桜の季節

2008年03月29日 11:16

桜が満開の季節を迎えた。やはり日本の桜は良い。
以前スペインのマドリッドで桜を見た。意外にも街中のあちらこちらに桜並木があったのだが、咲かせ方が日本とは全然違った。3月の半ば頃であったがほぼ8分咲き、それなのに『剪定』をしてしまっているのだ。こちらも町中あちらこちらで、桜の木を剪定している姿を見かけた。下から容赦なく枝を切り捨て、上の方にポコっと膨らむように花の付いた枝を残すという感じ。
枝ぶりもなんだかスカスカで、日本の様に四方に限りなく伸びよといった豪快さも無く、空が見えない程密に咲き誇る桜の、微妙なピンクや白のコントラストも無い。
イタリアでも桜の木を見かけたが、こちらは街中の一角に『桜の木畑』のようなものがあり、四角い区画の中に整然と桜が並んでいる。やはり枝は剪定されているのか寂しげな枝ぶりで、無節操な中に整然とした美しさを感じられる日本の桜とは、これまた全く違った趣だったのだ。

今の会社の近くにも、短いながらも桜並木がある。昨日の時点でほぼ9分咲き。近日中には満開になる事だろう。
私は桜が『咲き誇る』という姿が好きだ。一見無造作の様に見えて、自然の摂理が手伝って美しく重なるようにしてお互いを邪魔せず、空に花の絨毯のように広がる様が好きだ。日本の庭師の方々の、永年培われたセンスも素晴らしいと思う。漠然としたようで決められた方式があるのだろう、無駄なく剪定された桜の木の枝ぶりは、まさに自然と人知が融合した美しさとも思える、ちょっとオーバーか(笑)。
そうした桜の姿を見ていると、純粋に美しいという感動で胸が塞がれると共に、一抹の悲哀が紛れ込む。私にとって桜の美とは、幾分の寂しさを含有したものであるのだ。
理由は簡単、桜とは3月末から4月冒頭にかけて咲き、その時期日本では、出会いと『別れ』の季節があるからだ。私にとっては『別れ』の印象が強いのだが、『新学期』に向けるワクワクする期待感と共に、新しい生活に対する恐れや不安なども強かったのが原因だろう。
それと、桜の花の刹那的な美しさ。桜の花の寿命は、驚くほどに短い。美しいが故に短いのか、短いが故に美しいと思うのか。その命の短さ、美しさの儚さが、今この瞬間の儚さと繋がって、自らが持っている時間の貴重さ、短命さなどを思い知らされるような気がして、漠然と悲しさを覚えてしまう。
余談だが、それゆえに私は森山直太朗の『さくら』が好きだ。あの曲の歌詞がたまらなく好きなのだ。友人たちの別れと未来に対する希望を、桜の花の短命さとかけて書かれたあの歌詞は、桜の持つある種の特性を存分に生かした美しい詩だと思う。使われる言葉もまた、日本語の美しさを感じられる稀有な作品だ

実は私は、自分のこの感情が結構好きである。桜の花の圧倒するような美しさの中に立ち、感動の中に漠然とした悲しさを感じる。この複雑な感情が好きなのである。かなりのナルシストというかヒロイック的な感情なのだろうが、圧倒的な美に対する純粋な思いが充満し、自分では制御しきれない、一種複雑な感情に満たされる瞬間だからだ。おいそれと体感できるものではないと思っている。
桜の花を見るといつも思う。私がこれまで経験した幾つもの別れ。それと同時に、これまで体験してきた幾つもの希望。別れと背中合わせの新しい生活、自分の力を試すということ、自らを信じるということ、挑戦するという期待感を思い出す。
全く情けない話かも知れないが、この一年を振り返り、成さなかったことが痛切なまでにこみ上げる。それでも努力した事を思い、漠然とではあるがこれからの一年に思いを馳せる。私にとって桜の花とは、やはり『新学期』の象徴でもあり、新たな決意を固めさせてくれる。それにあの可愛らしいピンク色の花々、何かが出来ると素直に信じられるような、気持ちが浮き立つ眺めではないか。
その美しさを自分の希望に換えて、今年もまた、美しい桜が空一面に咲き誇る、短いが素晴らしい季節がやってきて、そしてまた過ぎ去ろうとしている。

トイレの謎

2008年03月27日 23:32

女として生まれ、とりあえず今のところ、ズボンを履いていても女性として世間で通る、ええ、ありがたい事に。それなりに女性の人生を歩んできたが、いまいち『一般的な女性』というのが理解できない時がある。その最たるものが、おかしな話かも知れないが、女性のトイレの長さだ。
どうやら私はトイレの時間が短いらしい。私的には、これ以上どう長くすれば良いの?というところなのだが、男性にすら驚かれるぐらい早いらしい(笑)。男性のために補足しておくと、女性は個室にこもっている時間が長いのだ、そこから更に化粧直しとかなんだとか始めると、まぁ軽く15分〜20分くらいかかるのではないでしょうか?
以前電車待ちで時間があったので、駅ビルのトイレに立ち寄った。3つしかない個室は見事に満室。兼ねてから女性のトイレの長さが謎だったので、果たして何分で空くか?時間を計ってみた。ウチ1つの個室が空くまでに5分経過し、2番手だった私が入れたのはそこから更に3分後、そう、都合8分待ったのだ。しかも恐ろしい事に!3分待って空いた個室は、私の前に入った人。残り2つの個室の人は、私がトイレに足を踏み込んだ時は既に個室の中、そこから更に8分間個室の中だったのだ。。。一体、、、一体何を!?

宴もたけなわな飲み屋だったらまだ解る。色々あるでしょう、そういう場合はね。私も何度か、長時間占拠したことがある。そこはね、お互い様ですよ。
そもそも私は、子供の頃からトイレという場所が嫌いで、空気まで汚いような気がしていた。最近はとても綺麗なトイレがあるが、それでもちょっと苦手。ハウダー・スペースなんてのもあるが、個室と隣合わせの場所なんて落ちつかないのだ。
トイレでチップを貰ったりタオルを渡したりする仕事があるが、どんなに高級ホテルの清楚なトイレでも、私は出来ないだろうなぁと思う。どうもダメなのだ、トイレと聞くと真っ先に浮かぶのが、高速のサービスエリア辺りのトイレで(笑)。
以前配膳のバイトで色々行っていた時は、止む無くトイレで着替える場合が多々あったが、それが嫌で、できるだけ制服を『着て』職場となる現地に行くようにしていた。ベストに蝶ネクタイだろうが、トイレで着替えるよりはよほどマシ。

なので、個室に10分近くこもってる人というのがそもそも信じられない。一体何をしているの?思い切って女性の友人数人に聞いてみた事があるが、全員私の質問の意味が解らない、という顔した。トイレって言えば・・・ねぇ?みたいな(笑)、どうやら特別な事はしていないらしい。
更に謎が深まった・・・。

会社のトイレなども同じで、一度混みあってしまうと中々空かない。コチラとしては正統に仕事がサボれるので嬉しい限りなので(笑)、のんびりと空くのを待っているのだが・・・そこでふと、おかしな事に気が付いた。今の会社のトイレは、センサーが人を感知すると自動で音が流れる。小川のような流れの音と、鳥が囀る声(笑)。なんて穏やかなのかしら。
この音が結構長い事流れているので、まぁよほど我慢していたのでなければ絶対に用が済むまでに止まったりしない。それなのに、全ての個室から『音』が聞こえない。衣擦れの音すら聞こえないのです。なぜ?
私の後ろにも長い列が出来ているというのに、個室からは静けさしか漂って来ない。これは、、、『寝てる』なと(笑)。便器に座って寝ているとしか思えないのです。私の友人も良く、仕事に疲れるとトイレに行って『一休み』していたものです。私なぞは、一服するから別の手段がある訳だが、タバコを吸わない人は、PC仕事を続けていると眼が疲れるものよねぇ。
我慢強く待っていると、ようやく水を流す音が聞こえて、バタン、と個室から人が出てくる。列を見ると幾分済まなそうに『すみません』と小声で頭を下げる人などもいる。まぁ良いですよ、疲れちゃったんですねえ、とか、勝手に心の中で思っている(笑)。

これで『会社のトイレ』では、女性のトイレの謎が解けたと、まぁ勝手に思っているわけなのだが、公共のその他のトイレでは依然謎なのである。
不思議な事に、ヨーロッパを旅していると、女性のトイレの長さを余り感じないのだ。サクっと入ってサクっと出てくる。全員が個室に入らなくてはならない女性だから、比較的時間を取って、その分列が出来てしまうのは仕方が無いが、許容出来る範囲の長さだと思う。
となると、日本の女性は何故トイレが長いのか?未だ私にとっての大いなる謎である。

食事のマナー

2008年03月27日 08:07

ここ最近、日に数回はコメカミの血管が切れそうになっている。何故か?というと、斜め向かいに座っているおっさん(言い方悪くて失礼!)が、ひっきりなしにガムをクチャクチャ、ベチャベチャ、ビチャビチャ、私がかつて聞いた中でも、最低最悪の音を立てて食べるのだ。人間じゃない、殆ど家畜同然。ヤギだってもうちょっとまともな音で物を噛む。
ガムだけでも耐えられないが、こいつ(失礼!)チョコだろうが飴だろうが、何を口に入れても耐えられないほどの雑音を上げる。年の頃40代半ばに見受けられるが、一体これまでの人生、どういう常識で生きて来たのか?結婚もしているだろうが、奥さんなどはこの行儀の悪さは気にならないのか?いや、その前に親でしょ親。どういう躾をしてきたのか、座談会でも開きたいぐらい。

とまぁ、私のこの憤りの起源をご説明したいと思う。
私は子供の頃に祖父母に預けられて、そのまま親とは離れて暮らしていた。育ての親は祖父母であり、一家の長は明治生まれの祖父だった。
祖父はさほど悪い家の出では無いが、正直粗雑な人であった事は疑いようも無い。彼の食事のマナーは最悪で、肘を突いて食べる、箸で器を寄せる、箸を舐める、膝を立てて食べる等など、子供の反お手本とするならほぼ完璧、という人だった。
中でも最悪だったのがその音。食べ物を舌で潰し、エキスを搾り出すようにして咀嚼する。とにかくそれが嫌で嫌で仕方が無く、その汚らしさに食欲も減退するほどだったのだが、祖父に物申すなぞは100年早い!というのが昔流。80歳を過ぎるまで現役で働き続けた祖父に関しては、孫が飴玉よりも甘くて大切、なんて世迷いごとは通用しなかったのだ。
正直祖父母の躾は普通に厳しく、姉も私も良くしかられたり叩かれたりしたものだが、常識を植えつける上では重要な事だったと今は実感している。箸の持ち方、食事の仕方等など、当たり前に教えられたが、その前に『お前だろう!』とはさすがに言えない。
耐えに耐え抜く事およそ15年、ようやく家を出てからは、たまに帰ると祖父の『音』が殺人的に耐えられなくなっていた。そんな訳で、実家に行っても食事はしない。祖母が幾ら言っても、よもや祖父と食卓を囲むなんて出来ない相談だったのだ。
おかげさまで私は、人並みより少し、食事のマナーにうるさい。だからと言って、微に入り細に入り難癖を付けるわけではなくて、最低限守られていればそれで良い。どちらかと言ったら、私が思う食事の基準を満たしていない人は、『人間以下』の烙印を勝手に押してしまうだけだ。
どんなに大好きな人でも、箸がちゃんと持てない人はダメ。『好き』という感情が、その事実を知った途端に消滅してしまうのだから仕方が無い。少しでも『汚く』食事をする人とは仲良くなれないし、一音でも『音』を立てたらその場で『家畜同然』と思わせて頂く。

広く一般的に、黒板を爪で引っかく音は、鳥肌が立つ思いがするだろう。長時間聞いていると、恐らくその音を立てている人を『殺したく』なるはずだ。私にとっては、物を噛む時に立つ音というのがこれに相当する。どれほど耐え難いか、推察して頂ければありがたい。
しかもこの会社のおっさん(重ねて失礼!)、ひっきりなしに何かを食べている。お前は欠食児童か?何か口に入れていないと落ち着かないのか?だったらその舌を抜き取ってしまえ、そしたらその不愉快な音も立たんだろうに!!!!!と、、、毎日毎日、苦悶している。

40代半ばくらい・・・、バブルの頃に上手い汁を吸った口だろう。正直だっさいおっさんで、虚しく残った頭頂部の髪の毛を、無残に漂わせている辺りが哀愁を誘う。バブルの頃だって、一線で華々しく活躍していたようには見えないが、そんな奴でも恩恵を受けて勘違いできちゃった頃がまさにバブル期なんである。収入も安定していて、外貨は安い。
こんな節操無い常識欠如したアホが(失礼!)、調子に乗って海外に行って、日本の恥を晒していたのね・・・と思うと情けないったらない。
確かに食事のマナーと言っても、日本で非常識が常識である、という国だってある。音を立てて食べるのがマナーなんて国が、あるのかどうかは知らないが。しかしこういうなんちゃってヤローは(もう失礼してます〜)、アメリカとかヨーロッパとか行くのよ(と決め付けている)。
日本人金もってるぞ〜、でも海外の事なんて何も知らないぞ〜という空気をブンブンに振りまいて、レストランではさぞや知らずに大恥をかいていた事だろう。ああもう、目に浮かぶようだ。あんなふうにグチャグチャ、ベチャベチャ音を立てて食べていたら、海外だったら他のテーブルからクレームが来そう。おまけにお金はあっただろうから、高級レストランなんか行っちゃったんだろうな〜、ああ、恥ずかしい恥ずかしい。
海外で音を立てて食事をするなんて最大のマナー違反。日本好きの外国人の方でも、蕎麦を食べる際のマナーだけは受け入れ難いと思っている方も多いようだ。ちなみに私は、根本的に『啜れない』人で、蕎麦を食べていると空気の吸いすぎで頭痛がしてくる。なのでいつも、蕎麦を箸で繰り入れる方式。
今の職場には余り文句も無いし、先日書いたように働かせて頂いているので何があっても耐えるつもりだ。。。だった(過去形)。
辞めたら楽になる、こんな地獄から抜けられると思い悩む日々だったが、なんと、今週の水曜日にレイアウト変更があるそうだ。上手く行けば、このおっさんから離れられるかも?最悪なのは、真後ろに来てしまう事だが、そうしたら、今の仕事、続けていけるか自信がない。。。

しかし何か、(言葉が)汚い日記ですみません。でも、溜まっていた毒吐いたら少しすっきりした。

子役の成長と自虐行為

2008年03月10日 19:32

私は時折、『あの子役は今!?』というテーマで、気になる子役の『その後』を勝手に調査している。きっかけは純粋な興味からだったが、やってみると意外にも、かなり精神的に痛い行為である事が判明した。普段は蓋をして、心の片隅に厳重に保管しているある種の感情が解き放たれ、それによって、私の安寧していた感情共が挙って大暴れして逃げ惑う、と言った感じ(笑)。
子役達の成長の早さに驚くと同時に、彼らにこれほどの変化をもたらした期間、私は自身になんらの変化も与えられなかったという不甲斐なさに憤り、彼等の成長を如実に見知る事で、過ぎてしまった時間の長さと重さを痛いほどに感じる、と言う事だ。
彼等は可愛いらしい子供から、精悍で艶やかな大人に成長したのに、私といったら何一つ変わっていない。精神的にも行動でも、全くと言えるほど変化が無いのに、子役達の変化と同じように、外見の変化は確実に現れているはずだと思うと、これまた居ても立っても居られない思いに駆られる。
可愛い子役だった彼等の出演する映画を観たのは、つい先日という気分だったのに、今目の前に現れた彼等は立派な大人、こんなパラドクス的な感覚に戸惑いながらも、ひたすら沸き起こる焦燥や憐憫と戦い、そうして大抵は打ち負かされる(笑)。かなりサディスティックな感覚ではあるのだが、時折こうして自分を苛める事が辞められない。かと言って、この苛めから何かしら奮起する起爆剤が得られるか?というと実は殆ど無く、私の精神はこっぴどく痛めつけられるだけで終わる。こうしたところから考えるに、恐ろしくマゾ的な感覚も共存しているようで、我ながら自分が恐ろしい(笑)。

常々感じる事なのだが、子役には『子役免罪符』が有るように思う。。役者では無く『子役』と言うカテゴリーにいる特権とでも言おうか。これは別に悪い意味では無くて、『子供らしさ』を存分に持っていると言い換えても良い。『子役=子供』という当たり前の概念が、彼等の拙さを魅力に変えている。大方の天才子役も、この『子役免罪符』を所持していると思うが、『天才』という敬称がついてしまうぐらいだから、彼等はこれを最大限に適応する術をも知っている。
そしてそんな『子役免罪符』を極限まで引き伸ばして活用したのは、ハーレイ・ジョエル・オスメントかと思っている。そんな彼も今や良い大人。『子役免罪符』は否応無く手放す頃合を過ぎている。もちろん私の『あの子役は今!?』の俎上に載せた事もあり、結果は、余りにも切なく衝撃的な画像によって幕を閉じた・・・。
現状最も長くがっちりとこの免罪符をホールドして手放さない子役、それは紛れも無くダコタ・ファニングだろうと思う。私が女の子より男の子の方を良く調べるのは、別に変な趣味があるからとかではなく(笑)、女の子の方が圧倒的に成長が早いからなのだ。『大人っぽくなる』のは女の子の方が格段に早く、比較的変化が目に付き易い。また、想定され得る限り、ほぼブレる事無く美しく育っていく。逆に言うと型通りで面白味は余り無く、どの子も惚れ惚れするほど美しい、という結論意外は殆ど無い。
そんな成長の早い『女の子』であるダコタ・ファニング。今年で14歳。成長著しい年齢のはずなのに!あの引きずる子供っぽさは如何なものか?十分に美人で才能も有るのだし、そろそろ子役脱却に向けて本格始動して欲しいもの。

さて子役というのは、どれほど子供時代に人気があろうとも、大人になってもその人気が持続するとは限らない。むしろ、過酷な大人俳優の運命が待っている場合が多い。子役出身という役者はかなりいるはずなのだが、ぱっと思い浮かぶ俳優が少ないのもその証拠かも。コリン・フェルドマン、コリン・ハイムのWコリンはどこへ行った!?ショーン・アスティンは、かなり微妙だが現在も健闘中。
しかし、ティーンの頃にしばしの冷却期間を設けた場合、軽く子役時代のイメージを払拭できる場合もある、ドリュー・バリモアの場合は環境が少し特殊だが、冷却期間は確かにあった。同じくE・Tのエリオットを演じたヘンリー・トーマスも、実は今でもしっかり活動しており、これが中々良い演技をしていたりもする。
むしろ逆に、『天才』などと騒がれずに子役時代を過ごした人の方が、長く役者として第一線で活躍していたりもする。実はレオナルド・ディカプリオのデビューも相当若い頃だし、クリスチャン・ベイルは『太陽の帝国』。イライジャ・ウッドは『わが心のボルチモア』、こちらは8歳くらいの頃だったかな?物凄く可愛いです♪
子役時代のイメージに付きまとわれながらも、頑張って一線で活躍する俳優もいる。ナタリー・ポートマンやクリスティーナ・リッチ等など。子役=純粋というイメージを払拭する為か、特にクリスティーナは頑張っている気がする(笑)。ナタリー・ポートマンも、捨て身の演技がこのところ続いているような・・・?
さてここで、子役からスタートして最も成功したと個人的に思う俳優。それはやはり、ジョディ・フォスターでしょうね。しかもこの方の場合、子役俳優が抱えるステレオタイプな悩みを全て克服して今がある。理知的で美しく、本当に素敵な女優さんです。

とまぁここまで、特殊なジャンル、しかし映画に欠かす事の出来ない『子役』について、日頃思っていた事をつらつら書いてみたが、『あの子役は今!?』で最後には欠かさず調べてしまう、個人的に注目株の“元”子役を紹介しよう。というか各人、調べた時にかなりの衝撃を私に与えた子役達でもあるのだ。。。

Harry Eden 1989生まれ
オリバー・ツイスト』でオリバーを助けるドジャー役が記憶に新しいだろうか?私はこの時、明らかに『子役免罪符』を活用しているオリバーの傍らで、早くも『免罪符』を捨ててしまったような姿のハリー・イーデンに興味深々だったのだ。彼の存在感や演技は、既に大人の俳優として、プロとしてのそれだった。
映画を観終わって、主役オリバーそっちのけで彼の事を追跡調査したのを覚えている。これは子役として良い活躍を見せるはずだ!という妙な自信により(笑)。
その後『PURE ピュア』で偶然再見。『オリバー・ツイスト』より前の作品だが、この時でも既に、彼はプロとしての存在感があったのだ。自分勝手な大人達に振り回される、健気で、だけど大人びている複雑な少年像を実に自然体で演じていて、これはすわ恐ろしい役者になるぞ!と更なる自信を持つに至った。誠に勝手ながら人事ながら(笑)。
大きな瞳が非常に可愛らしい印象の少年なので、間違いなく美青年になるぞ!という危ない自信も膨らみつつ、、、意気揚々と調べてみたのだが・・・。う〜んこれどうも、確実に間違えた方向に邁進中。野暮ったくなってる〜〜〜!!!
せっかくショウビズ界にいるんだから、誰か軌道修正、してあげて。明らかに間違った指示に従って細い小道の奥まで入ろうとしてる!今叫べば間に合う、誰か呼び戻して!
しかしまぁ、レイフ・ファインズやダニエル・クレイグなどとも共演し続けているので、、役者としては順調という事か。まだ19歳、これからこれから、、、って事ね!?
Harry Eden


Aaron Johnson 1990生まれ
トムとトーマス』で1人二役を演じきったアーロン・ジョンソン。確かに可愛い顔をしていたが、これと言って特徴は無く。欧米だったら、当たり前にいそうな可愛い少年。成長したらより普通になって、2度とお目にかかる事も無かろう・・・と、大して記憶にすら残らなかったのに、、、突然目の前に現れた時は度肝を抜かれた。
確かに見覚えはあるものの、あの印象の薄い子役とは思えないほどの美青年ぷりに驚いたと同時に、上記した焦燥にどっぷり漬かった(笑)。あ〜、いやだいやだ、あんなアヒルちゃんがこんな白鳥に変身していく年月、私は一体何をやっていたんだろう・・・と、かなり落ち込んだのを覚えている。筋違いなのは解っているのだが(笑)。
ちなみ彼も、低予算ながら昨年アメリカで以外なヒットを飛ばした映画『The Illusionist』で、エドワード・ノートンの子供時代を演じているらしい。こちらも今夏、日本で公開されるのでぜひご確認を。イギリスのドラマ界ではすっかりティーンのアイドルになっているらしく、人気の程も上々。どうやらこちらも、今後お目にかかる機会が増えそうな役者に成長していたのである。
Aaron Johnson


Nicholas Hoult 1989生まれ
これが一番びっくりした。人間ってこんなに変化するのか!と(笑)。
アバウト・ア・ボーイ』で、妙な毛糸の帽子を被っていた少年を覚えているだろうか?なんだかムチムチで、漫画みたいな顔した少年だなぁと私は思っていた。コイツの未来は見えたね、絶対おデブ俳優だと、主人公の親友が関の山だと、いやいや、そんな役者こそ長い息で頑張れるのよ!と・・・。
いや〜、毛虫って蝶になるんだなぁ〜と、つくづく(笑)。もう本当にびっくりしちゃって、思わず『はぁ?』と叫んでしまった。こういう子供を見る目の無さが、母になれない欠点を浮かび上がらせているよな気すらする。
今現状で、奇しくも全てイギリス出身の今回紹介した3人の中で、本国での人気はこのニコラス・ホルトが一番高いものと思われる。何せ情報が豊富に拾える。先に紹介したハリー・イーデンと同い年ではあるが、なんだか既に男の色気すら匂わせているような、、、ああ、あんなおぼこい少年だったのに、、、これもまた、私の激しい焦燥を喚起させられ、かなり長い間落ち込んだ要因を作ってくれた。彼が毛虫から蝶へと成長した期間、私はた無駄に老いたのねと、とにかく再起不能というぐらい凹んだ(笑)。
こちらも今後の活躍は期待できそうで、得にアメリカ映画への進出が進んでいるらしい。手早くは『ニコラス・ケイジのウェザーマン』あたり。私も近々確認してみる予定だ。果たして、役者としても蝶に変身しているのか?期待したいものである。
Nicholas Hoult

靴一足、人生長く。

2008年03月08日 23:46

小生意気な事に、私は中学生くらいから、『真のお洒落は靴にある』と公言して来た。実はこれ、あらゆる小間物を『靴』に集約させているだけで、例えばカバン、腕時計、そう言った装飾ではなく日用品の部類に入りそうなものを、キリリとする質の良さで揃えれば、全体が引き締まってお洒落に見えるというものだ。
また別の見方では、足元にまで気を使える人は真のお洒落である、というもの。どんなに小奇麗な格好をしていようとも、高級な服を着ていようとも、足元がグズグズだと全く持って引き締まらない。むしろだらしなく見えるでしょ?
私にとって靴はお洒落の要であり、若い頃から、洋服は3000円を超えるものは殆ど買わないが、靴だけは2万円くらいは普通に払っていた。それに洋服は、価格に見合わないものが多い。ブランド名ばかり先行して値段が跳ね上がり、実際は裁縫も何もあったもんじゃない、なんて事もあったりする。何万もする洋服なのに、素材は化学繊維だったり、数回着ると直ぐヨレヨレになってしまったり。逆に言うと、洋服は安いものでも見せ方次第で、『それなり』に見せる事も出来るし、安くても素材が良かったり、案外しっかりしていたり、見る目があれば上手く乗り切って行けるのだ。幸い私は、両親がブティックを営んでいたので、高級服というものに囲まれて育った。何気なく聞く洋服の薀蓄なども手伝って、その道では情操教育を受けてきた。
反して、靴の最高峰はやはり『革靴』。革製品は高い、と同時に、値段の違いが品質の違いに如実に現れるものである。『安かろう悪かろう』が適応されるものなのだ。高ければそれだけ履き心地も良く、安ければどうしたって足が痛くなる。布靴やビニールなど、昨今その素材は様々ではあるが、私は革靴がなんと言っても好き。それも、しっかりとした、美しく、レトロな堅実さを持った伝統的なものが好きなのだ。そうした革靴は、値段によってフォルムの美しさも格段に違う。『良いな』と思えばその分高い。
それに革は伸びるのだ。私のように酷い外反母趾だったりすると、穿いている内に形に馴染む革靴は大変ありがたい。合皮などの模造品なんて、光具合や質感など、見た目も履き心地も最悪と倦厭している。

ただ最近は、、、長年続く逼迫した財政状態に押されて、若い頃のように靴に大枚を叩くなんて真似は到底出来ない。そんな中でもなんとかやりくりしているが、以前に比べれば格段に靴の質が落ちたと言わざるを得ない。
昔買った靴の中で、最長は12年穿いているパンプス。姉に『古物みたい』と言われたが、12年も穿いていれば自然と古物になるに決まっている(笑)。それ以外でも、3万くらいかけた靴は10年に届こうかというぐらい穿いているものが数足ある。長い目で見れば、これはお買い得だと言えるだろう。趣味的にスタンダードなデザインが好きなので、それほど長い期間が経っても、今でも時折褒められる事がある。トラディッショナルな美しさというのは、色褪せない美を含有しているものなのだと実感する。

しかし最近は、安い素材でも可愛らしい靴が増えて、安さの中に可愛さがあるという分野が増えてきた。こうした靴は2シーズンほど穿いて捨ててしまっても惜しくないので、今のところ救いの神といった感じだ。
それに最近は、靴も値段と見合わない商品が増えてきた。ブランド名に押されて、穿きにくい、直ぐダメになる靴も結構多い。靴の情操教育は受けていないので(笑)、時たま間違えて粗悪品を買ってしまった事が数回あり、最近はたまに悩んでしまうのだ。

実はこの長々とした靴の話、全部前振り(笑)。
最近私はバイトを初めて、週に3回ほど立ち仕事をしている。以前レストランで働いていた時は、朝起き上がる事が出来ないほどの疲労を抱えていた。勿論今は本職ではないので働く時間は圧倒的に少ないが、それでも、数ヶ月前に無職でフリーターをしていた時は、数時間でも耐え難いほど疲労が蓄積していた。
それが今のバイトでは、体の疲れが殆ど残らない。むしろ適度な運動をしているので、体が清々しいぐらい(笑)。しかしたまに配膳の仕事をやると、たった数時間で信じられないほど体が疲れるのだ。何故だろう?と考えて、原因は靴だと判明した。
配膳はでは『飾りが無く、ヒールの高すぎない黒いパンプス』が指定。以前ホテルで働いていた時は、ヒール3cmと高さまで決まっていた。それぐらいなら、支給して!というぐらい細かい指定。私はずっと、パンプスが当たり前というレストランで働いてきた。
この『パンプス』が疲れるのだ。今のバイトは足元自由。スニーカーでもなんでもどんと来い!なのだ。私は歩きやすくいヒールの無い、ゴムの靴を穿いている。
『パンプス』とは、およそ人体構造を無視した造りだとは常々思っていた。なぜ踵が高いのか?つま先に重心がかかる造りは、明らかに歩きにくい。上記した『良い靴』であれば多少はマシだが、それでもヒールの無い靴に比べたら、疲れる度合いは格段に上である。
理由は簡単、女性の『美しく見せたい』という飽くなき欲求によるものだ。踵が高い靴は足が綺麗に見える。足首も細くなる。そのために隠された部分はボロボロになろうとも、概観が綺麗であれば、女性は死に物狂いでその道を突き進むのだ。
『おしゃれとは我慢だ』とは良く聞く言葉だが、一体いつからそんな格言が生まれたのだろう?息が止まるほどのコルセット、頭が動かせないほどに大きく結い上げた髪型、そう、女性は遥か昔から、『おしゃれは我慢』と生きて来たのだな。
日本なんてまだまだ良いほう、というより、男性も似たような服装だったので、『我慢』とうい概念は無かっただろうと思われる。ちなみに祖父の父の話(私の曾祖父)だが、ちょんまげは酷く頭が痒く辛いものだったそうだ。頭頂部を質の悪い剃刀で剃るので、しょっちゅう血が出ていたし、髪が生え始めの感覚が痒くて仕方が無かったそうだ。しかもそれが慢性的、相当に辛かったらしい。ついでに刀も、足にガチャガチャ当たるので非常に歩き辛く、おまけに痛い。明治維新で刀とちょんまげが廃止になった折には、友人たちと祝杯をあげたそうな。祖父母の話って面白い(笑)。

それにしても、たかが靴、されど靴。靴一足で、足の痛みどころか体の疲れがこれほど違うのかと驚いている。当たり前と言えばそれまでだが、今の今まで気が付く事も無かった。足の痛みと体の疲れは別物で、体の痛みはどこか別のところから来るのだと思っていたのだ。
靴ってやはり大切だ。『おしゃれは靴から』いやいや、『健康は靴から』なのかも知れない。今は多くの健康グッズがあり、靴に関する健康グッズも数多ある。青竹踏みなど、オーソドックスな物は愛用しているが、体のツボが一気に集まっていると言われている足の裏、長く労わって行きたいものだとつくづく思う今日この頃である。


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