『サラエボの花』【ネタバレなのかは不明・・・?】

2008年06月26日 23:07

〔ボスニア・ヘルツェゴヴィナ/オーストリア/独/クロアチア〕GRBAVICA (2006年)
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ミリャナ・カラノヴィッチ/ルナ・ミヨヴィッチ/レオン・ルチェフ/ケナン・チャティチ サミル/Jasna Beri

内戦では最悪の市内戦の舞台ともなった、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ。そのグルバヴィッツァ地区に、母エスマと娘サラは暮らしていた。生活保護を受けながらバーで深夜まで働くエスマは、サラの修学旅行の費用を捻出する事に頭を悩ませていた。父親が戦争で英雄的に亡くなった『シャヒード(殉教者)』の子供なら費用は免除になると聞いても、エスマは一向に証明書を用意しようとしない。殉教者という以外は、父親の事をほとんど知らされずに育ったサラは、そんな母に不審を募らせていく。しかし、内戦で心身ともに深い傷を負ったエスマは、サラの父親の事も、過去の出来事として秘密にしておきたいかのように見えるのだった。

いや〜、参った。こんな映画を作られてしまったら、もう参ったとしか言いようが無い。この映画を観て心から良かったと思うが、全面降伏的な敗北感がある。自分の無知さに嫌気が差すし、事実だとは思いたくないし、受け止められない自分の弱さも嫌だ。徹底気に、自分の嫌な面ばかりが顕になる。何より、私はなんて自らの人生に甘えてきたのだろうと、情けない気持ちが強い。これまで自分が口にしてきた数々の愚痴、泣き言、文句が走馬灯のように脳裏を過ぎる。これまでも色々考えさせられる映画に出会ったが、この作品は問答無用で己の甘さに突き刺さった感じ。
そう思うのはやはり、主人公が『女性』だからだろう。この後はネタバレになるのか?と思って公式サイトを確認したら、ストーリー紹介に『全編』の要約が載っていた。ラストの描写に至るまでかなり明確に。なんと!?と思ったのだが、要するにこの映画に於いて、『意外性』は必要無いのじゃないかと、この映画の事がいかなる形であれ多くの人の所に届く事、それがとても重要なのじゃないかと思った。だからバレても良いのかなと。
ということで書かせていただくと、レイプという事実だけでも酷いのに、『強制出産』なんて・・・。言葉だけでも悲惨極まりないのに、僅か15年程前に実際に行われていたなんて。これはもう、同じ女性として許容できる過酷さの範囲を超えている。戦争なんてものにおよそ人道的なことなど望めないとしたって、どこまで悪意ある事を思いつくものか、際限は無いのだろうか。生命の誕生を凶器に替えるなんて、よもや人の心を狂気に狂わす『戦争』だと言っても、理屈にならない。
この事実に憤慨を感じつつも、女性として、映画の中のエスマの痛みも苦しみも、もはや想像できない域にある己の実情にも情けなさを感じた。実際にこうした苦しみを味わっている人が多くいた頃の自分自身の世界に対する無知さ、そんな痛みを想像すら出来ない安穏とした日々に暮らす自分。贅沢や安寧が罪だとは言わないが、今ある自分の境遇を幸せだと思えない事は、やはり罪に近いのだと思う。今の自分を作ったのは、間違いなく自分自身に他ならないというのに。
映画の中のエスマを作ったのは、エスマ自身ではないのだ。加えて余りにも無力であるから、その痛恨さに拍車がかかる。そして、その無力さもエスマの責任ではないのだ。エスマが愛した国、かつては幸せだった国、そうした巨大なものに、力を奪われた1人の女性。そしてその女性が心の支えにしているのは、この世で最も美しいと感じる娘。
こうした事を全て確認して映画を観ると、台詞の各所、演出の各所に秀逸な捻りがある事に気が付くだろう。例えば偶然出会った親戚の言葉、サラを危惧する親友の言葉、それに異常な憤慨を見せるエスマの姿。そして、孤独を感じるサラを抱きしめて言う、力強い愛情を感じるエスマの言葉。そして、エスマを気遣う職場の用心棒ペルダに見せた、エスマの押さえつけた女性らしさなどなど、そもそも脚本自体が秀逸なのではあるが、この見せ方がさり気なくて非常に上手い。棄てシーンというものが、実に1コマも思いつかないぐらい綿密な伏線が張り巡らされている。
悲惨な状況をベースに描いていながら、鑑賞後に陰鬱な気持ちは余り無い(私の個人的な自己卑下は別として)。それはきっと、公式サイトにもあるように、この映画が『愛について』描いているからだろう。悲惨さを過去に置き、今を懸命に生きる。口で言う事は簡単で、その難しさを映画は見せ付けてはいるが、再生という緩やかな過程がその過酷さを覆っているように感じた。
許しもしていないが、嘆いてもいない、苦しいとか悲しいという感情すら削ぎ取られてしまったかのように、『生きる』事に全勢力を傾けるエスマ。そんな彼女が見せる唯一の『幸福な笑顔』は、娘サラに向けるものだ。そしてそれが意味するものとは?
私は、人間の底知れない再生力と強さを感じた。例え何があったとしても、魂が負けたりはしないのだと、近年の戦火を潜り抜けた国からのメッセージも込められているような気がした。個人を傷つける目的で繰り返されたレイプ。民族間の憎しみを増す目的で行われた強制出産。敵が目論んだ思惑を大きく外れ、エスマはその子を心から愛している。
心が生み出す幸福の価値観の無限性、個人が持ちうる愛情の深さと意外性、ただひたすらに生き抜くという強さ、武器や悪事には決して負けない精神力。人間が発揮可能な様々な事柄が、この映画には隠れている。エスマは決して愚痴は言わず、逆風の中に立ち尽くすようにじっと堪えているのだった。そして、じわり、じわりと前に進んでいく。
生きた爆弾として生み出されたサラだったが、母の愛情に守られて育ち、爆弾から花に生まれ変わったのだろう。そんな彼女の輝くような笑顔は、この国の希望を堂々と示しているようにも感じられる。戦争があったからといって国が死んだわけではない、そうした苦難と変革を乗り越えた人々から、今新しい輝きにバトンが渡されようとしていのだと。そんな大いなる自信と希望を見せられた気がした。正に、映画祭『平和賞』を取るに相応しい、戦争テーマの穏やかなる秀作。

サラエボの花サラエボの花
(2008/06/06)
ミリャナ・カラノビッチ

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『幸せのルールはママが教えてくれた』

2008年06月24日 23:39

〔米〕GEORGIA RULE (2007年)
監督:ゲイリー・マーシャル
脚本:マーク・アンドラス
ジェーン・フォンダ/リンジー・ローハン/フェリシティ・ハフマン/ダーモット・マローニー/ケイリー・エルウィズ/ギャレット・ヘドランド/ヘクター・エリゾンド/ディラン・マクラフリン/ローリー・メトカーフ/ポール・ウィリアムズ

17歳のレイチェルは、サンフランシスコの都会から、祖母ジョージアが暮らすアイダホの田舎町に連れてこられた。ちょっとした問題を起こしたレイチェルを、厳しい祖母に預けてしまおうという母リリーの考えだった。リリー自身も母親とは上手くいっておらず、お互いギクシャクした関係が打破出来ないでいた。田舎暮らしにも横柄な態度しか見せないレイチェルに対して、ジョージアは厳格な『ジョージア・ルール』に従わせようとする。嫌々ながらも穏やかな生活にレイチェルが慣れ始めた頃、彼女のある重大な秘密がばれてしまうのだった。急遽駆けつけたリリーと女親子3代、それぞれの悩みに傷つき戸惑いながら、家族の絆を繕おうと奮闘していく。

微妙だなこの邦題、悪くは無いけど微妙。だって、『ママ』というのはリリーの事?ジョージアの事?年功序列で賢者の知恵を持っている・・・なんて、この場合、不器用っぷりはジョージアもリリーも似たり寄ったり。もしかしたら、唯一『ママ』ではないレイチェルが、1番器用だったのでは?なんて思ったり。なので、邦題は微妙だな〜と。かと言って原題も?微妙なんである。
幸せのルールは誰に教えて貰ったのではなく、この映画の場合、お互い全く違うベクトルの不器用ぶりを発揮している3人の女性が、それぞれの不器用さを危なっかしくカバーし合いながら、協力して見つけた!という感じ。おばあちゃんもママも、等しく激しく不器用です。
でも、そこが1番良いと思える映画だった。賢者らしく程よく胸に響く台詞を言う祖母とか、溢れる愛情を注ぎまくりの母なども嫌いではないが、ここまでとことん不器用な女性像は、なんとも人事という気がしなくて、否が応にも共感してしまう。
実際のところ、1番頑固で手に負えないのはジョージアだったのかも知れない。自身の厳格な『ジョージア・ルール』に縛られて、自分が何でも正しいと信じ込んでいる。頼りになるとは思うが、やはり一緒に暮らしていたら息が詰まってしまう。そんな母に反発する事から情緒不安定になったのか、アルコール依存症になったリリーだが、それでもジョージアは叱るか軽蔑しかしない。
リリーは必死になって娘レイチェルとの仲をなんとかしようとするが、後に明かされる秘密からも、母が娘の事を良く見ていなかったのが伝わってくる。『愛してる』とは何度も言うけれど、そうは信じられない母の姿ね。まずこの女家族には、口で言うほどの愛情が全く伝わって来ないのだ。
そんな環境だったから・・・と、最初は擁護できそうも無い横柄なレイチェルだったが、単に素直になる方法を知らなかったのかと徐々に思わせる。図太くならざるを得なかったレイチェルの、孤独と優しさが見えてくる。彼女を心から気遣ってくれた、獣医サイモンの台詞にスカっ!とする。
さて、何かと問題のあるL・ローハンだが、やはり良いね、この子は。ただお肌が汚すぎます。夜中に何をやっていようが勝手だが、商売道具としては利用価値ギリギリ1円って感じ。はっきり言って、ジョージア役のJ・フォンダの肌の方が遥かに綺麗に見えた。
そのJ・フォンダだが、美人って・・・幾つになっても美人。羨ましいぐらいスタイルも良くて、在りし日の面影をしっかり残した素敵な女性だった。なんであんなに、ジーンズが似合うのかしら。
しかしこの映画の最大の功労賞は、リリー役のF・ハフマン。もともと男顔だと思っていたが、本作ではあられもない姿で暴れるわ、酔った姿を熱演するわ、盛大にぶっ倒れて顔から血を出すわ、化粧も控え目でとにかく痛んだ姿を見せてくれる。母ジョージアと娘レイチェルとの板挟みにあって、最も辛い立場で頑張ったと言えようか、かなりの体当たり演技で間違いなくMVPだ。
全く不器用で生き方の下手な女性達だったが、ようやく素直になって、最も大切な存在を正しい形で理解したと思われるラスト。女性が喜びそうな伏線の張り巡らし方からも、その後の彼女等の生活が目に浮かぶようだった。この映画、パート2を作って欲しいぐらいよ。

幸せのルールはママが教えてくれた幸せのルールはママが教えてくれた
(2008/03/13)
リンジー・ローハン.ジェーン・フォンダ.フェリシティ・ハフマン.ダーモット・マローニー

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『チップス先生さようなら』

2008年06月24日 23:36

〔米〕GOODBYE, MR. CHIPS (1969年)
監督:ハーバート・ロス
原作:ジェームズ・ヒルトン
脚本:テレンス・ラティガン
ピーター・オトゥール/ペトゥラ・クラーク/マイケル・レッドグレーヴ/ジョージ・ベイカー/ジャック・ヘドレー/シアン・フィリップス/アリソン・レガット/クリントン・グレイン/マイケル・カルヴァー/ナンシー・マーチャンド

伝統的なパブリックスクールであるブルックフィールド校で古典の教師をしているチッピングは、周囲からは愛称の『チップス』と呼ばれていた。生真面目で熱心なチップスは、生徒達に深い愛情を持っていながらも柔軟に対応する事が出来ず、堅物のような印象を持たれていた。ある夏の休暇に、活発で愛嬌のある女優キャサリンと知合いになる。長年厳格に暮らしてきたチップスだったが、華やかな女優と恋に落ちて結婚を決めるのだった。周囲には驚きを呼んだ結婚だったが、幸せに満ちた生活を送る2人。明るいキャサリンの影響もあってか、チップスもようやく柔軟さを持ち始めた。しかし永遠に続くかと思われ日々は、拡大する戦争の影に脅かされていた・・・。

この原作は、私の生涯ベスト5に入る作品だ。と言っても、その作品のほとんどは、私が読書を始めた頃に読んだものばかりだ。アガサ・クリスティの時にも書いたが、経験値が浅かった分、心にも記憶にも衝撃を残しただけなのかもしれない。
ということで、恐らくは中学後半か、高校1年頃に読んだはずだ。実は酷く心揺さぶられるというほどの作品でもなかったのだが、小説を読んで泣いたのが何しろ初めてだった。読書嫌いだったのに、小説に感情移入するほど読めるようになった事が妙に感慨深かったのを憶えている。
その後『小説を読んだよ』と母に話したところ、『映画が良かったのよ〜』といきなり映画の話。チップス先生役がP・オトゥールと聞いて、余りにもイメージにピッタリだ!と思ったのも強く憶えている。ひょろひょろと背が高くて、厳格で融通が利かなそうなイメージ。そのために生まれてきたのか?と思わせる程の適役俳優として、映画の存在も記憶に残る事となった。
おまけに母が、とにかくこの映画が良かったと熱弁を振るう。しかし、奥さんは女優で結構長生きすると聞いたので、原作と違うな?と。チップス先生と奥様の、短いながらも爽やかで瑞々しい恋愛模様が良かったので、なんだか映画は観る気がしないなぁ・・・と思って早十ウン年(笑)。
その十ウン年の間に、母は何度もこの映画の話をした。物忘れが激しいのか、母は良いと思ったことを際限なく繰り返す癖がある。それに、映画を良く観る割にそれを憶えている事は稀で、母がそれほど良いと記憶している映画なら、無類に良い作品であるはずだと思うようになった。鑑賞に当たっては、話も知っているので『ながら観』しようと思っていたのに、気がついたらじっくり腰を据えて観ていた。映画が終わった時、2時間半もの長尺だったことに初めて気が付いたぐらい。
確かに話は大幅に書き換えられているが、幾つかの印象的な挿話を忠実に再現する事によって、小説の世界を逸脱しないように構成されていた。それに、気になる妻キャサリンの『長生き』問題だが、小説を読んだ時、実際はこういう展開を痛烈に望んだのでは?と自問自答した。
書き換えられているのはキャサリンの事だけではなく、単純にロマンス映画に仕上がっている時点で大きく違う。この話でもってミュージカル、正直ソファーから転げ落ちそうだった。イメージが合わないことこの上ない。それでも、この映画は最高の作品だと胸を張って言えるのである。
まず、小説から抜け出てきたかのような完璧なチップス先生の姿。次いで原作を大切にした素晴らしい脚本。この物語は、厳格なパブリックスクールに於いて、それ以上に厳格で不器用な1人の教師が、60年近くも純粋に、自身が信じる教育という概念と生徒を、慈しみ守り、持てる全てを与えるという物語だ。生徒と抱きあって涙を流すような、妙な熱血漢はあり得ないのだ。この厳格さや不器用さは理解し難い部分もあるのだが、映画では非常に上手く表現されていた。
話の展開も中心軸も違うのに、驚くほどに小説とオーバーラップするその作り。とにかく私は、この小説を読んだ『あの頃』を強烈なまでに思い出し、その記憶が映像となって伝えてくれる事に感動して大泣きしていた。チップス先生の少しイラ付くほどの厳しさや無愛想さすら、妙に愛しいと思えた読了後、その気持ちが胸に充満していたのだ。
そしてこの映画をこれほどまでに完璧にしているのは、やはりP・オトゥールの熱演によるものだろう。言葉にならないほど素晴らしい、そしてありがとうという気持ちも、生きたチップス先生を見せてくれた事に対して。映像ってやはり凄い、想像には限界のあるリアリティを与えてくれる。
しかし残念な事が1つ。ロマンス色が強くなっていたので、チップス先生と生徒との繋がりが余り密に描かれていなかったところだ。やはり原作の焦点は教師としてのチップス先生なので、その辺りはいまいち消化不良だったかなと。そして最後の最後、小説のラストにあらゆる意味を付け加えたあの台詞を少年に言わせて欲しかった。そこまできっちり入れてくれたのなら、最終的に3時間になってしまおうとも、映画も文句無く、私の人生のベスト10に入れたのに。

『厨房で逢いましょう』

2008年06月18日 23:02

〔独/瑞〕EDEN (2006年)
監督:ミヒャエル・ホーフマン
脚本:ミヒャエル・ホーフマン
ヨーゼフ・オステンドルフ/シャルロット・ロシュ/デーヴィト・シュトリーゾフ/マックス・リュートリンガー

僅か3席のレストランを持つグレゴアは、子供の頃の憧れだった、立派にせり出したお腹を持つ天才料理人だ。一切の情熱を料理に捧げていたが、偶然親しくなったカフェのウェイトレス、エデンに心奪われる。彼の天才的な料理の腕にほれ込んだエデンは、次第に足繁くグレゴアのレストランへ通うようになるが、そんな2人の仲にあらぬ噂が立ち始め、エデンの夫クサヴァーにもばれてしまう。グレゴアもまた、エデンへの想いに悩み、ある重大な決心をするのだが・・・。

またか。。。またなのか、これじゃ『サスペンス』じゃないの!と言っても、面白かったけど(笑)。正直、カテゴライズは『サスペンス』で決まり!と個人的には思うが、それは確かに誇張しすぎかも?明らかに『大人のロマンス』を押し出した宣伝から、なぜに『サスペンス』になるのか?まぁ、とりあえず観てみて下さい(笑)。フィルムの色合いや雰囲気、落ち着いた演出などはドラマ寄りで、確かに冒頭に、『大人の』と付けたい落ち着いたロマンス映画と言えるのではあるのだが。
とにかくね、長年料理に没頭して、事実天才的な料理人である男でも、あれだけ太ってちゃあ・・・ね?とそんな彼に向かって、『あなたなら普通でもモテそうなのに、どうして結婚していないの?』とサラリと言っちゃうエデン。そんなエデンの無神経ぶりに、健気に耐えるグレゴア。エデンは一体何を求めて彼の元へ来るのか?私には、美味しい料理のただ食いにしか思えなかった。。。モテないわけでもないのだろうが、明らかにオイディプス的コンプレックスを持っていそうな男を、母の仮面を被って手玉に取る・・・というかね・・・。
2人の仲に不満を募らす夫クサヴァーにも、『ただのお友達よ♪ふふ、心配する事無いわ』と繰り返すエデン。そんな戯言が通用するほど、大人の世界は純白じゃありませんよ、と私は思う。
『エデン』という女性主人公の名前、これは・・・余りに直接的過ぎる『イヴ』を回避したが故なのでは?と途中から思い始めた。イヴに翻弄されたアダム(男)、都合が悪くなると、男の側から良く引用されるイヴ(女)の小悪魔的な要素。まさに、ま〜さ〜に、エデンに翻弄された男達。
しかし、物語よりも何よりも、グレゴア役のJ・オステンドルフが、プロの料理人かと思うほど手つきがこなれている。単に料理が上手い素人という枠を、遥かに超えた巧みな手捌き。かつて職場でどれほどあの手捌きを観てきたか、経験から解る玄人手つき、ただ者じゃないわあの役者。
大抵ロマンス映画を観ると『女性』の立場に立って観るので、この映画ほど、男性の立場に共感した事は余り無い。とはいえ、多分に女性的見地から、ではあるのだが。密かに想いを寄せていたエデンと近付いたグレゴアの気持ちの高揚、孤独だった日々に投げかけられた一条の光。この辺だけでも妙に共感してしまうのだが、さらに加えて、『料理を食べてくれる相手』が現れた、という事にどうしようもなく共感。解る、グレゴアの喜びが解ってしまう。
料理なんて、1人で作って1人で食べても全く嬉しくない。特にそれが『やたらと美味しく』出来てしまった時ほど、堪えようも無い孤独を感じる。むしろ自分1人のためになんて、晩御飯でも目玉焼きで十分なのだ。私にとっては『料理と食事』が唯一、孤独を痛烈に感じる事柄であるらしい。
グレゴアの料理が進化した理由も、無意識でも変わった事も、あらゆる事が手に取るように解るので、ラストの展開はもう・・・いつもとは違った意味でクッションを抱きしめながら、どうしようもない怒りに憤っていた。クサヴァーよりなにより、問題はエデンだわよ・・・。
1番心に残ったのは、クサヴァーがグレゴアのレストランで食事をするシーン。単なる料理と食事というものを、あれほど形態や印象を変化させながら見せる演出は初めて。かつては食の世界を志した者としても、ああした至福の表情を浮かべる人を見るのは、何とも胸が熱くなる。
時にグレゴアの料理は官能を呼び覚まし、時に苦悩を味わわせる。料理という媒体を通して、情緒的に描かれる人々の姿。グレゴアの辿った恋の道筋も、同じように様々な食べ物を利用して語られていく。ラストはまぁ、、、清々しいのではあるが、エデン・・・あんたやっぱり、つわものね。まぁ、変に悲劇ぶる主人公より、数段潔い感じもするのだが。

厨房で逢いましょう厨房で逢いましょう
(2008/04/23)
デーヴィト・シュトリーゾフシャルロット・ロシュ

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『ファウンテン 永遠につづく愛』

2008年06月16日 23:08

〔米〕THE FOUNTAIN (2006年)
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:ダーレン・アロノフスキー
ヒュー・ジャックマン/レイチェル・ワイズ/エレン・バースティン/マーク・マーゴリス/スティーヴン・マクハティ/フェルナンド・エルナンデス/クリフ・カーティス/ショーン・パトリック・トーマス/ドナ・マーフィ /イーサン・サプリー/リチャード・マクミラン

脳腫瘍に冒された妻のイジーを救うため、新薬の開発を急ぐ医師のトミー。しかしイジーの病状に追いつく事が出来ず、気持ちばかりが焦っていた。とうとう入院を余儀なくされたイジーは、自分が綴っていた物語の仕上げをトミーに託そうとする。その物語とは、中世のスペインが舞台。美しい女王イザベルに従う騎士トマスは、宗教戦争に巻き込まれた女王の命を救うため、ジャングルの奥地にあるという、永遠の命を与えてくれる『生命の木』を求めて旅立つのだった。

いや〜、騙されちゃったなあ〜。映画の宣伝も然ることながら、普段は余り軟派な髪型をしないH・ジャックマンがちょっと長髪なのが余りに素敵過ぎて、ついつい冷静な判断力を失ったね。まぁ、冷静な判断力があったとしても、相手役がR・ワイズでしょ、まず観たな、そこは間違い無く。
なんだかとっても素敵なDVDジャケ、宣伝用ポスターなども、美男美女の美しい姿が・・・ありましたけど、これは、全くもって『ロマンス映画』ではないね。
確かに、物語の基盤には1組の男女のロマンスがある。過去(劇中物語)においてはトマスとイザベル、現在においてはトミーとイジー、そして未来においては・・・あえて伏せさせて頂く。運命の相手という存在を通して、ざっくり言っちゃうと生と死というものを描いているのね。生きることと背中合わせの死。過去、未来において特異な生と死の存在を描きつつ、現代においては、生涯の伴侶と決めた人の死を受け入れられない男の足掻きが描かれている。
トミーは、いかにしてイジーの迫り来る死を受け止めるのか?まるで神にでもなろうとするかのように、これまで果たされなかった新薬を追い求めるトミー。反してイジーは、精神的な面から厳かに死を受け入れようとする。トミーに理解してもらう手立てとして、自分の書いた物語を渡したのかも知れない。現在を軸にして差し挟まれる過去と未来の描写は、観客も直面する身近な死を描く上で、過去は生を、未来は死を、ファンタジックかつ隠喩的に表現していたように感じた。
非常に哲学的なのだけど、こうした哲学論みたいなものって、語るべき資格がある人が語って初めて、受け入れられるものじゃないかと思う。監督・脚本をこなしたD・アロノフスキーの考えの1つではあると思うのだが、これをどれだけの人が受け止められるかというと疑問だ。私自信は輪廻転生を『信じたい』人なので、この映画の言わんとしている事も少しは解る気がした。となると面白いとも言えるのだが、この考え方に同調できない場合は、かなりの独りよがりな映画に感じるだろうなぁ?と思われる。ある程度同調していたとしても、結構ドン引きな演出もあったし(笑)。
『さぁ、H・ジャックマンの色気たっぷり堪能するぞ!』と挑んだので(笑)、展開に着いていくのに頭の切り替えに戸惑った。何なに?今この画面の中で何が起こっているの!?というね(笑)。
総体的には、かなりの意欲作でその意気込みは感じたが、製作者側の陶酔感が余りにも強く押し出されていたと言った感じ。この雰囲気で語るには、テーマもやたらと大きかった気がする。気負いこんだ割には、自己満足で終わってるかな?という気がしていささか残念だった。

ファウンテン 永遠につづく愛ファウンテン 永遠につづく愛
(2008/06/06)
ヒュー・ジャックマンレイチェル・ワイズ

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『ONCE ダブリンの街角で』

2008年06月08日 12:10

〔愛〕ONCE (2006年)
監督:ジョン・カーニー
脚本:ジョン・カーニー
グレン・ハンサード/マルケタ・イルグロヴァ/ヒュー・ウォルシュ/ゲリー・ヘンドリック/アラスター・フォーリー/ゲオフ・ミノゲ/ビル・ホドネット/ダヌシュ・クトレストヴァ/ダレン・ヒーリー/マル・ワイト/マルチェラ・プランケット/ニーアル・クリアリー ボブ

ダブリンの街角、多くのストリート・ミュージシャンが夢を追いかけ、既に生活の一部になった音楽を楽しむ場所。1人の男が、穴の開いたギターを手に、自作の歌を披露する夜。通りかかったチェコ移民の若い女は、その歌を良いと褒めてくれた。女はピアノを弾くので、2人は町中の楽器店で小さなセッションをする。呼応する音楽性と孤独な境遇。それぞれに愛する人を心の中に持ち、それでも満たされない思い。やがて男は、長年の夢を形にしようと思い、女はその夢の手助けをする事を承諾する。そして、幾つもの素晴らしいメロディーが録音されていくのだった。

これは・・・私にとっては感想を書くのがかなり難しい作品だ。なんと言ってもダブリンが舞台!となれば、冷静な判断は難しい(笑)。しかも主演は、映画『ザ・コミットメンツ』でジミーをバンドのマネージャーに引き入れるアウトスパン役のG・ハンサード。なんだか、あの名作ともダブる仕掛けに感じられる(多分に個人的だけど)。
ザ・コミットメンツ』が、アイルランドの現代(80年代当時)を切り取って、若者たちが音楽に情熱をかける姿を、卓越した物語に絡ませて『映画らしく』表現した『青春映画』とするなら、本作は、『映画らしさ』を意識しないドキュメンタリー風の映像と、簡素な脚本、シンプルな演出で、アイルランドの現在(2006年当時)を切り取るどころか丸ごとすくい取ってフィルムに写し、会話が下手な主人公たちの心の動き、感情の奥深く、様々な事柄を音楽によって語る、言い方を変えればこれは、『音楽』が唯一の主役だとも言える、秀逸な『音楽映画』である。
まるでハンディビデオのような映像、飾りの無い拙い台詞、風合いも荒削りで、それだからこそ、自分の旅行写真を眺めている気にもなるダブリンの街並み。余りにも『今』のダブリンの姿を如実に映し出すそのシンプルさ、飾りも何も無く、かといって削り取ったものも無い。主人公たちの暮らす家、日々の時間に見え隠れするダブリンは、あたかも今その地を訪れているような錯覚を覚えさせる。雑踏に揺さぶられた空気に乗って、漂ってくる異国の様々な匂い。踏みしめて歩く石畳の道の感触すら、足元に伝わって来るかのように感じられる。
沢山の人波に紛れて、何度も歩き過ぎたグラフトン通り。喧騒を楽しく眺めたテンプル・バー。僅かな太陽を楽しもうと訪れた、緑豊かなセント・スティーブンス・グリーン。ダブリンを訪れた事があって、あの町に堪らない魅力を覚えた人ならば、間違いなくこうした記憶を呼び起こす映画だろう。そして気が付くのは、そうした記憶の片隅に既に紛れ込んでいる、穴の開いたギターを抱えて歌うストリート・ミュージシャンと、真っ赤なバラの入ったバケツを抱えて歩く移民女性の姿だ。
映画の中で、人生でたった1度と思える大切な出会いをした男と女。きっとこの2人の姿は、ダブリンの街角で歌い続ける多くのストリート・ミュージシャン、アイルランドにも数多くいる、強く逞しく生きる東ヨーロッパからの移民者達、そんな彼等を濃縮した姿なのだろうと思った。だから特別な物語は無くても良い、特別な名前も必要ないのだろう。
アイルランドが、常にその存在と密接に結びついてきた音楽、多くの優れた筆者を生み出した詩情。そうしたかけがえの無い存在を通して、とても素敵で、控え目だけど希望に溢れた出会いを描いた作品だ。これまでも、そしてこれからも、ダブリンの街角で、幾度と無く繰り返されるであろう、音楽と人との出会いを。運命に紛れ、そして少しだけそれを変える、人と人との出会いを。
宣伝サイドはやたらと『ラブ・ロマンス』を強調したいようだが、実際この映画のロマンス度は低い。低いのだが、なんとも・・・じれったい淡い恋心が柔らかく心を締め付ける。しかし人生って、恋だ愛だとばかりは言っていられない、人生の転換期、踏ん張り所って時もあるだろう。
例えばそんな時に、背中を押してくれる人、誰よりも深い理解と共鳴を持ってくれる人、そんな人と出会えたらきっと、その先の展開は上手く行くと信じられる。自分のために、勇気付けてくれた人のために、倍の希望をもって歩けるようになる。G・ハンサードの軽くなった肩、颯爽と歩く姿を見ていたら、そんな明るい希望の淡い光を、全身に浴びている気持ちになった。そしてラストで初めて、主役の男と女の人生が、改めて再び動き始めたのだと思った。
それにしても、私熱いな(笑)。アイルランド好きというのが、どれほどのフィルターになっているのか、よもや判断不能。かなり過大評価をしている事は間違いないのだろうが、アメリカでの口コミでのロングランヒット、アカデミー賞歌曲賞受賞、その他錚々たる賞へのノミネートの数々。そうさ、間違いないのさ、これはまさしく、人々の心に響く素晴らしい映画なのだ。

ONCE ダブリンの街角で デラックス版ONCE ダブリンの街角で デラックス版
(2008/05/23)
グレン・ハンサードマルケタ・イルグロヴァ

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『ルイスと未来泥棒』

2008年06月07日 12:48

〔米〕MEET THE ROBINSONS (2007年)
監督:スティーヴン・J・アンダーソン
原作:ウィリアム・ジョイス
脚本:ミシェル・ボックナー
ダニエル・ハンセン/ウェズリー・シンガーマン/ニコール・サリヴァン フラニー/ハーランド・ウィリアムズ/アンジェラ・バセット/スティーヴン・J・アンダーソン/Matthew Josten/John H. H. Ford/Dara McGarry

赤ん坊の頃に孤児院に預けられたルイス、利発で発明好きだが、発明品はいつも失敗ばかり。産みの母親探しを決意したルイスは、産まれた頃の記憶を探るための『メモリー・スキャナー』開発に乗り出した。完成品を展覧会に出品したところ、怪しい山高帽の男の邪魔が入る。そこに現れたのはウィルバーという少年。未来からやって来た彼は、半信半疑のルイスを連れてタイムマシンに乗り込んだ。カラフルで夢のような未来では、ウィルバーの愉快な家族が待っていた!

年間何本と製作される『CGアニメ』、こちらはディズニーの作品。昔は定期的に『セル画アニメ』を発表してくれていたディズニーだが、CGの威力には屈服するか・・・。なんだか寂しいなぁ。以前は『美女と野獣 』、『リトル・マーメイド』、『アラジン』等など、ディズニーならではのキャラクターが愛らしい劇場版(セル画)アニメが発表される度、必ず映画館まで足を運んだものなのだ。あの色合いの美しさ、動きのしなやかさなどは、やはり大画面で観なくてはダメ!という自論。
大変申し訳ないが、CGアニメなら家のちっこいテレビで十分。リアルさを楽しみたいなら、実写映画を観るから結構よ。ふぅ〜、なんか虚しいなぁ・・・。と言う事で私は、余りCGアニメは観ない。何だか本当に虚しくなるのよ、人間はこんな風にリアルな虚構を生み出したらいかん!と激しく思うわけ。セル画の朴訥さが猛烈に懐かしい。
と言いつつも、この作品は何故か観たかった(笑)。話の主題は、孤児である少年の本当の家族探し、そこにタイムトラベルが絡んでいると聞けば、物語も好みそうだったし。結論としては、面白かったね、期待した程ではなかったけど。グープが可愛かった(笑)。ちなみに原作もあって、そちらはもっとほのぼのムードだ。映画の原題はウィルバー及び愉快な『ロビンソン一家』との遭遇といったところ。原作の方は家族との触れ合いがメインらしいのだが、映画の場合だと、邦題も中々に興味を惹き付けるタイトルで、原題よりも内容的にはまっているかな?という気がする。
映画のメッセージとしては、振り向くな、前を見て進め!といった、青少年向けで非常に解り易い内容。これが適度に感動的に面白く描かれていて、大人が見ても何となく希望が持てるような仕上りで好感が持てる。人生は『Keep going forward』なわけですよ(笑)。監督が実際に孤児で、ルイスと似たようなことを色々と考えて育ったそうだから、過去に固執しない強さとか、本当の家族を求める気持ちとか、ルイスに現れた感情がごく自然に見えたのかもしれない。
物語は大人が納得できるほどのレベルではないかも知れないが、子供ならきっと何だかの夢を抱けるはず。奇想天外なレベルはもちろん大人も十分に楽しめるだろうし、個人的には概ね満足。さらに、かなりツボにはまって満足なのが、実は今回は『音楽』なのだ。
Jamie Cullum、The All-american Rejects、Rufus Wainwright、Rob Thomas!かなりの検挙率(笑)。それほど音楽を聴くタイプでもないので、映画で知っているミュージシャンに出くわす事は余り無い。まして自分がアルバムを持っているような人に出くわすのは、本当に稀なのだ。声を聞いただけで名前まで解る場合は更に稀で、今回の場合はJamie Cullumだけが判明。
残りの方々は、気に入ったのでアルバムを入手しよう〜と思って調べたら・・・なんだ・・・、全員持ってる・・・という(笑)。何となく無く、抜き打ちテストを受けた気分だ。ちなみに、既存の曲であればさすがに私も解るが、今回はほとんど書き下ろしだったらしい。という事で、オリジナル・サウンドトラックは私にとってかなりお買い得商品かも?結果的に、個人的にはなかなか嬉しいおまけが付いた作品となった。

ルイスと未来泥棒ルイスと未来泥棒
(2008/04/23)
ディズニー

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ぽすれん『ルイスと未来泥棒』紹介

『クィニー』

2008年06月03日 23:43

〔米〕QUEENIE (1987年)
監督:ラリー・ピアース
原作:マイケル・コルダ
脚本:ウィンストン・ビアド/エイプリル・スミス
ミア・サラ/カーク・ダグラス/サラ・マイルズ/クレア・ブルーム/ジョエル・グレイ/トポル/マーティン・バルサム/ジョス・アックランド/キャリー・グレイ/リー・ローソン/ケイト・エマ・デイヴィス

カルカッタで宿泊所を営むインド人の母と暮らすクィニーは、イギリス人の父を持つ混血だった。情勢の定まらない不安定なインドで、母娘と叔父の3人で必死に暮らしていたが、やがて不幸な事件に巻き込まれて国外脱出を余儀なくされる。母から『祖国』と教えられたイギリスに渡っても、差別と貧しい暮らしは続き、止む無くクィニーはストリッパーとして舞台に立つ。持ち前の美貌から人気者となったクィニーはドーン・アヴァロンと名乗り、オーストラリア出身の女優として映画に出演する事になる。しかし、映画の撮影はインドで行われる事となり、重大な秘密を抱えたままインドへ戻るクィニー、そこで彼女は、忌まわしい過去と対面するのだった。

さて、私はオンラインのDVDレンタルを利用しているが、マイリストには常に200近いタイトルが保存されている。共演者が好みで、解説を読んで面白そうだなと思えば、詳しい調査もせずにマイリストに登録してしまう。登録はするが直ぐには観ないので、たまには登録した理由も忘れている場合がある。それで時折、『やっちまった!』という映画に出くわす事がある。
『この映画もそうだ!』と大声で言い切るものでもないが・・・かなり近いと言えるだろう。なんせ230分超えの超大作、しかも単なるTVM、おまけに古い。『自動発送』にしておいて、届くまで登録した事すら忘れていたこのDVD。観ないで返してしまおうと思ったのだが折りよく風邪をひき、DVD到着の翌日に会社を休む・・・。観ろって事か・・・。
結論を端的にまとめると、最後まで観た私ってば偉い!という自画自賛する気持ちが、抑えようも無く湧き上がってきた、それ以外はほとんど無い。だって約4時間ぶっ通しですよ!?TV東○で昼に再放送していそうなドラマ並みのショボさと質の荒い映像。演技はそこそこなれど、いかんせん演出が古いテレビ・ドラマのレベルを一切出ていない。物語も、起伏に富んでもいなければ真新しくも無く、かといって飽きるでもない中途半端さ。
映画の情報入手のために良く利用している大型サイトの紹介をいじらせていただくとするなら、『ストーリーを手際よくまとめた脚本・演出』、手際良く・・・は全く無かったわよね?『長尺も気にはならない』、ウソをつけ!大法螺を吹くでない、ムチャクチャ長尺気になった、むしろここまで長くなければ、手放しで面白かったと思えるのでは?というぐらい、長尺が気になった。
『大物俳優も多く出演しており、その意味での充足感もあるが』、私はC・ダグラスしか知りませんけどね、言うほど大物は・・・出てないと・・・。従って充実感なんてのも・・・。『M・サラの繊細な美しさがやはり良い』、そこか、結局そこか、、、好きなだけだったのね。。。。
話を大分綺麗にしているのじゃないか?と疑いたくなるような、陳腐な演出なのも気になった。生活のためとは言え、ストリップをやるほど大胆で、自分から売り込みをするぐらい強かな女が、どうでも良い事に健気過ぎるのね。創作部分は大方この『清純無垢さ』だろうな〜?と想像してしまうぐらい、物語とその印象が噛合っていないこと甚だしい。
いや〜、このレベルの作品を、良く4時間枠で作ったなと、なんだかどうでも良い事に感心してしまう。どうやら前・後半の2部構成らしいのだが、それを何故1本にまとめた・・・?DVDも上下巻だったなら、絶対警戒して借りなかったのに(笑)。

ぽすれん『クィニー』紹介

『ヴィーナス』

2008年06月02日 22:51

〔英〕VENUS (2006年)
監督:ロジャー・ミッシェル
脚本:ハニフ・クレイシ
ピーター・オトゥール/レスリー・フィリップス/ジョディ・ウィッテカー/ブロンソン・ウェッブ/リチャード・グリフィス/ヴァネッサ・レッドグレーヴ

かつては名の知れた俳優だったモーリスは、70歳を超えた今でも、時折はテレビの仕事が入って来ていた。盟友でもある同年代のイアンの元に、歳若い姪がやってくる事になる。色々と世話をしてもらうのを楽しみにしていたイアンだったが、やって来たジェシーは我侭で勝気な手に負えない娘だった。若い頃は女遊びも派手だったモーリスに、何とかして欲しいと頼み込むイアン。その機に乗じてジェシーを連れ歩くモーリスは、やがて彼女の若さの虜になっていく。

いや〜、もうとにかく『痛い』映画だった。重箱のどの隅を突付いても『痛さ』が滲み出てくるというか・・・。製作者陣は、この映画を通して一体何が言いたかったのか?
確かに人間は、自らが避けられないと思うような未来や苦境を見せ付けられると、耐え難いほどの憤りを感じるだろう。この映画を観た若い人達は、この先の人生、突発的な事故や病気に見舞われない限り、自らの姿をモーリスにダブらせる事になるだろう。そういう意味でもまず痛い。
そして、身内にモーリスと近い年の人がいる場合、今現在を彼にダブらせるという苦境もあるだろう。自らがモーリスと同じ立場の人は、果たしてどう感じるか?人間は老い、若さというものは、いかなる資産家でも権力者でも、再び手に入れる事は出来ない。しかし人は、どれほど滑稽なまでに、その若さを求める気持ちを捨去れないものなのか・・・。
180度見方を変えて、老境に喘ぎつつ、かつての栄光を気に留めないようにしているのか、その虚栄を押さえつけるためだけに、生の活力全てを傾注してしまっているかのような老人モーリス。そんな彼が、自らのプライドも、意地も、尊厳も投げ打つかのように手に入れた、若いジェシーとの時間は、彼がかつて望んで送った輝かしい時代を思い起こさせる、最後の縁となったのか?モーリスの最後の瞬間が、熱く輝く糧となったのか?いずれにしろ・・・やっぱり痛いよ・・・。
大体ね、この映画自体が、奇麗事を排除しようと奮闘しているように感じる。老人を徹底的にみすぼらしく、憐れっぽく描くのは良いとしよう。でもそういう場合はどこかに救いが無いと、私みたいに偽善的な観客には耐えられない。例えばそういう救いって、現実の役者をメイクで老けさせているだけという安心感でも良いが、実年齢以上に老けてヨレヨレに見えるP・オトゥールにまず愕然とする。かつての颯爽とした姿をしっかりと知っているだけに、何とも胸が痛い思いをさせられる。何よりショックなのは、ウチの母と同い年・・・。お断りしておくが、ウチの母の方が10歳は若く見える!P・オトゥール、老けすぎですってば!
モーリスが憧れる若いジェシーが美しければ、それでもまだ救われるが、これがもう・・・普通にロンドン市内をだらしなく歩いていそうな、『素人!?』と聞きたいほど本腰が入った野暮ったい女なの。良くこれほど平凡で野暮ったい、ある意味ロンドンらしい女優を見つけて来たわね〜、と軽く感心すらしたが、実際の姿はとても可愛らしい感じ。化粧って、演技って、、、怖いわ。
だからもう、モーリスがなぜジェシーに心酔していったのか?それこそ色々な理由は考え付くのだが、どれも納得なんかしたくも無いようなものばかり。そもそもこの映画、観客を救おうなんて思ってくれているのだろうか?これ程の痛さの中に、一体何を見出せば良いのか?
ラストではある種の救いはあったのだと思うのだが、私にとっては、許容しきれない痛みのほうが衝撃が大きくて、正直なんらの感慨も浮かんで来なかった。私は軟な出来なので、ディケンズ的シニカルさと寛容さの方が、それゆえに生じる甘ったるさも全て甘受できる面白さを感じる。

ヴィーナス 特別版ヴィーナス 特別版
(2008/05/08)
ピーター・オトゥールレスリー・フィリップス

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ぽすれん『ヴィーナス』紹介

『フェアリーテイル』

2008年05月27日 22:47

〔英〕FAIRY TALE: A TRUE STORY (1997年)
監督:チャールズ・スターリッジ
脚本:アーニー・コントレラス
フローレンス・ホース/エリザベス・アール/ポール・マッギャン/フィービー・ニコルズ/ビル・ナイ/ボブ・ペック/ピーター・オトゥール/ハーヴェイ・カイテル/アントン・レッサー/アンソニー・カルフ

第一次世界大戦時のイギリス。母を亡くし、父は戦地で行方不明となった8歳のフランシスは、ヨークシャーに暮らす伯母夫婦に引き取られた。大人しい従妹のエルシーは12歳で、やんちゃなフランシスの良い姉代わりとなった。エルシーの兄は数年前に病で亡くなっていたが、その悲しみから立ち直れない母を救おうと、兄の信じていた妖精の写真を撮る事を思いついた2人。そうして撮られた幻想的な少女と妖精の写真は、やがてその真偽を巡って、アーサー・コナン・ドイルやハリー・フーディニなどの著名人をも巻き込んだ、大きな論争の火種となってしまう。

イギリスで実際に起こった、『コティングリー妖精事件』を下敷きにした作品だ。映画でも描かれ、当時は大論争が巻き起こったというこの『妖精』の写真、観客の皆さんはどう思われるだろう?
その真偽の程は後年明らかになったというが・・・・、そんな現実的な話はどうでも宜しい、いるんです!妖精はいるの!!主演のエルシーとフランシスを演じた、それこそ天使のように天真爛漫で可愛らしい2人に免じて、邪推も御託も一切無しにして!私は全面的に賛同する!!
とかく、『純真・無垢・愛らしさ』という形容は、少年よりも少女に対して使われる事が多い。昨今の映画であれば『エコール』が、幻想的に、多少の淫靡さも内に秘めつつ、少女時代の短くも美しい純白さを、アーティスティックに描ききったと言えるだろう。さすれば本作は、いかに地面に叩きつけようとも、決して汚れることを知らない輝きを持った穢れ無き純白のボールを、真直ぐ一直線に胸元に投げ込まれたような、そんなストレートさ(笑)。
基本的に子役に関しては、演技が凄いと思ったり顔が可愛いと思うことはあっても、存在や役柄の愛くるしさに惹かれる事は無かった。しかしだ、この2人なら養っても良いぞ!と思った(笑)。特に、エルシーのあの健気な雰囲気、思わず抱きしめたいぐらいだったわ。
妖精欲しさに森を荒らしたり、その真偽を巡って喧々囂々してみたり、そんな間抜けな大人達を余所に、子供らしく屈託無く、だからこそ心から妖精を信じ続けるエルシーとフランシス。戦時下という希望の無い時代だったから尚さら、幼い心は妖精を求めたのだろうか?とにかくね、あたし真黒だよ、身も心もザラザラするほどに真っ黒けだっんだよ!と自分の黒さに嫌気が差した。
さて、己の真黒ぶりを実感して凹んだ後は、大喜びな役者の競演が待っていた。B・ナイにクスっと笑い、P・オトゥールのはまりっぷりにニヤリとし、H・カイテルにほぼノックアウト状態。そしてエルシーのお父さん、アーサー・ライト氏を演じるのは?はて・・・どこかで見た顔だ。あの優しそうな大きな瞳・・・、単にジム・ガヴィーセルに似てるというだけでもなさそう、P・マッギャンって?
がぁぁぁ〜、ホーンブローワーのブッシュ二等海尉のちにブッシュ副長、要するに『ブッシュ君』じゃないの!サブ・キャラの中だったら、ジェイミー・バンパーに次いで好きだったな。やっぱり素敵じゃないの♪ついでに、カメオ出演でメル・ギブソンが登場するのだが、これが、ビックリするぐらいカメオなのに、さすがと言うほど存在感があって、ある意味驚く(笑)。
そしてとにかく、景色が綺麗だった。特典映像では子供たちも言っていたが、あの場所なら本当に妖精が出てきそうなほど、幻想的な雰囲気すら漂っている。そんな、不思議な事が平然と起こりそうな程の自然を背景にして、結局のところ、現実的に妖精がいるのかなんて事は全く問題じゃないのだと、映画は語っているかのようだった。各々が、どう感じるかが大事なんだと。
実物が無いなら信じないとか、そういうのは心が寂しいって事だ。妖精でも、それこそ神様でも、いると信じられる人にとっては、紛れも無く真実になる。他人がどう思うかなどと言うことも関係無い、いないと思うなら、その人の世界に妖精は『いない』というだけの事だ。だから、妖精を心から信じた少女2人に訪れた幸せは、間違いなく『彼等』がくれたという事になる。H・カイテル(フーディニ)のラストの台詞が、全く正直にストレートに伝えてくれてると思うのだ。
少女たちの優しい気持ちが、そのまま妖精に姿を変えると私は思っている。だからこそ、見える人には見えると言い切れる。だからこそ・・・、妖精の真偽を探るために大勢が見入った写真、その中には、紛れもなく本物の妖精が写っていたとは、言えないだろうか?

フェアリーテイルフェアリーテイル
(2004/11/25)
フロレンス・ハース

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ぽすれん『フェアリーテイル』紹介


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