『モーターサイクル・ダイアリーズ』再び

2008年01月31日 23:16

2度観ると良いな、と思える映画がある。どんな映画が良いか?それはその人の状態、成長の過程において様々な作品を挙げられるだろう。
過去に何回か、観直して良かった、と思えた作品に出会った。反対にというか、何度観ても同じ感想、そして同じ感動を与えてくれる作品もある。今ここで1つ挙げるとしたら、やはり『プラトーン』だな。あれは戦争映画として以外でも、『人間』という存在の複雑さ、社会の難しさ、『暗』の部分ではあるが、抱えきれない程の『大人の真実』を私に教えてくれる。

はてさて、今日はBSで『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観た。これは丁度ガエル・ガルシア・ベルナルに興味を持ち始めた頃の映画で、映画館まで行って見た。感想は読んでいただければ良いのだが、短い(笑)。冒頭に明記してあるが、この頃の私は、『南米』の歴史に関して無知も良い所だったのだ。
それで後悔した、思いっきり後悔したのは今でも良く憶えている。それから色々ありました(笑)。約3年の間に、様々な映画や小説によって(いつもこれ、決して教科書やニュースではない!)、南米の歴史をポツポツ学び、今はコロンビアに毎月支援金を送っていたりする。また単純というか(笑)。このきっかけを作ってくれたのは、何度か書いているが、『イノセント・ボイス 12歳の戦場』であって、寄付国を選べないタイプの支援活動だった割に、運命めいたものすら感じている。

さて、『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観直してみてビックリだ!初めて観た時も、『青春映画』としては質が高く非常に面白いと思ったものだが、これほど上手く出来ている、革命家チェ・ゲバラを描いた作品だったとは!まぁ〜、私の目はやはり節穴だったのですね。。。
映画を観終わった時友人に『歴史を知らずに観ちゃいかん!勿体無い!』と熱弁を揮った私。その時友人に『あんたならそんな事言うと思ったわ〜、関係ないじゃん、そんなの』と窘められたが、私は全く納得できなかった。今は誠に勝手ながら、その意見に揺ぎ無い確信を抱いている。こういう映画はやはり、歴史をお勉強した上で観るべきだ。

いやもう、ビックリしたね。エルネストという恵まれた環境に育った青年が南米大陸の実態を肌身で感じ、どんな時に、何があって、誰と語って、後の活動に繋がる思想を培っていったのかが、細部にわたって巧みに描かれていた。
英雄でもあり、悪名も高い男チェ・ゲバラであるが、その彼が、どれほど高い理想を掲げていたのか、良く解るような気がする。ラスト付近でエルネストが語る言葉、旅を続けた友人の密かな不安。ああ、、、ああ、、、大画面で見ている時に感じたかった。もしあの時同じ知識があったなら、私もきっと、胸が震える様な、青春を呼び起こすような熱い感動があったろうに・・・。

エルネストが初めて共産主義の流浪の民と出会ったシーン、あれは異常に良く憶えているが、今回観直してみて、このシーンがどれほど重要な一場面であったか思い知った。前回は目目立ってエルネストが感じた部分しか彼を革命家に急き立てる要因が見えなかったが、今回はその要素が『全編』に漂っていたのだとはっきり解る。
これは青春の一部分を鮮やかに映し出したロードムービーであると同時に、世界的に有名な男の誕生の物語。今回この両方の混在を理解できて本当に良かった。

ああ映画って、何度観ても楽しめるものなのねと、今更ながらに再確認。まぁ、二度目に観たらつまらなかった・・・という落とし穴もあったりするが、理解が足りなかったな・・・と思う映画は、もう一度時間を置いて再検してみようと心に誓った。これほど自分の不理解に悶々とした映画も、実は余り無いのだけどね。いつもは、比較的安全なところを突付いているから(笑)。

それにしても、ガエル・ガルシア・ベルナルが精悍で素敵だったわ〜。やはり彼は、母国語の劇に出ている時の方が格段に素敵だな。最近どうも、かつてのオーラが無くなっているような気がしていて寂しかったが、ぜひまた、こうした素晴らしい作品に出演して欲しいもの。

Heath Ledger

2008年01月25日 22:38

ヒース・レジャーが亡くなった。その突然の死による衝撃から、今ようやく立ち直り始めているが、この関連のニュースはなるべく見ないようにしている。ようやく立ち直り始めたのに、また直ぐこの事実を知った状態に引き戻されてしまうからだ。

彼を初めて映画で観たのは、確か『チョコレート』。私にとっては話題先行型の俳優で、この映画でようやく本人の動く姿を見たと記憶している。
主人公の息子役で、登場時間は少ないながらも、引き際の壮絶さ、十分な存在感、その姿に魅了された。役者として気になったので、次々にその出演作を観たが、『サハラに舞う羽根』では、良家の子息から砂漠に乗り出して変貌していく様に、良い役者になるかも?と思った。この人ただ者じゃない臭いがすると、単なる美形俳優で騒がれるだけじゃないはずだと。
その後『ケリー・ザ・ギャング』、『ロード・オブ・ドッグタウン』と観る内に、予測は確信に変わった。話題になった『ブロークバック・マウンテン』で、若いながらもその俳優人生を結実させたかと思わせる素晴らしい演技。冒頭からラストに至るまで、間違いなく彼は映画の中にしっかりとその存在を焼き付けた。
今後も新作が控えていた。GW公開の『アイム・ノット・ゼア』、そしてバットマン・シリーズのジョーカー役。今年製作予定では、テリー・ギリアム監督作品が控えていたというのに、、、。彼の新作がもう後2本しか残っていないなんて、それを観てしまったら、新しい驚きや楽しみは潰え、後は過去に生きるだけになってしまうなんて。。。残念で、残念で仕方が無い。

その容貌は、必ずしも美男子というわけではない。好男子である事は確かだ。役柄によって自分を創り、それでいて自分を決して殺さない役者。観ていて楽しい役者は多々いるが、彼はその中でも上位につける興味深い役者だった。
作品選びも個性的で、心から納得した役を選んでいるのだなぁと思わせる。そうした姿勢も、とても好ましく思える人だった。固定概念に縛られない役柄を数々こなし、一見すると埋没してしまいそうな容貌を上手く利用し、それだからこそ人気があり、無二の存在になれたのじゃないだろうか。返す返すも、、、失った存在に対する喪失感は大きい。

良くTVで、芸能人のお葬式で辺り憚らず号泣している人を見る。これまでは憧れから生まれる強い愛情がそうさせているのだと思っていた。今はそれだけじゃないんだという事が解る。そこには、計り知れないほどの喪失感があったのだろうと。
今の私がまさにそうだ。自分でも驚いてしまうぐらいに、底なしの喪失感に包まれている。これまで自分が興味を持っている芸能人の死を経験したことが無い。数多くの芸能人の訃報を聞いてきたが、驚き以上の感情が芽生えた事は余り無かった。ダイアナ元妃が亡くなった時は街中で号外を読んだ。さすがにこの時は足の力が抜ける思いを味わったし、その後も『惜しい人を亡くした』という強い思いがあったが、私個人に繋がる喪失感は無かったのだ。
リバー・フェニックスが亡くなった時は、その桁違いの人気の高さ、カリスマ性、実力、全てにおいて、唐突な出来事に対する大きな驚きが勝った。その他、今もって大きな人気を誇る、若くして亡くなった有名人達。ジミー・ヘンドリクス、ジョン・レノン、ジャニス・ジョプリン、ジェイムス・ディーン、そして、アメリカを救おうとしたJ・F・ケネディ。
彼等を失った時、彼等を支持していた人達の喪失感は、計り知れないほどの大きさだったのだろう。これまで画面上でその当時の様子を見知ってはいたが、今ならどれほどの悲嘆が彼等を襲ったか、良く解る気がする。
こうした人達に肩を並べるほどまでは、ヒース・レジャーが俳優として高みにあったとは言わないが、こうした人達が多くのファンに与えた衝撃を、ヒース・レジャーは私に打ちつけた。人の存在や意味というのは、対する人がいて、その比重が変わってくるものなのだ。

本当に、本当に、いつも楽しみにしていた役者だった。容姿が好みな役者、演技がずば抜けて凄いと思う役者、将来性を楽しみに出来る役者、私が興味を持って追い続ける役者は幾人もいるが、ヒース・レジャーは正直その筆頭だったのだ。今後この先、一体どんな役をやってくれるだろう?どんな素晴らしい映画に出演してくれるだろう?という期待感が常にある役者は数少ない。シリアスもコメディも上手くこなし、その容姿すら適材に変貌させる。そんな彼の出演作は、一口にまとめてしまえないような幅と、質の高いものが揃っている。

彼の死が安らかなものであった事を祈って、その死が、無為な中傷で汚されない事を願って。そして彼の残した作品が、これからも素晴らしい業績として多くの人を楽しませる事を希望して、28歳という、余りにも若いその死に、惜しすぎる存在を失った悲しみを込めて。しかし、私にとっては、枯れない楽しみを常に与えてくれた事に感謝して、これからも繰り返し楽しめる、素晴らしい作品の数々に出演しくれたことに感謝して、心より、ご冥福をお祈りいたします。

物の価値観

2008年01月19日 21:40

先日、両親と会った際に、『とにもかくにもお金が無い!』という話になった。そこから家族の財政状態の話になっていったのだが、両親は一度として経済的に裕福だった頃は無いが、その使いっぷりは見事にお金持ちのそれだった。
まず、値段を見て買い物をしない。セール品などには余り興味が無い。母は時折、直系50cm程もの銀のお盆や、南米の意味不明な置物(1万くらい)などを買うが、これは母の道楽。ケチケチして人生に潤いが無いぐらいなら、多少苦労しても、そうした楽しくなるものを買いたいそうだ。買うのは良いのだが、全く使わないどころか飾って楽しんだりもしないので、頼むからそういう無駄は辞めてくれ、といつもお願いしてしまう。

反して私は、一円でも安い買い物をしたいので、スーパー3箇所、薬局3箇所を利用している。良く買うものの平均価格は大抵憶えていて、3箇所の中から安い場所で買うのだ。その為、休日は幾つのもスーパーや薬局を回る事もたまにあり、単なる日用品の買出しもこれでなかなか一大行事だったりする。

当然母は、そんな私の行動が理解出来ないと言う。私は、母の無頓着さが理解できない。そんな状態で、貧乏だなどと言って欲しくない・・・が、実際両親はかなり貧乏なので、買い物にもう少し気を使ってくれれば、と思わずにはいられない。
ちなみに私がそこまでするのは、消費者対企業の戦いと感じているからだ!
一円でも安く、これはもう、一般市民の共通する願いであると心得、その道を追求するために、日々企業側と戦っている。一円でも高い価格表示をつけた店でなど、買い物をする道理は無いのだ。その危機感を企業側に感じさせるべく、消費者は団結しなくてはならないのだ!!

と、息切れしそうなほどまくし立てていたら、母が言った言葉。
『あんたそれだけセコく生活してるのに、毎月3000円も寄付しているのは良いわけ?』
詳しくはコチラの日記をご参照いただきたい。

そう来たか・・・。母は何事にも冷めた物の見方をする人だが、私のこの寄付活動に関しては、周囲でも1番理解を示してくれた人。この台詞も、決して意地悪というわけではない。
大抵の人は買い物をする時に、金額をそれだけで判断するのではなくて、品物と比較して考えているのではないだろうか?例えば1斤1000円のパンは高いと思うだろうが、それが最高級の素材ばかり使っていたとしたら、1000円で妥当と考えるだろう。
別の見方とすれば、3000円のお弁当は高いと思うが、3000円のセーターなら安い。3000円のお弁当を買うのは躊躇するが、3000円のセーターなら悩む事無く買えてしまう。その時究極に貧乏でなければ(今のように)、物に比較した値段で損得勘定をすると思うのだ。
その物に見合った価格なら妥当と考えるだろうし、妥当と思える価格より安かったりすれば、それが例え1万円を超えていたとしても、お得感は十分得られるわけだ。だって、ちょっとぐらい貧乏でも、5万円でヨーロッパ10日間の旅が買えるとしたら、迷う事無く購入するでしょ?あれ、しませんか???往復の飛行機代、宿泊、食事全て込みでも???

長くなってしまったが、私にとって月々3000円の寄付金は、全く妥当な、いやむしろ安いぐらいの金額なのだ。僅か3000円で、もしかしたら学校が建つかもしれない、もしかしたら病院が出来るかも知れない、もしかしたら薬がすこしだけ多く買えるかも知れない、もしかしたら、誰かの命が救えるかも知れない。人の命の値段としては、申し訳ないぐらいの金額だろう。学校に通えない子供が学べるようになる、そしてその子供は、より良い未来を手に入れる。そんな1人の人生を芳醇にするための金額としては、高いというものではないはずだ。
そのためになら、私は1円をケチるために走り回れる。例えばそうして3000円を浮かせるのは、決して大変な行為ではないはずだ。別にそれで3000円浮かせているわけでもないのだが、私にとって、寄付の3000円は決して高い金額ではない。

とまぁそんな事を、またしても息切れしそうに語っていたら母がまた1言。
『そんでさぁ、あんたそのお金、ちゃんと使われているわけ?詐欺なんかじゃないんでしょうね?』

母よ・・・。冷めすぎです!
その辺はきちんと調査して、しかるべき団体に託している・・・つもり。
しかしこれからはもっと、寄付金の成果の報告書をきちんと読もうと肝に銘じた。

お酒の飲めない飲み会

2008年01月18日 22:42

いや〜〜〜、お金が無い。もう笑うしかない!というぐらい、懐も口座も寒い寒い。ここ最近の気温の降下なんて目じゃない!というぐらい、寒い。私の金銭の持分は、昨年11月頃から人生最高潮というぐらいの寒波が襲って来ているのだ。

9月末に仕事を辞め、海外旅行なんかに行っちゃって、挙句の果てにまともな仕事も無くてフリーター・・・と言えば、そりゃ貯金も底を尽く。尽いたどころか、マイナス値を示し、家賃を払うのがやっとという有様。
家での食事はとことんまで劣悪なものになり、良くこれで生きてるなぁというぐらい。そこは配膳、飲食のバイトのおかげで、時折まともな物が賄として食べられるのがありがたい限り。

という事で、友達と遊び歩くなんて豪勢な事は、ここ当分お預けだ。今週末は友人数人と新年会の予定だったが、一次会の予算だけで5000円と言われ、申し訳ないがお断りした。友人も気を使ってくれて、二次会は喫茶店でやるからそれなら来られるでしょ?と。情けない気持ちは強いが、こういう時こそ正直にみっともない姿を晒せるのも、良い友達を持てばこそだと感謝している。

・・・感謝している、のだが・・・。実はちょっと安心もしている。
何故か?というと、時折会っては盛り上がるこの友人連中、私の知り合いの中でも(男性含む)、ダントツで『酒飲み』連中なのだ(笑)。全員女性なのだが、とにかく酒豪揃い。
そして私はお酒が飲めない。調子が良い時でもビール(グラス)で2杯程度。醸造・蒸留関係は全て苦手で、焼酎はとにかくダメ。よってサワーも飲めないので、居酒屋が苦手だ。リキュールの類ならカクテルにするので比較的いけるのだが、甘いものが苦手なため、実は余り好きではない。普段でもジュース類はほとんど飲まないので、カシス・ソーダなんて甘くて甘くて。

そんな訳で、いつも彼女等が豪快に飲む傍ら、1人ウーロン茶だとか可愛らしいカクテルだとかを数時間かけて啜っている。次々と注文されるワインのボトル。場所によっては日本酒、焼酎のボトル達。焼肉に行けばマッコリを瓶で注文。それも繰り返し繰り返し。
そして飲み代は『割り勘』なのだ。だから彼女等の飲み会は高額だ。しかしどうしたって考えてしまう、私はそこまで飲んではいないと。今回も確認したら『飲み放題』ではないという。これは確実に5000円超えるな・・・と思えばこそ、申し訳ないがお断りしたのだ。とにかく今は余裕が無くて、人の飲み代まで払ってはいられないのだ。

趣味が高じてアイリッシュ・パブに行くようになってから、自分の飲み代がいかに安いかという事を認識した。お酒などを買うたびにお金を払う『キャッシュ・オン』方式が多いアイリッシュ・パブは、私の救世主となったのだ。
以前など、女友達(コイツも酒豪)とアイリッシュ・パブに行き、食べ物を割り勘にして私は2500円程度、友人は6000円以上払った。これでも友人は抑え気味。お酒が飲める人にとっては、キャッシュ・オンのお店は『酔いが冷める』場所らしく、いつもならどんどん頼むお代わりを、友人が余り頼まなかったのは言うまでも無い(笑)。

若い頃は今よりもっとお酒が飲めなくて、酷い時はウーロン茶2杯で4000円払わせられた事もある。だから私は、いかなる飲み会だろうとガンガン食べる!普通の女性より遥かに大食いな私としては、こんな時に本領発揮せずしていつする!とばかりに食べる(笑)。食べて元を取ろうという腹。

こうしてお酒が飲めない立場で一度でもアイリッシュ・パブに行ってしまうと、もう普通の飲み会などがバカらしくて仕方が無くなる。お酒を飲み始めてからのコレまでの人生で、私は一体どれほど他人の飲み代を払ってきたのだろう?と思わずにはいられない。
これは別に、人より沢山飲む人を責めているわけではなくて、なんというか・・・、世の中の漠然たる理不尽という感じ。大体飲み会が終わって気持ち良くなっている最中、『君は○杯飲んだから○○○円払ってね!』などと細かくやられたら、それこそ興醒めしてしまうというもの。人数が多ければ多いほど、そんな細かい事はしていられない。

それでもやっぱり、考えてしまうのです、お金が無い時は特に。食事をしに行っても私はほとんど飲まないので、自分が払うべき正統な金額は直ぐに計算が出来てしまう。その差額を考えると、何となく納得が行かない気分になってしまう。
我ながらショボい奴だなぁ〜と時折嫌になってしまうが、気にし始めたら止まらない。それでも貯金に余裕があれば、友情はお金じゃ買えないわ!と大らかに余剰分も支払えるのだが。
何事も、お金が絡むと良く無いものだ。何より、『貧乏』というのがいけない。それにしても、こんな私はセコい奴なのだろうか?・・・セコい奴なんだろうな・・・、やっぱり(笑)。

人生のフィールド

2008年01月15日 00:44

20代の初め頃、やっと就職できた当時の彼氏があっと言う間にその仕事を辞めてしまい、問い詰めた私に彼が言った言葉。

『あそこは俺のフィールドじゃないんだよ』

その時は、『ハァ?何寝とぼけた事言ってるんだよ!』と即座に思った。思っただけだ、言ってはいない(笑)。

時を経て、私は今就職難にブチ当たっている。
何度か書いてきたが、飲食のサービス業が自分に合っている。しかし体力的、環境面、あらゆる条件は私には向いていない。どうしても、好きな仕事を続ける事が出来ないのだ。
さりとて、派遣として企業に勤めるのも、精神的にはかなり辛い。これは、私の心の中に別の仕事への憧れが根ざしているからで、これはもう、仕方の無いことと腹をくくっている。

今は派遣の仕事を探しつつ、とりあえずのバイトをしている。良い年してフリーターだ。全くイヤになってしまう。周りは皆20代。20代後半ともなれば、このバイトでもかなり大御所。そんな中、遥かに年齢では上を行く私は、ヘラヘラと適当に働いている。
さて何のバイトかというと、いわゆる配膳というヤツだ。全く飲食のサービスを知らない方のために説明させていただくと、飲食のサービスのプロとして単発(時に常勤扱いもあり)で各所に赴き、人手の足りない現場を補うというもの。
良くあるのはホテルの宴会ヘルプ。結婚式などが立て込んでいる時だけ、ホテルの従業員として宴会サービスを手伝うのだ。手伝うと言っても、適当にあぶれ仕事をやるのではなくて、きちんと1スタッフとして働かなくてはならないので、これが中々大変なのだ。右も左も解らない初めての現場で、プロとして、ベテラン並みの仕事を要求される。

私が今お世話になっている紹介所は、基本ホテルでの仕事は無い。その代わり、『○○会館』などという所や、既存のレストランの宴会場などでパーティーのヘルプをしたり、料理のケータリングを兼ねて、普通の会社や施設に行ったりする。行く場所は様々で、時には警察署や自衛隊なんて場所もあり、普段覗けない部分が観られるので結構楽しかったりする。

結局、今は元の仕事に戻っているわけだが、酷い外反母趾で長時間立ってるだけで焼け付くような痛みを伴うし、腰痛は心配だし、方向音痴で地図が読めない私は、毎回違う場所に行く事にことさら神経を使う(笑)。腰掛仕事と思っているので、目立つ事はしたくない。それでも、目の前にある仕事を人並みにこなしているつもりだ。
しかし先日、時折お世話になるケータリング会社から、『専属』で働かないか?との誘いを受けた。受けてしまえば結構給料は良いはずだし、配膳としてやるので、時間も融通が効く。
この仕事をしていると、実は人手が常に足りない事に気が付く。暫くやっていれば誰しもこういうお誘いを受けるようなのだが、私としてはかなり適当にこなしていたつもりだったので、正直驚いた。『ちょっと話があるんだけど』と別室に呼ばれた時は、『ちゃんと働け!』とお叱りを受けるものと覚悟したぐらいだ(笑)。
また別に、友人の誘いで何度かジャズ・バーの手伝いをしに行ったのだが、そこのオーナーからもある構想を聞かされ、マネージャー扱いで本格的に働かないか?と誘いを受けた。これはまだ構想段階なのでなんとも言えないが、現実化するならば、こちらも勤務条件、給料共にかなり良い。思えばかつてホテルで働いていた時も、辞める意思を伝えた際に、別室に監禁されて延々と説得されたものだった。

さて思うのは、10年ほど派遣社員をやってきて、『美味しい話』などは1度も無かった。一度だけ、派遣先の会社から社員の誘いもあるにはあったが、結果的にこの会社は潰れているので、社員になっていたとしても、現状は変わらなかっただろう。
反して、今の仕事も手伝いで行ったジャズ・バーも、かつてのホテルの時も、自分では差して人並み外れて仕事が出来ているとは思わない。謙遜でも何でも無くて、全て『お手伝いレベル』を脱してるわけではないし、ベテランというには程遠いものであるのは、働いている期間からもはっきりしている。物のある場所が解らない、店の決まり事も解らない、いつでも誰かに何かを聞きながらやっている。それでもそうして特別な計らいを申し出てくれるというのは、もちろん非常にありがたい事だ。
飲食のサービスなんぞ誰でもできる!というのが私の自論だ。だからこそ、かつての私は自分の仕事に自信を持つ事が出来なかった。それでも、やっていた事というのは肌身に残るようで、時を経て再開したとしても、その痕跡は如実に現れるようだ。今も良く、『ホテルで働いていたでしょ?』と言われる。良いサービスを経験(強制されて?)していると、そうした姿勢はおのずから滲み出てくるらしく、立ち姿などから解るそうなのだ。

そこで、かつての彼氏の台詞が蘇った。これも何度も書いているが、運命論者としては、あながち無視できない言葉であったのだ。
かつて飲食のサービス業で働いていた時の私は、プライベートも比較的充実していた。仕事は勿論忙しかったが、友達もいて、恋人もいて、仕事も確実にステップアップして、給料も伴って増えていた。『若さ』と言うのもあったのだろうが、果たして、事はそんな風に、目に見える事実だけの問題なのだろうか?
かつて、『沖縄に行って働きたいの!』と言ったらば、職場の人が『友達が沖縄にいるから仕事を聞いてあげる』と返し、あれよあれよという間に仕事が決まり、何の苦も無く数ヶ月ごには沖縄で働いていた。例えばそんな事からも、人は決められた、いるべきフィールドにいれば、あらゆる運命の輪ががっちりとはまり、上手く人生が回るのではないだろうか?
世迷い事と言ってくれるな、実は少し前からそんな事を漠然と考え始めていたのだが、今は更に強く思うようになっている。仕事が決まらない!とあたふたしていて、助けの手が差し伸べられたのが全て飲食のサービス業ともなれば、無視してもいられないと言おうもの。
また元の仕事に戻る・・・。それは考えただけでも恐ろしい決断だ。将来に対する不安が増える。たとえそれが『運命の場所』と言われても、勇気を持つにはいささか土台が頼りない。

運命とは切り開くもの。宿命とは、持って生まれたもの。果たして私にとって、飲食のサービスは運命なのか宿命なのか?私としては、運命なのだと思いたい。それならば、別の運命を切り開いていく事が出来るから。宿命だとしたら、甚だ過酷な宿命だと思わずにはいられない。
私は元来、とことん『安定』を求める性質なのだ。人に使われていれば安心だ、自分で何かを始めるなど・・・もってのほか。飲食の仕事をしていたら、いずれは『自分で何か』を始めなければゴールは見えない。そしてその何かは、決して安定など得られない、闘いの場である。
小心者で賭け事が苦手で、自分に自信が無い私としては、そんな事に己が人生を賭けるのは、どう考えても無理なのだ。
しかしこれが宿命だとするならば、私は飲食のサービス業をしていなければ、今後の人生、陽の目が見られないという事になるのか?実際今の生活は楽しい。久し振りにサービスをやって、我ながら水を得た魚だなと思える(笑)。はてさて、この問題、どう捉えたら良いものか。
私のフィールドは、一体どこにあるのだろうか?

美容院の指名制

2008年01月12日 19:10

十何年かぶりに、髪を短く切った。『ショートボブ』という類らしいが、勢い的にはほとんど『ショート』だ。何となく気分を変えたくて、肩甲骨の下まで長々伸びていた髪を、思い切ってバッサリ行ってみた。希望というよりは、単に『伸びてしまった』だけの長い髪の毛。格別の感慨は一切無い。

美容院には余りこだわりが無く、値段が安い事と、行っていて恥ずかしく無い程度の『雰囲気』を保っている事と、家の近所である事が選定のポイント。引越してから中々満足の行く美容院に巡り合えなかったが、昨年の始め頃、近所に新しく出来た美容院に行ってみたところ、値段、雰囲気、出来栄え共々に満足したので、これで安泰と喜んでいた。

今回で何度目かの訪問だったのだが、実は1つ問題が発生している。
私は美容院の、『ご担当は?』という予約時の質問が苦手なんである。
以前は、『前に切ってもらった人に悪いから』という単純な理由で、初めて行った時に担当してくれた人をそのまま指名していたが、『指名料』とういのも発生する場合もあるので、出来ればそこは軽くいなしておきたいのだ。
以前行っていた美容院で、初めて担当してくれた人がたまたま店長で、何となく申し訳ないから以来指名し続けていたのだが、この方が、いつも『流行の芸能人』の髪型にしてくれるのだ。
私がもっと自己主張をすれば良いのか?と思って、口下手ながら何とか意志を伝えてみるのだが、出来上がると必ず『誰か』に似ている。
SMAPの『中居君』にされてしまい、職場で『リーダー』というあだ名が付いた頃から真剣に悩み始め、結局美容院を替えてしまった事がある。これは、客として小心すぎる私が悪いのか、独創性の無い美容師が悪いのか?いまだに悩んでしまう事柄であるが、そんな事からも、『指名制度』がとにかく苦手。

変なところに気を使っているようだが、最近は『ご指名は?』と聞かれると『誰でも良いです!』と答えられるぐらいまでは成長した(笑)。そう答えておくと、次回行った時も同じ人だったりする場合もあり、こちらとしてもそれを気持ち良く受け入れることで、『悪気は無いんだよ!』という意思表示を示せている気になる。多分に、どうでも良いジレンマであるのだろうが。
さて問題は、今行っている美容院。今回のカットで、その美容院でカットが出来る担当者を一巡してしまった・・・。担当は誰でも良いと答えると、必ず前とは違う人が担当になる。気を使ってくれているのか偶然なのか?1人1人試して、ついに全員にカットされてしまった。
こうなったら次回は、『誰でも良い』は失礼なのかしら・・・?と、今から悩んでいる。イヤ待てよ?これでまた『誰でも良い』と言った時にこそ、これまで担当指名しなかった『前回の担当者』全ての人に、仁義が尽くせるというものではないだろうか?問題はあなたじゃないのよ、私の無頓着にあるのよと。
要は誰が担当してくれても良いのだ。よほど気に入らない髪形にでもされない限り、大抵の人は上手くやってくれる。それはそれで技術者に対して失礼かとも思うのだが、私にはヘアカットの良し悪しはそれほど細かく解らない。
しかし私もサービス業を長くやっていて、『職人』というのを良く知っているだけに、彼等のプライドも何となく理解が出来る。明らかにその部分を正統に評価していないような気がして、妙に気が引けてしまう。自分自身どうでも良いから、という興味の無さが、真剣にやっている人を正統に評価していないような気がして申し訳なくも思う。これまた、手前勝手な憂慮であるとは、十分承知しているのだが。

意志の疎通のしやすさ、漠然とした私の思いを汲み取るのが上手いか、ひいては人間性が合うのか?という辺りにポイントがあるように思うのだが、たまたまそれが1番良いかな?と思ったスタイリストがちょっとばかり格好良かったりすると、実は見た目が良いから選んだんじゃないの?なんて思われていやしないかと、全く関係ないところでウジウジ悩んでしまったりもする(笑)。全くダメダメな人間なのだ、私ってヤツは。

さて今回ショートにしてしまったので、暫くは頻繁に美容院に行く羽目になるだろう。その際の、『担当者のご指名はありますか?』という無邪気な問いに繰り返し挑まなくてはならないなんて・・・、ああ、美容院に行くのも楽じゃない。

映画好き?

2008年01月08日 13:53

知り合いがかつてこう言った事がある。
『映画館に行かない人は“映画ファン”とは言わない』と。
この知人は、年に100本を越える数の映画を映画館で観ている方なので、この台詞にも深い熱意を感じると共に、なにやら頷ける説得力があるように思う。

しかし私は、年間180本近くの映画を観るが、『映画館』に行くのは年に1回か2回程度。恐らく、財政状態が許したとしても、さほど足を運ばないだろうと思う。映画館で映画を観るというのは、多少私の興味を殺ぐ場合が多い。値段は言うに及ばずだ。
私は映画を観た後は、その世界にどっぷり浸かっていたいタイプ。これは美術館も一緒で、鑑賞後に即、現実の世界に引き戻されるのが苦手だ。海外の美術館などでは、私が外国人であるので、観て来た絵画の世界を垣間見れる外の世界に、現実感を痛いほど感じる事はない。
上野辺りの美術館に行って、ヨーロッパの絵画を堪能した後に、アメ横辺りの喧騒は事の他胸に痛くなる。観て来た絵画を一瞬にして忘れる、DNAを刺激するあの『日本的喧騒』(笑)。
映画もこれと一緒で、特に深い人間ドラマなどを観た後はいささかボ〜っとなっている場合も多く、じっくりとその映画の事を考えていたい、と言う理由もある。電車に乗って家に帰るとか、妙に現実的で些細な事に煩わされず、映画を脳内で繰り返し堪能していたいのだ。

その他としては、昨今の映画館の在り方。居心地が良く綺麗な映画館が増えたのは良いのだが、シネコンなどと言っても数あるスクリーンのほとんどを同じヒット作が占めていたりする。しかもそれでもまだ足りないのか、ヒット作は長蛇の列に並ばないと観る事が出来ない。
まずこれがイヤ。映画って並んでまで観るものじゃない!と私は思う。あくまで娯楽で、暇な時間をフラっと潰せるところが映画の良い所、いやむしろ正しい在り方だと思いたい。
あと、最近の映画館は『映画を観ながら飲食禁止』というのも多いみたいだ。これはもう、個人的には言語道断。なんだそりゃ?娯楽を楽しむのに付加価値ゼロか?子供の頃はお菓子を買ったりジュースを買ったり、映画についてくる楽しみは数知れずだった。
私と姉は良く映画を一緒に観に行ったが、それには幾つか決まり事があって、先ずは近くのデパート辺りで美味しいパンを買う。ついでコーヒー党の2人はコーヒーショップに寄り、そうした買い物を済ませてから映画館へ。席は大抵中央の1番後ろ。脱ぎやすい靴を穿いているのは、座席で靴を脱いで寛ぐためだ。ああ、在りし日の和やかで寛げる映画館の姿。
大分前に行った映画館だが、通常通りお菓子などを(破格の値段で)買える場所はあった。しかしそれは、『ロビーで食べ切ってから』劇場内に入るための物。在り得ない・・・。

映画館とは、映画以外に楽しむ部分があって、あの高額な値段があるのではないか?がっちり並んで、席も確保できるか解らない。やっと席に座っても、ジュースもお菓子もお楽しみ無しなんて、映画館に行く価値があるとは到底思えない。
はてさて?こんな私は『映画好き』と言えるのか?と考えてみた。そもそも映画の定義とは?
という事で、ここ最近良くやる辞書調べ(笑)。

映画=一秒間一六または二四こまの速度で連続的に撮影されたフィルムを、映写機によって投影し、一連の物語や映像などを写し出すもの。一九世紀末に発明されて以来、トーキー・カラー・ワイド・立体などその表現技術はめざましく発展した。活動写真。

cinema=〔名詞〕映画; 〔英〕 映画館; (the 〜) ((集合的)) 映画(産業)
movie=〔名詞〕〔米〕 映画館; 〔米〕 (普通pl.) 映画(の上映)

ほほう・・・そうか。『映写機によって』という所がミソかも?
となると私はやはり、『映画好き』とは言えないのだろうな。じゃあなんだろう?

ドラマ=(1)演劇。芝居。(2)戯曲。脚本。(3)対立する人間同士の間に生ずる葛藤(かつとう)や事件。劇的葛藤。

:三省堂提供「EXCEED 英和辞典」より:

という事で、単なる『ドラマ好き』と言えそうだ(笑)。

2008年の抱負

2008年01月05日 21:22

なにやらすっかり、『大切な事』を忘れていた!
年が明けたら、新年の『抱負』だ。
・・・今ふと思った。『抱負』って、なんで『負』を『抱く』って書くのだろうか?意味を辞書で調べると、『心の中にいだき持っている計画や決意。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)』となっている。『負』?『負ける』??気になったのでまた、『負』という字を調べてみた。

『負』(おい おひ)=修験者(しゆげんじや)・行脚(あんぎや)僧が仏具・衣類などを入れて背に負う、脚・開き戸のついた箱。きゅう。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

ふ〜ん・・・。

さて!という事で新年の抱負だが、実は毎年書いている。毎年書いて、数週間後には忘れている。天晴れ私!なんの意味も無い事を、毎年やる(笑)。

という事で、昨年の抱負を辿ってみると、、、

『1週間に一度は日記を書く。』
全くダメ、ダメ、ダメだったんである。HPを経てこのblog、期間としてはかなり長い間を通して、恐らくは最も日記を書かなかった一年だった。年間33本・・・、一応日記で自分を振り返れるようにしているのだが・・・、2007年の私はほとんど幽霊だな、自分にとって。

『人の話を聞こう!』
・・・どうだろう。。。これの判断は他者にお任せという感じか?こんな決意はすっかり忘れて過ごしたこの一年、果たして、その真意は、私の中に幾分かでも残っていたのだろうか?

『須藤元気の著作を買う』
(笑)、これの経緯はコチラご参照の事。併せて昨年の抱負を書いた日記でもある。
実はこれきちんと憶えていて、古本屋に行った際には必ず探していた。古本屋という辺りがかなり失礼ではあるが、財政上仕方が無いのである。そんな訳で、一冊も見つからなかった。

まっ、とりあえず反省も済んだところで、今年の抱負をば・・・。

『仕事を決める』
当たり前だ、当たり前だ・・・。

『日本語教師の免許を取る』
はっきりと資格名を書いたのは決意の現れ?
それなりにキチンと考えて、考えた上で自分に必要な資格と判断。
取れると良いなぁ・・・。(気持ち的に今はかなり他人事(笑)・・・笑ってる場合じゃない)

『日本語教師の免許を取って、ボランティアでも良いから教壇に立つ!』
1つ上の目標まで立ててみた。なんて暴挙かしら・・・。

『日記を週に一度はちゃんと書く』
日記は大切。自分を振り返る上で、個人にとって大切なものだと思う。時折自分の日記を振り返ってみても、『あの時こんな事考えていたんだ〜』と面白くなる事もある。
今年は『オリンピック・イヤ〜』なので、きっと夏頃、私の日記は活性化する事だろう(笑)。

守るべき抱負の順番は、優先順位。仕事あっての社会人。まずは毎日働く事だ。
・・・これが最近なかなか、難しいのだ。

昨年の【小説】総括

2008年01月04日 17:05

リクエストがあったので(笑)、いえいえ、暇だったので。
昨年読んだ『本』のランキングをば、、、ちょっと遅くなりましたが。
ちなみに、昨年読んだ本の総数は僅か80冊。本好きを自称する方ならちゃんちゃらおかしいぐらいの数量かと思われる。何しろ私は読むのが遅い。とにかく遅い。平均して1冊にかかる日数は約5〜7日だ。そこから考えると、昨年はかなり頑張って読んだと言えるだろう。

理由としては、シリーズとして読んだ『ジーヴス物』がとにかく面白かった事。なのだが、ランキングには入っていない(笑)。シリーズ物は今回外して、単独の作品に限って選考したというのがその理由。だって、シリーズって続いちゃうぐらいだから、面白いに決まってる(笑)。
その他は、昨年夏ごろから図書館通いを再開したので、読みたいと思う本を比較的効率良く読む事が出来た事が大きな理由。面白く興味深い作品なら、さすがの私も読むのは早くなる(笑)。おかげで昨年は、読書量としては『豊作』な一年となった。

1.『本泥棒』マークース・ズーサック著
<文句無く、1位。多分これまで読んだ作品中でもトップクラス!>
2.『幸せな結婚はパンケーキの匂いがする』モラグ・プランティ著
<乙女の夢を乗せて(笑)、友達と語り合えるという貴重な体験もくれたので>
3.『緑の影、白い鯨』レイ・ブラッドベリ著
<巨匠の思い出が詰まった一冊>
4.『コンスエラ 7つの愛の狂気』ダン・ローズ著
<久々に出会った天才肌の作家>
5.『フェイス』ベンジャミン・ゼファニア著
<なんだか良かった、忘れられない一冊>
6.『メッセージ』マークース・ズーサック著
<1位の著者による青少年向け作品。しかし面白さは抜群!>
7.『風の影』カルロス・ルイス・サフォン著
<年の初めに読んだのに記憶に深い。久々に『娯楽』としての小説を楽しんだ>
8.『エミリーへの手紙』キャムロン・ライト著
<おじいちゃんの優しい想いに感涙>
9.『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』ダン・ローズ著
<天才作家の長編小説。読み応えばっちり>
10.『逃げてゆく愛』ベルンハルト・シュリンク著
<好きな作家なので(笑)>

以上、映画と違って小説はかなりアッサリ決まった。
抜き出したら、丁度12冊。記憶に残る10冊は年間通して鮮烈な印象を残してくれたようだ。
今年は目指せ100冊?・・・既に出足はかなり遅れている模様。

新年早々

2008年01月03日 23:09

明けましておめでとうございます。

2008年、いよいよ始まってしまった・・・。
私は現在『またしても』職無し・・・。目下仕事探しの真っ最中で、当分はバイト生活を余儀なくされそうだ。これって所謂フリーター?この歳になって、、、今更、、、。我ながら情けなく。。。

さて、そんな気分を一新すべく、全く新年とは関係ない話題を(笑)。
ローマ2000年の歴史だかなんだいう番組をやっていた。見ていて思ったのだが、TBS、以前もこれと全く酷似した番組を、、、やっていませんでしたか?随分前に見たように思うが、かなりデジャブを感じつつとりあえず見ている。
しかし面白いと思うのは、何故、新年3が日に4時間以上もかけて、他国イタリアの歴史番組をやっているのか?という事ね。果たしてイタリアは、いや、その他のどんな国でだって、新年早々の特別番組で、日本の歴史をやったりはしないと思うけど(笑)。
まぁ良い、古代ローマに関しては、他国の歴史とは違った要素がある。ある意味、古代と呼ばれる時代において、ある意味『文明』を持っていたと思われる唯一の国。その在り方全てが現在の国家の姿と重なり、政治、戦争、市民の暮らし、娯楽や生活のシステムなど、驚くほど近代的な様相を見せている。研究したり学んだりする、価値のある歴史であると思われる。

それを証拠に、このTBSがなぜか好きな古代ローマ帝国の歴史番組に登場する再現映像・・・、これがBBC製作の『The Battle for Rome』というTVのmini movieを使用しているのだ。イギリスだって、古代ローマ帝国に興味があるのだ(笑)。日本で、イギリス製作のドラマを使用して、イタリアの歴史を学ぶ・・・、ふふ、この節操の無さが我ながら好きである。

色々言いながらしっかりがっちり見たのには訳がある。
この『The Battle for Rome』というドラマ、、、出演者が豪華!ちょっと調べてみたが、どうやらDiscovery Channelで放送されたようで、単純なTV movieというわけでも無さそうだ。
して、気になる配役は?
皇帝ネロ=マイケル・シーン
ティベリウス・グラックス=ジェイムズ・ダーシー
もう、これだけで見る価値あり!!!というもの。

おまけ
ユリウス・カエサル=ショーン・パートウィー(映画『ゴール!』で悪徳エージェント役だった)
コルネリア(カエサルの妻)=ジェラルディン・ジェームズ
(2人とも放送無し!あら、残念)

うう〜ん、これでDiscovery Channel放送、豪華じゃない?(個人的にかな?)普通にじっくり観たいのだが、ケーブルにも加入していない(いや、出来ない)身としては、観られる可能性はほぼ皆無。という事で、今日この歴史番組の放送を楽しみにしていた、と言うわけだ(笑)。
それぞれちょっとずつしか放送されなかったが、1人ニヤニヤしながら楽しんでしまった。ローマの歴史のお勉強に関してはそこそこ聞き流しつつ(笑)。長々時間をかけてやっている割に、真新しい情報はほとんど無く、この時代にちょっと興味があって本や映画等にも親しんでいる方々には、今更焼きなおされても、ねぇ?という程度だったので。


最近の記事