を観ると、台詞の各所、演出の各所に秀逸な捻りがある事に気が付くだろう。例えば偶然出会った親戚の言葉、サラを危惧する親友の言葉、それに異常な憤慨を見せるエスマの姿。そして、孤独を感じるサラを抱きしめて言う、力強い愛情を感じるエスマの言葉。そして、エスマを気遣う職場の用心棒ペルダに見せた、エスマの押さえつけた女性らしさなどなど、そもそも脚本自体が秀逸なのではあるが、この見せ方がさり気なくて非常に上手い。棄てシーンというものが、実に1コマも思いつかないぐらい綿密な伏線が張り巡らされている。
悲惨な状況をベースに描いていながら、鑑賞後に陰鬱な気持ちは余り無い(私の個人的な自己卑下は別として)。それはきっと、公式サイトにもあるように、この映画が『愛について』描いているからだろう。悲惨さを過去に置き、今を懸命に生きる。口で言う事は簡単で、その難しさを映画は見せ付けてはいるが、再生という緩やかな過程がその過酷さを覆っているように感じた。
許しもしていないが、嘆いてもいない、苦しいとか悲しいという感情すら削ぎ取られてしまったかのように、『生きる』事に全勢力を傾けるエスマ。そんな彼女が見せる唯一の『幸福な笑顔』は、娘サラに向けるものだ。そしてそれが意味するものとは?
私は、人間の底知れない再生力と強さを感じた。例え何があったとしても、魂が負けたりはしないのだと、近年の戦火を潜り抜けた国からのメッセージも込められているような気がした。個人を傷つける目的で繰り返されたレイプ。民族間の憎しみを増す目的で行われた強制出産。敵が目論んだ思惑を大きく外れ、エスマはその子を心から愛している。
心が生み出す幸福の価値観の無限性、個人が持ちうる愛情の深さと意外性、ただひたすらに生き抜くという強さ、武器や悪事には決して負けない精神力。人間が発揮可能な様々な事柄が、この映画には隠れている。エスマは決して愚痴は言わず、逆風の中に立ち尽くすようにじっと堪えているのだった。そして、じわり、じわりと前に進んでいく。
生きた爆弾として生み出されたサラだったが、母の愛情に守られて育ち、爆弾から花に生まれ変わったのだろう。そんな彼女の輝くような笑顔は、この国の希望を堂々と示しているようにも感じられる。戦争があったからといって国が死んだわけではない、そうした苦難と変革を乗り越えた人々から、今新しい輝きにバトンが渡されようとしていのだと。そんな大いなる自信と希望を見せられた気がした。正に、映画祭『平和賞』を取るに相応しい、戦争テーマの穏やかなる秀作。
ぽすれん『サラエボの花』紹介
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ミリャナ・カラノヴィッチ/ルナ・ミヨヴィッチ/レオン・ルチェフ/ケナン・チャティチ サミル/Jasna Beri
内戦では最悪の市内戦の舞台ともなった、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ。そのグルバヴィッツァ地区に、母エスマと娘サラは暮らしていた。生活保護を受けながらバーで深夜まで働くエスマは、サラの修学旅行の費用を捻出する事に頭を悩ませていた。父親が戦争で英雄的に亡くなった『シャヒード(殉教者)』の子供なら費用は免除になると聞いても、エスマは一向に証明書を用意しようとしない。殉教者という以外は、父親の事をほとんど知らされずに育ったサラは、そんな母に不審を募らせていく。しかし、内戦で心身ともに深い傷を負ったエスマは、サラの父親の事も、過去の出来事として秘密にしておきたいかのように見えるのだった。
いや〜、参った。こんな映画を作られてしまったら、もう参ったとしか言いようが無い。この映画を観て心から良かったと思うが、全面降伏的な敗北感がある。自分の無知さに嫌気が差すし、事実だとは思いたくないし、受け止められない自分の弱さも嫌だ。徹底気に、自分の嫌な面ばかりが顕になる。何より、私はなんて自らの人生に甘えてきたのだろうと、情けない気持ちが強い。これまで自分が口にしてきた数々の愚痴、泣き言、文句が走馬灯のように脳裏を過ぎる。これまでも色々考えさせられる映画に出会ったが、この作品は問答無用で己の甘さに突き刺さった感じ。
そう思うのはやはり、主人公が『女性』だからだろう。この後はネタバレになるのか?と思って公式サイトを確認したら、ストーリー紹介に『全編』の要約が載っていた。ラストの描写に至るまでかなり明確に。なんと!?と思ったのだが、要するにこの映画に於いて、『意外性』は必要無いのじゃないかと、この映画の事がいかなる形であれ多くの人の所に届く事、それがとても重要なのじゃないかと思った。だからバレても良いのかなと。
ということで書かせていただくと、レイプという事実だけでも酷いのに、『強制出産』なんて・・・。言葉だけでも悲惨極まりないのに、僅か15年程前に実際に行われていたなんて。これはもう、同じ女性として許容できる過酷さの範囲を超えている。戦争なんてものにおよそ人道的なことなど望めないとしたって、どこまで悪意ある事を思いつくものか、際限は無いのだろうか。生命の誕生を凶器に替えるなんて、よもや人の心を狂気に狂わす『戦争』だと言っても、理屈にならない。
この事実に憤慨を感じつつも、女性として、映画の中のエスマの痛みも苦しみも、もはや想像できない域にある己の実情にも情けなさを感じた。実際にこうした苦しみを味わっている人が多くいた頃の自分自身の世界に対する無知さ、そんな痛みを想像すら出来ない安穏とした日々に暮らす自分。贅沢や安寧が罪だとは言わないが、今ある自分の境遇を幸せだと思えない事は、やはり罪に近いのだと思う。今の自分を作ったのは、間違いなく自分自身に他ならないというのに。
映画の中のエスマを作ったのは、エスマ自身ではないのだ。加えて余りにも無力であるから、その痛恨さに拍車がかかる。そして、その無力さもエスマの責任ではないのだ。エスマが愛した国、かつては幸せだった国、そうした巨大なものに、力を奪われた1人の女性。そしてその女性が心の支えにしているのは、この世で最も美しいと感じる娘。
こうした事を全て確認して映画を観ると、台詞の各所、演出の各所に秀逸な捻りがある事に気が付くだろう。例えば偶然出会った親戚の言葉、サラを危惧する親友の言葉、それに異常な憤慨を見せるエスマの姿。そして、孤独を感じるサラを抱きしめて言う、力強い愛情を感じるエスマの言葉。そして、エスマを気遣う職場の用心棒ペルダに見せた、エスマの押さえつけた女性らしさなどなど、そもそも脚本自体が秀逸なのではあるが、この見せ方がさり気なくて非常に上手い。棄てシーンというものが、実に1コマも思いつかないぐらい綿密な伏線が張り巡らされている。
悲惨な状況をベースに描いていながら、鑑賞後に陰鬱な気持ちは余り無い(私の個人的な自己卑下は別として)。それはきっと、公式サイトにもあるように、この映画が『愛について』描いているからだろう。悲惨さを過去に置き、今を懸命に生きる。口で言う事は簡単で、その難しさを映画は見せ付けてはいるが、再生という緩やかな過程がその過酷さを覆っているように感じた。
許しもしていないが、嘆いてもいない、苦しいとか悲しいという感情すら削ぎ取られてしまったかのように、『生きる』事に全勢力を傾けるエスマ。そんな彼女が見せる唯一の『幸福な笑顔』は、娘サラに向けるものだ。そしてそれが意味するものとは?
私は、人間の底知れない再生力と強さを感じた。例え何があったとしても、魂が負けたりはしないのだと、近年の戦火を潜り抜けた国からのメッセージも込められているような気がした。個人を傷つける目的で繰り返されたレイプ。民族間の憎しみを増す目的で行われた強制出産。敵が目論んだ思惑を大きく外れ、エスマはその子を心から愛している。
心が生み出す幸福の価値観の無限性、個人が持ちうる愛情の深さと意外性、ただひたすらに生き抜くという強さ、武器や悪事には決して負けない精神力。人間が発揮可能な様々な事柄が、この映画には隠れている。エスマは決して愚痴は言わず、逆風の中に立ち尽くすようにじっと堪えているのだった。そして、じわり、じわりと前に進んでいく。
生きた爆弾として生み出されたサラだったが、母の愛情に守られて育ち、爆弾から花に生まれ変わったのだろう。そんな彼女の輝くような笑顔は、この国の希望を堂々と示しているようにも感じられる。戦争があったからといって国が死んだわけではない、そうした苦難と変革を乗り越えた人々から、今新しい輝きにバトンが渡されようとしていのだと。そんな大いなる自信と希望を見せられた気がした。正に、映画祭『平和賞』を取るに相応しい、戦争テーマの穏やかなる秀作。
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ぽすれん『サラエボの花』紹介



















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