風邪っぴき

2008年05月31日 22:54

風邪をひいた。。。
健康だけが取り柄だ!と言い切りたいところだが、半年に1度くらい風邪をひく。ここ数年は、定期的にひいている気がする。寄る年波・・・というにはまだ早いが、やはり、30代を超えてからは、風邪なんかひかない!とは言えなくなってきた。
某CMばりに聞くとすると、『あなたの風邪はどこからですか?』
と言う事で、私の風邪は『喉』からだ。何となく喉が痛いな〜と思って放って置くと、数日後には喉が真っ赤に腫れてしまう。1、2日で喉の痛みが治まると、鼻水が出始める。これがまた、脳みそが全部溶けて出ているのではないか?というぐらいの、怒涛の鼻水に悩まされる。その後が咳だ。酷いと2週間ぐらい続いて、ようやく風邪が治るので、一連の症状が出切るまでには結構時間がかかる。その変わりと言ってはなんだが、熱が出ないのがせめてもの救いだ。

平熱も比較的高いのだが、風邪で熱が高くなるのと、平熱が高いというのはやはり違い(笑)、当たり前だが、平熱で37度というのと、風邪によって37.2度では、身体のダルさは全く違う。それに、滅多に熱は出ないので、たまに発熱するとたまらなく辛い。
喉が痛いとか咳が止まらないなんてのは、比較的我慢ができる。花粉症も無いので、鼻水だけはどうにも耐え難いが、今は効き目の良い鼻炎薬が簡単に手に入るので助かっている。風邪薬より何より、鼻炎薬を飲みまくるの通例だ。

喉が真っ先にやられるので、風邪を防ぐ方法は簡単だ。市販の喉に直接塗布するタイプの薬を、1日で1瓶ほど使い切ってしまう勢いで、徹底的に腫れを撃退するのだ。これに成功すると、その後の症状が全く出なかったり、程好く数日悩まされるだけで完治してしまう。
なのでいつも、それほど苦しい思いをしなくて済んでいたのだが・・・。

今回は、何の前触れも無かった。唯一考えられるのは、数日前から食欲が無く、かなりの大食いである私にしてみれば、いささか疑ってかかるべき症状だったのかもしれない。
月曜の夜に喉が痛いなぁと思って、薬を塗って床に就き、翌朝眼が覚めたら、喉の痛みは退いていたが身体がだるい。そのまま仕事に行くと妙な寒気に付きまとわれ、バイトも終わって深夜家に帰ってきてからは、体中が痛くて寝られなくなっていた。結局昨晩まで38度を越す熱を維持し続け、今日になってようやく一段落した次第だ。

さてここで、『医者は?』というご指摘があるものと思う。市販の薬は多用するが、医者には・・・どうもねぇ。『医者嫌い』とか、西洋医学を信頼していないとかでは全くないのだが、最後に内科医に行ったのは、かれこれ7年ほど前が最後だ。それも、行った理由は風邪ではなく、持病の膀胱炎が原因だった。これにかかると、医者に行かずしては治らないのだ。
医者の制度って・・・おかしいと思いませんか?
具合が悪くて、横になっていても辛いのに、わざわざ外出して、狭い待合室に延々と座らされ、ようやく診察してもらってもほんの数分。支払にも時間がかかって、小さな町医者なんかだと、処方箋を渡されて、また別の薬局まで行かなくてはならない。そこでまた待たされて・・・なんて、熱があって辛い時には、私には到底無理な行動なのだ。
それぐらいなら、市販の風邪薬を飲んで、徹底的に寝ていたい。なので私は、風邪ごときでは医者に行かないのだ。滅多に医者に行かないので、行けば必ず『初診料』というのを取られる。そのために支払は普通より高額だ。滅多に行かないので、免疫がないからか薬が驚くほど良く効く。おかげ様で、1度薬を貰えば十分、2度めは必要無いのだ。結果的に、次回行く必要が生じた場合は、『時間が経ちすぎているために』と言う事で、またしても初診料が発生するのだ。その為『病院は高い』というのが私の自論となり、殊更に足が遠のく原因になっている
今回もまた、病院が必要な頃は動く気にならず、動けるようになれば病院は必要ない。確かに症状は長引いてしまうかもしれないが、私にはあの、健康体でも辛そうな病院の待ち時間というのが、どうにも耐えられないのだ。
以前ストレスで身体を壊した時は、5分おきに嘔吐するという症状に悩まされた。その為、食事もまともに取れず、栄養失調すれすれ。余りの状態の悪さに、この時ばかりは医者側も考慮して、順番が来るまで別室のベッドで、点滴をしながら待たせてくれた。
また別に、診療時間というのも疑問に思う。休日などだと、午前中だけ、という町医者も少なくない。いずれにしろ、最終受付が結構早いのはいかがなものか?朝早い時間に、高熱があって身体がだるい状態で外出できるか!というのが私の本音だ。たっぷり寝て、夕方頃、幾分症状が落ち着いた頃に診察・・・というなら、もう少しは医者に行く気になるかもしれない。
いずれにしろ、今回も医者要らず・・・(本当は行けば良かったのだろうが)で何とか乗り切れた。

本が読めない〜

2008年05月24日 13:41

最近どうもそのぉ・・・読書方面の感想が芳しくない。読んでいない訳ではない、読んではいるのだ。しかぁしぃ・・・何だか難しい文章を読む気がしなくて(笑)。ここ最近で、3冊ほど途中リタイヤしているだろうか。。。まったく・・・。

読んでいる作品がどれもつまらないと言うわけではない、私の頭が付いていかないだけなのだ、精神的にも全くついていけない。これまでは、よほど内容が下らなくなければ、どんなに自分自身にとってつまらなく感じる作品でも、最後まで読み通すという決まりを自らの戒律としてきた。例外は、内容が圧倒的に『下らない』もの。そりゃもう、100人に聞いたら9割りは『下らん!』と断定してくれそうな作品のみ、途中放棄を自らに許していたのだが・・・、最近は、 『読む気分』じゃないから、という理由だけで匙を投げる事を憶えてしまった。

少なくとも私の場合は、そこに本があるからという理由よりは、気分によって、読みたいジャンルが比較的鮮明に決まるのだ。で、手持ちの作品の中から、気分に合ったジャンルの作品を選び出す。積読本が沢山あるとこういう時に便利(笑)。
しかしここ最近、随分長いこと、ミステリとアクション系はご無沙汰だった。若い頃に読み漁ったからか、一向に食指が動かない。となると、積読本も次第にその系統が残って増えていく。
先日は、ミステリ・サスペンスには圧倒的な信頼を寄せているアンドリュー・クラヴァンの作品が・・・最後まで読み通せなかった。まぁなんか、予想より遥かにバイオレンスなのが好みではなく、その割にタネがいまいちインパクトも薄くて、アンドリューどうした!?と問いたい雰囲気ではあったのだが、なんかもう、苦痛で苦痛で、2/3を消化した頃にラストだけペラっと読んで(超反則技)、しかも狙った通りのラストだったので、もうお腹一杯!という事で終了してしまった。

何か最近思うのだが・・・頭が難しい事柄を受けつけない。勉強していて必要な理解力を全てそこに注ぎ込んでいるからか、全く、小難しい話を読む気がしないのだ。難しいことを考えるのは、勉強だけでもう十分!と脳が反乱を起こしているよう。つくづく、脳の皺が少ない人間なんだな、私って。今はとにかく、起承転結がはっきりしていて、難しい表現は一切無く、単純に笑えるベタなユーモアがたっぷりあって、ラストはめでたしめでたし、という小説以外は読みたくない。しかし・・・、世の中そういう小説を探すのは意外と大変でねえ・・・。もうせめて、解りやすい展開の作品を選ぶ意外に方法は無い。
もともと難読症の気があるので、受け付けない!となったら、至極単純な単語ですら、字面だけでは意味が理解できなくなる。文を読んでいても、意味が脳に入ってこない。一行ずつ指で辿って、声を出して読んでも全く入ってこないのだ。仕方が無いから、単語毎に意味を理解し、その単語を繋げて文章として捉え、更にその状況を脳内で再現しながらゆっくり、ゆっくり辿っていく。来年になっても読み終わらないよ・・・、こんな方法じゃ。この感覚、同じ症状の方じゃないと理解は難しいとは思うのだが、真っ当な時だって、一文字も流さず一言ずつじっくり読まないと、全体の意味は把握できないのである。
図書館から借りちまったトンでも難解な作品を死ぬ気で消化したら、ブラッドベリ→アレックス・シアラー→ブラッドベリと、当分は繰り返して読み倒そうかしら・・・。

大根について

2008年05月19日 23:13

この後控えている映画の感想を書く前に、どうしても書いておかなければ!・・・というほどの話題でもないのだが、感想を書く前の、『言い訳』(笑)。

『大根役者』に関してだ。

意味を調べてみた。
【大根役者】
演技のへたな役者。大根。へぼ役者。だいこやくしゃ。〔語源未詳。大根の根の白いことを素人(しろうと)という語に通わせたとする説、大根はいくら食べても決して「当たらない」という洒落(しやれ)とする説、大根の鈍重な形からの連想とする説などがある。

〔三省堂提供「大辞林 第二版」より〕

ほっほう〜、なんで大根なんだろう?と思っていたが、色の白さがあったとはね。諸説掘り起こしていけば、まだまだ別の語源がありそうな言葉だ。
ちなみに私は、大根役者という存在の見極めが余り上手くない。従って、『この人演技下手〜』と私が感じてしまった場合、相当その人の演技はプロとして『ヤバイ』という事になるだろう。実は、日本人の方が大根か人間か、区別が付き易い。第一の理由は『台詞回し』の優劣による。やはり私は日本人として日本語が一番良く解るので、鷹揚だとか訛だとか、機微まで感じる事ができる分、評価が厳しくなってしまうのだろう。
次いではやはり表情。東アジアの人間は誰でも同じ顔に見える!という欧米人とは正反対に(笑)、当たり前に日本人の顔は良く解る。芸能人は見慣れた顔というのも手伝ってか、当然評価も厳しくなる。 とは言え最近は私も、10代のアイドル達の顔の区別が・・・余りつかない(笑)。ジャニーズに至っては、8割同じ顔に見えるというていたらく。全部同じ・・・演技にも見える。

と言う事で、欧米の役者に関しては、この逆説が当てはまる。英語なんてどれも『英語』にしか聞こえないので、細かい感情の変化まではとても理解出来ない。叫んだり、笑ったり、怒鳴ったり、大袈裟な発声にしか付いていけないし、よほどへたっくそでない限りは、台詞の優劣は付けられない。表情や動きにしてもまた然りで、もともとオーバー・リアクションの欧米人の事だから、微妙な優劣を見極めるのは困難なのだ。

これまでに海外の映画を見ていて、『コイツ本当に下手クソだなぁ〜』と思ったのは、『アレックス・ライダー』に出てきたスクラップ工場のおっさん2人(笑)。ありゃ素人でしょ?『素敵な歌と舟はゆく』の監督の孫。あいつは酷かった・・・。身内贔屓?と勘ぐっても致し方ない。フランス語も話せないから、声だけアテレコって・・・、マチュー・ドゥミが可哀想だす!
後は、可哀想だけど『ヘアスプレー』のニッキー・ブロンスキー。記憶に新しいから尚更なのだが、特にシリアスな演技がね、彼女の素の個性と噛み合っていなかったのでしょうかね、非常に学芸会染みていてちょっと辛かった。
サクっと考えても、せいぜいがその程度。アメリカに至っては、南部訛りぐらいしか解らないし。台詞において演技の優劣を感じるのは、解り易く言えば、英語圏ではない出身の役者が英語劇に出演している場合ね。どうも不自然だなぁと感じる事がありませんか?英語が下手とか上手い以前の問題で、台詞が自分の物になっていないという不自然な印象を受ける。その状況を顕著に感じるのが、私の場合はガエル・ガルシア・ベルナルとペネロペ・クルスなのだが、ガエルに至っては、あの強烈なオーラまでが陰を潜め・・・。

では上手い役者はどうか?というと、こちらは結構解り易い。シリアスな迫力ある演技の方がより伝わり易いというのは、役者の本腰の入れようから考えても当然と言えるだろうか。
例えば『ゴッドファーザー』の時のアル・パチーノ、生まれて初めて、演技を見て、しかもただ雄叫びを上げるというシーンで、寒気を感じるほど鳥肌が立ったのがこの方。『フォー・ザ・ボーイズ』で、ベッド・ミドラーが息子を想って、笑顔で『In my Life』を歌い上げるシーンでは、止めようも無く涙が流れてきた。『スタンドアップ』でのシャーリーズ・セロンの法廷でのシーン。毅然とした瞳に吸い込まれそうな気持ちになった。最近ではやはり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・デイ=ルイス。あれほどまでに嫌悪を感じる演技を見たのは初めてだった。忘れちゃならないのは『サルバドールの朝』のダニエル・ブリュールか。一分一秒、彼の中で息づく男は、間違いなくサルバドールだったのだ。
良い演技というのは、吸引力がある。眼には見えないが、確かに身体が感じる『渦』のようなものが、役者を中心に画面から溢れ出てくるのが感じられる。そして私は、まさに無心になってしまうのだ、その渦にのみ込まれ、シーン以外には自分の存在すら忘れてしまいそうになる。これぞ、映画を楽しむ醍醐味だと、繰り返し実感させてくれる。

さて、大根役者に戻るが、そんなわけで、私には余り良く解らないのだ。世間的に『大根』呼ばわりされている役者たちも、私には『そんなに下手か?』と疑問に想う事しか無い。例えばブルース・ウィリスとか、シルベスター・スタローンとか、ヘイデン・クリステンセンとか、あえて今は書かないが、この後感想を書こうと想っているあの方とか。
こうして挙げた彼等も、結構良い作品に出演している。『ジャスティス』とか、『海辺の家』とか、『ロッキー』とか、観てみて下さいよ、というね(笑)。各々の個性を生かした、魅せる演技をしていると私は思うのだが・・・さて?
どこかの著名人が『大根役者』と公言したり、最悪映画賞にノミネートされたりすると、いけない固定概念が生まれると思う。果たしてどれほどの人が、個人的主観によってのみ判断しているのだろうか?衆目に晒される職業である役者、いかなる批判も甘んじて受入れざるを得ないとは思うが、一生懸命やっているのに認められないというのは、やはり辛いなぁと思ってしまう。

才能って?

2008年05月18日 22:51

子供の頃の私は、人間誰しも『才能』があって、いずれはそれを発揮して華やかな人生を送るものと思っていた。これは恐らく、人生の汚い部分や排他的な世界、理不尽な都合などを全く知らなかったから、純粋にそう信じていられたのだと思う。
もちろん自分もその例に漏れず、いずれは、何だかの『才能』を世に示す時が来るのだと、そう信じて疑わなかった。しかしそれには条件があって、才能の発露には運命的な出会いが必要だとも思っていた。才能は無理に見つけるのではなく、何かしらの運命めいた出会から引き出されるものなのだと。その才能は地球上のあらゆる人にあるのだと信じて、私は待った、待ち続けた。

なので、人間は誰にも才能があるという、今で思えば楽観思考は実に20代後半も後半、ほとんど30歳になろうかというぐらいまで続いた。この頃には既に、『才能があると信じられなければ、人生やってられない!』という、どちらかと言ったら自棄気味な思いのほうが強かったのだが。
高校を卒業する頃は、それこそ未来へのどんな希望も、夢も、可能性も思い描けるが、20代も半ばを過ぎる頃には、幾ら才能があっても、運命が引き寄せられるとは限らないのでは?という思いになった。あらゆる人には何だかの『才能』が眠っているという論理は覆る事は無かったが、運命的な出会いがあるとは限らない、その人の才能は、死ぬまで眠ったままである可能性もあるのではないだろうか?と考えるようになったのだ。

この運命の出会いという事に関して、ちょっと目線を変えてみよう。
誰も聞いたことの無いようなスポーツ種目の世界で活躍している人って、一体どこでそのスポーツと出会ったのだろう?人生のどの時点で出会ったのだろう?そう考えた事はありませんか?例えばレスリング、アーチェリー、重量挙げなど比較的メジャーなスポーツにしても、世界クラスになるまでの訓練を積むに至ったのは、如何なる条件下だったのか?超メジャー級スポーツなら、誰でも想像が付く。マイナーよりだから、不思議に思うのだ。
もしや私だって、何だかの事情により射撃競技と出会っていたら、もしかしたらクレー射撃辺りでオリンピックに出ていたかもしれないじゃないか。もしかしたら、トランポリンに類稀な才能があったかもしれないのに、ただ単に出会えなかっただけなのじゃないか?運命が私にトランポリンを引き寄せたら、今頃日本を代表するトランポリン指導者になっていたかも知れない。

しかし私には、如何なる運命の女神も微笑んではくれなかった。何をやっていても、如何なる才能の発露にも繋がらなかった。そう悟った時にようやく、私には才能が無いのだという結論に達した。才能はあらゆる人間に備わっているものでは無いのだと、ある意味『開眼』したのだ。
そうした諦めも、認識しておくに悪しきはない。凡人にもそれなりの生き方があるし、無いものを単に待ち焦がれるのは、時間にしろ人生そのものにしろ、大いなる浪費に繋がってしまう。

かつて私は、職場の同僚に『器用貧乏』と言われた事があった。私自身は全くそのようには思っていないし、むしろ今の私には、器用貧乏という言い方すら、褒め言葉のようにも感じられる。しかし器用貧乏とは、なんとも意地悪い言い方でもあり、愛嬌のある呼び名でもある気がする。
何かに付けて人よりちょっと出来るというのも、まぁそれで悪くは無いと思うのだが、『頼み事をされ易い』というのもあると思うので、単なる貧乏に見せかけておいたほうが無難だ(笑)。私の場合は、実情は器用ではないまでも、見かけの勢いはあるらしく、なんとも器違いの窮屈な思いを味わう事がある。どうも、しっかりしていて、何でもそつなくこなしそうに見えるらしいのだ。
実際全然違うのに・・・・、器用貧乏ならぬ、不器用貧乏・・・読んで字の如し。
スポーツは全くダメだし、身体能力は著しく低い。何しろ、歩いていて自分の足に引っかかって転ぶくらい、それも1度や2度の話じゃない。本を読むペースは遅いし、計算は大の苦手。かつてテストで0点を取った事もあるし、通信簿に『1』を付けられた事もある。日本の歴史には滅法弱く、土地勘も無い。地図が読めなくて、極度の方向音痴。東京都新宿区で生まれ育って、30歳を超えて原宿で迷った女だ。まだまだ、私の逆武勇伝は腐るほどある(笑)。
・・・しかし、この日記にオチは無い。何となく才能に関する呟きが頭の中に渦を巻いていたので、暇だったから(仕事がね(笑))書いてみただけだ。全く生産性の欠片も無い。呟くつもりで書き出したのに、オチが無いから取りとめも無く・・・。こういう所が、不器用(笑)。

話題の2人?この勝手な見解(笑)

2008年05月16日 23:42

現在行われているカンヌ国際映画祭。私の苦手な映画祭(笑)。いやいや、ここ最近は、結構好みの作品が選出されたりしているので、個人的注目度も増している。
さて今回、フェルナンド・メイレレス監督の『ブラインドネス』がオープニング作品とコンペ部門で参加。18年ぶりとなる、オープニング作品の日本人参加が話題になっている。しかし・・・日本人参加というだけなのに、日本のマスコミの騒ぎようは・・・如何なものかと。日本人が主役の映画と勘違いしてしまいそうな報道、必死だな・・・。

しかも、記者会見に於いて話題の2人が、『一切日本語を使わなかった』とニュースに載る。ううむ・・・、世界で活躍する多くの俳優達は、例えどこの国出身でも英語くらい話せますってば。スポーツの世界でもそうなのだが、日本人は世界を舞台にしていても、語学が追いついていない場合が多い。日本の英語教育の薄弱さを感じると共に、私自身も、英語も話せないのに海外にのこのこ出かけていくので、偉そうな事は全く言えない(笑)。

さて、木村佳乃さん。私この方好きです(笑)。デビューした頃から、知的な感じの美人だなぁと思っていた。あの、達観した雰囲気も結構好きだ(笑)。確かドイツ生まれとか、話題になっていなかったか?帰国子女扱いで、語学能力の話題は兼ねてからあった気がする。その演技は余り見た事はないのだが、確か結構落ち着いた演技をする方だったような?狂騒的な芸能活動とは一線を画し、順調に女優としてのキャリアを積んでいる印象のある方だ。
対する夫役の勢谷友介さん、以前から、実は、この方の話を日記に書こうと思っていた・・・。いえね、あのガムのCM。あれは酷いよね、名前よりあのCMの印象が強く残っている方、多いのではないだろうか?以前会社で、『ガムのCMに出てる口臭い人』と言ったら秒速で理解した友人。以来ずっと『口臭い人』と言ってしまうが、母に言っても、通じた。
しかぁし!時折DVDの予告編集で見かける彼の演技は中々良さそうな雰囲気で、あのCMはいまいちだが、良く見りゃ結構男前。こちらも、周囲の雑踏は気にせずに、確かな道筋を目標を持って歩いている、といった印象だった。その彼が、米国留学していたとは、なるほどね。
そんな訳でこのお2人に関しては、知的そうな印象とそれを裏付ける根拠、加えて、周囲の騒ぎには乗じないマイペースさがあるような気がしていた。自分の求めるものがはっきりしているのかも知れない、選択の正しさも、それを証明しているのではないだろうか。

前回が余りに酷すぎたせいか、今回は出るべくして出た日本の若い力、という気もしている。とは言え前回だって、河瀬直美監督が『殯の森』で審査員特別大賞を受賞しているし、同監督はやはりカンヌで、10年前にカメラドールを受賞しているというのに、、、、サルだとか弁護士とか大きい日本人とか、騒ぐ場所が違うのよね。。。

さてさて、そんな話題のお2人は、私生活でも話題を提供されているそうで。交際が発覚!?良いじゃないですかぁ。余りゴシップには興味が無いが、こういう、才能に惹かれあったような若い2人を見ていると、なんだか無性に羨ましくなる(笑)。
先に書いた勝手な見解から、非常に似たところのある2人のように感じるのだが、道理の解った真っ当な大人という雰囲気も、また好ましいのだ。頭のネジが数本足りないような若いカップル(中年もたまにいますよね)が、お茶の間を騒がせる事には全く興味が無いが、こうした理知的なカップルが話題になることには興味がある。お互いそうして高いところを目指すと言うのも、なんだか微笑ましい・・・いや、羨ましい・・・。
とにかくこの2人なら、日本の演劇界を多少は世界に認知させられる、有望な存在になってくれるのじゃないか?と、勝手に期待しつつ(笑)、更なる活躍をお祈りしている。
それにしても・・・同じ道を志すその姿勢、才能が呼応する関係・・・羨ましいなぁ(しつこい?)

文章を書くこと

2008年05月15日 22:54

日本語教師になるための、日々の勉強法の続き(笑)。
先日の日記に色々書いたが、最後に1つ、取って置きの『勉強法』があったのだ。
それは、『日々、自分の考えを文章にするようにしましょう』というもの。他国語を学ぶ人達は、常に頭の中で文章を組み立てる。それに勉強の過程において、文章を作らせるのは正攻法だと言う。人に文章を書かせる前に、自分が文章の書き方を学べという事らしいのだ。
何も文学者になろうと言うわけではないので、『自分の考えを』という辺りに、ポイントがあるらしい。日記を付けるのも、良い方法なのだとか。ますます良いじゃないか、やってるじゃないか!ほぼ毎日!HPの頃から数えたら、5年ほども続けている。もちろん子供の頃から毎日、日記をつけている方には叶わないが(笑)、初めて、『やれる!』と思えた勉強法が出てきた(笑)。
1つ気になるのは、『起承転結の作り方、文章(=言葉)の繋がりなどを考えさせる』という指南があった事。実はこの『起承転結』を考えるというのが、子供の頃から苦手でして・・・。確かに学校で習った憶えもあるのだが、何しろ子供の頃からせっかちで、構成などを考える以前に、『書いてしまいたい』というタイプだったのだ。だから私の文章には、いつでも『起と結』はあるが、『承と転』が無い様な気がする・・・。せめて始まりとまとめぐらいは、あるように・・・・してる(笑)。

今もその方式は一切変わらず、考えると同時に文章に起こし、一気に、だぁ〜〜〜〜っと、書いてしまう。途中何度か手を止めて、これまで書いた分を精査しつつ進め、出来上がってからもう一度読み直して、言葉遣いや文法、文章の繋がりのおかしな部分をまとめて直すのだ。
一番修正を加えるのは、この長さ。思いつくままに一気に書いてしまうので、とにかく出来上がると長い。blogに更新する分でも長いが、実際はもっと長いのだ(笑)。多い時には半分くらい削る。アホですね。思いつくままに書くので、読み直してみると、それこそ恐ろしく下らない事も沢山書いてあるので、削るのは簡単なのではあるけれど。
しかし削るとその分、文章の繋がりがおかしくなる。仕方なく言葉を変えたり、並びを変えたりしていると、段々と違った文章になってしまうのが恐ろしい(笑)。似たような内容の繰り返しを省くための方法を捜したり、言い回しが冗長に繋がりそうなバランスの悪い言葉を、簡潔に示せる単語を探したりもする。会社で書いていると(笑)どうしても途切れ途切れになるので、自然と読み直すことが多くなり、この修正作業が頻繁になる。

こうした修正、いわば校正作業も、かなり重要だという事が書いてあった。『自分の書いた文を何度か読み直して、修正を加えるようにしましょう。読み直すと思いの他、文法や言葉遣いの間違いが見つかったり、おかしな文の繋がりになっていることに驚くはずです』・・・私はほとんど毎日驚いていますよ、自分のアホな過ちに。
意図的に違った言葉を使ったり、言い回しを変えたりするのも有効だそうで、これは、文章を短くするために日々私がしている試行錯誤と当てはまる。これが、違った文法でも意味が同じという状況を説明するのに役立つそうだ。
こうした間違いや精査作業を通して、文章を書くことの難しさや重要性を肌で覚えれば、『自分も苦労した』という思いに繋がり、慣れない作業をする人の身になって考える手助けにもなるだろう。日本語教師の教材が繰り返し言っていることの1つには、『解らない人の身になって、同じように考えられる人になる』というのがある。これはもう、『人として』生きる上で、重要な考えだと常々思っていたものだ。しかしいざとなると、それも中々難しいのが実情なのだが。

これまで何度か、イヤ、実は結構頻繁に、全く何の足しにもならないBlogなんてやっていてどうする?と思った事があった。文章を書くのは好きだし、自分の考えを整理するのに、私の場合は役に立つ。それに、映画や小説の記憶術でもある。
それにしたって余りに不毛だ!と、繰り返し思ってしまうのだ。特に、自らの人間性の矮小さを思い出した時など、やたらと痛烈に自己批判したりする。全く、こんな愚にも付かないblogのネタ書きに時間を使って、それなら他に、もっと実りのある事も出来たろうに!と自分を責める。恐らくは、このblogのネタ書きが、私にとっては大分『現実逃避』に近いものだからなのだろう。
しかしこれからは、『勉強』だから仕方が無い(笑)。こうして、無駄に書いて来たと思っていたものに、思わぬ意味を見出せるとは、なんとも嬉しいことなのだ。かなり都合よく解釈してるなぁとは、自分でも思うものの、それだって良いさ、だって、『勉強』なんだもん!

勉強方

2008年05月13日 23:24

そんな訳で(笑)、私は今『お勉強』に僅かな時間を割いているわけだが、とにかく本当に何が何でもとことん、私は勉強が苦手なのだ。要は、『効率が悪い』タイプらしい。学生時代から、テストのヤマを張るのがとにかく苦手で、万が一にもヤマが当たったところで、『ああ、、、そういや勉強したはずだなぁ?』程度しか記憶が蘇らないのだ。
ノートの取り方なども良く解らなくて、黒板丸写しが精一杯。勉強が良くできる子のように、マーカーを引いたり色取り取りに華やかに、構図良くバランス良く見やすいノートって、どうやったらできるのだろう?といつも羨ましかった(笑)。

とにかく効率の良い勉強方法が解らない、記憶するにも、きっと効率の良い方法があるのだとは思うのだが、私には解らない。正しい方法が1つあるという断定的なものではなくて、個々人に合った勉強方法と言うのがあるのだろう。私の場合は、何が適しているのか?
私が目指す、日本語教育能力認定試験。出題範囲は恐ろしく広範囲で曖昧だ。幾つかの教材や指南書を当たってみたが、大方は、『日々の暮らしの中でアンテナを張って、日本に暮らす外国人のこと、世界情勢に関してのニュースを学ぶように』と説いている。勿論日本語の文法の再確認は大切だが、主にアジアに向ける興味を深るというのが、とても重要な要素なのだ。
かつてレストランやホテルで働いていた時に、多くのアジア系の方とご一緒した。日本語も英語も話せなくてコミュニケーションに困ったりもしたが、大抵の方は驚くほど早く日本語をマスターされて、毎日の生活に役立てていた。

高校生の頃に一緒に働いていた中国の女性は、子供を国の親元に預け、勉強のために日本に来たと言っていた。彼女の作ってくれた餃子は本当に美味しくて、当時日本しか知らなかった私に、世界は本当にあるのだ!という、素朴だが強い興味を掻き立てた。
そんな彼女も、天安門事件を堺に急遽帰国してしまった。そんな時代だった。その事件の情報を職場に持ち込んだ彼女の動揺、それに続く慌しい帰国、世界では、大変な事件が起きているのだと、無学な私の脳裏に強く焼きついた。
別のホテルでは、台湾の留学生の女性。明るく元気な彼女は、驚くスピードで日本語をマスターして、更なる目的のために旅立っていった。お世話になった皆様にと、彼女がくれた美しい刺繍のある小さな袋、異国の匂い漂うその思い出の品を、今も私は大切に持っている。何よりも、彼女の高い志が素晴らしいと感じた。如何なる状況であろうとも、明るさと気概を持って大らかに挑む彼女は、まだ若かった当時の私に、大きな感銘を与えたのだ。
長く働いていたレストランでは、中国人の一団が皿洗いを担当していた。皆家族のように仲が良く、片言の日本語で良く私達と話をしていた。勤勉で、明るくて、とても良い人達だったのに、ある日突然、集団で消えてしまったのだ。理由は、不法就労発覚による強制退去だった。
前日の夜に笑顔で手を振って別れ、翌日出勤したら彼等はいなかった。それほどあっけなかった。大きなレストランの皿洗いが総勢で消えた後の混乱は筆舌に尽くし難く、彼等の労力の大きさを思い知ると共に、国境を越える事の難しさ、必ずしも人と人との繋がりだけでは守れない、生活や尊厳という事に、酷く理不尽な思いがしたものだった。

こうした人達を手助けできればと、薄ぼんやりと私の頭に去来したのは大分前の事。この他にも多くの外国人の方と一緒に仕事をしたりしたが、良く言われたのは『あなたは良い先生ね』というもの。文法の事など良く解らないが(笑)、彼等の素朴な質問が面白くて、いつもそんな日本語談義をしていたのだった。『ペラペラ』ってどういう意味?『あの“おばさん”とあなたは言うが、あれはあなたの伯母さんなのか?』。そんな他愛も無い質問が、どしどし持ち込まれるのだ(笑)。
何か解らない語法や単語があると、私のところに質問に来る人が多かった。曰く説明が解りやすいと褒められたが、手前味噌でお恥ずかしいのだが、それなら!結構良い先生になれるんじゃないの?という、余りにも楽観姿勢で始めたこの目論見(笑)。
今では様々な要因がひしめき合っているが、かつて私が出会った多くの方々、子供だった私に、僅かでも世界を見せてくれた人達に、少しでもまた近付きたいと、そんな思いがあったりする。良く『日本語教師』というと、欧米人に教えるという理想を持っている人が多いと聞くが、私の場合は、その辺りだけは的確に、現状を把握していたようだと一先ず安心。
しかし・・・正直言ってしまうと、アジア系の歴史、情勢などは大の苦手、何しろ日本もその範疇に入ってしまうぐらいだから性質が悪い。新聞でも購読しようか?と思ったが、耳を澄ませてみれば、日本語教師に絡みそうなアジアのニュースは、驚くほどに多い事が判明した。
ネット、ラジオ、テレビ、それだけでも、かなりの勉強の手助けになってくれそうなのだ。

他に日本語教師になるための日々の努力としては、常に正しい日本語を話すように注意し、正しい書き順を意識し、特にひらがな、カタカナが正しく表記できるように心がけよ!と言うもの。話すのも、単に美しい文法や言葉遣いというのでは無くて、正しい発音を心がけるのだそうだ。
特にアナウンサーの話し方を研究し、真似するようにすると良いらしい。確かに英語でも、話し手によって聞き取り易い人、聞き取りにくい人と極端だが、その極端さは、私が『日本語耳』だから顕著なのだと思う。『韓国語耳』『中国語耳』『フィリピン語耳』の人達に、的確に伝わる日本語を話せなくてはならないのだ。はて、やたらと早口な私、発音は如何なものだろうか?
私自身、英語が出来なくて、海外に行った時に様々な困難に出くわした。その時の事を思えば、こうした指摘はなんとも適切だと思わざるを得ない。以前アイルランドのツーリスト窓口で貰ったメモは、ミミズがのたくってるようにしか見えなくて、結局島へのツアーは断念した。英語も聞き取れなければメモも読めない、待ち合わせの場所が理解できなかったのだ(笑)。
これは英語圏の人でも読めないだろう?と思ったのだが、アメリカの方に聞いたらあっさり『読める』と(笑)。長年の慣れとはこういうものなのかと思うと同時に、染み付いてしまった感覚は中々治らないものである。この点、今後は注意して過ごしたいと思う。
こうした経験を糧にして、普段日本人として日本で暮らしていると見えない、『当たり前が当たり前ではない世界』を再認識する、これも勉強。なんだか少し、面白くなってきた。

学ぶ事の意義

2008年05月11日 22:12

ここ最近、今年の目標にも定めた『日本語教師』になるための勉強をしている。
これまでもボチボチ独学でやってきたものの、遂に己の無学さと広範囲な出題範囲に匙を投げ、10万円近くする教材を買ってしまったのだ。
お金がかかっているから、、、という安直な感情では無しに、今の私には別の動機が、それも強い動機があるので頑張る事が出来る。先ず何より、たとえ検定レベルであろうとも、日本語教師になれる基準を手に入れたいのだ。たとえ高卒という低学歴がネックになろうとも、働く場所は確実にあると信じて、今はやるしか無い。リアルな現実を、ウダウダ悩んでいる余裕は無いのだ。

強い動機というのは、母のこと。40歳で私を産んだ母は、正直、高齢になってしまった。減る事の無い心労のせいか、最近母の体調が悪い。こういう現実を目前にすると、長年考えないようにしてきた『肉親の死』というのを、嫌でも考えてしまう。
母の心労の大半は、お金の事だ。自営業でやってきて、残念ながら生活するのがやっと言う状況だった。今も多大な借金を抱え、年金は夫婦合わせて10万程度。生活するのもやっとな状況なのに、身体は言う事を利かなくなる年齢でもあり、普通なら、旦那の定年退職金やらなんやらで、何不自由なく暮らしていてもおかしくない年齢だ。
勿論子供たちだって立派に自立し、金銭面で援助が出来て当たり前のはずなのに、私達子供は・・・、未だに『子供である』という基準から抜け出せないでいる。派遣を続けて、その日暮しのまま、貯金だって、自分が生きるので精一杯という有様だ。
金銭的援助も当たり前なのだが、親にとっての満足感や幸福というのは、子供が親を乗り越えて、立派な人生を歩む事なのじゃないだろうか?立派でなくとも、世間に恥じない、まともな人生を歩むこと。それは勿論『大人』として歩むことだ。

そう考えると、私は一体今まで何をやってきたのだろうと、痛烈に自分を非難する事しか出来ない。仕事は派遣だし、学歴も無い。この先の人生も、余り発展性があるとは言えない。確かに、自分の生活を削って親を援助する事はできるだろうが、それでは何かが違うような気がした。
世間に顔向けできるような、地に足の着いた仕事を得る。それが何より重要だと思えるのだ。ただ働くと言うのではなく、自分を証明できるような仕事をしたい。そうなって初めて、私は母に『立派な大人になった』事と、この先の安心を差し出す事ができるのだ。
『日本語教師』として、例え非常勤のアルバイトとして教壇に立とうとも、今現在のように、『単なる派遣』でいるより数倍マシだ。母はきっと、安心して私を誇りに思ってくれるだろう、これでようやく、『大人』になった私を見る事ができるだろう。

親と子供の関係は複雑だ。親は幾つになっても子供を心配し、親である事実を守り続ける。子供にしても、親は親であり、精神的に上位に立つことは無いだろう。それでもきっと親は、子供達の生活や人生の安定が、自分達より上位に立つことを望むだろう。それこそが、親が後世に残せる足跡であり、自分たちが消え行く運命だとしても、安心して旅立てる証になるだろうから。
私はこのままでは、母を安心して送り出す事が出来ない。こんな子供のままでは、母を送る事など到底できないのだ。母が母として生きたこの年月を、それでは無駄にしてしまう。私は今の自分を満足だとは思っていないし、世間に顔向けできるとも思っていないのだから。
資格を得、母が誰かに自慢できる仕事に就く。教職が自慢の範疇だと言うのではなくて、これもやはり、『単なる派遣』から、説明できる仕事に就く事が重要なのだ。それに、将来への安心感も増す。母は以前友人に言われたそうだ、『死んでまで子供の心配は出来ないのよ』と。
私は母に、死んでまで持ち込む心配の種を与えている。子供は常にそういう対象ではあるが、年齢だけでも『大人』になったなら、その生活も、実態も、『大人たらん』とするべきで、大人であると言う事は、親に心配をかけない事も含まれる。

これまでは、金銭的援助が何より大切だと思ってきた。でも今は、『お金で解決できない』問題があると言う事を実感している。普通の人が当たり前に与えられる『堅実な人生』を、私は何故上手く差し出す事が出来ないのか?時折そう感じると、無性に自分が嫌になる。
母は今とても、私の夢を応援してくれている。果たして、私に与えられた時間は後どれほどあるのだろうか?たとえどれほど少なくても、思ったよりも多くても、早いに越した事は無い。母が満足して私を見る時間が、その分増える事になるのだから。
だから、必死に勉強する。私が得るのは、単に日本語教師への可能性だけではなくて、母へのプレゼントでもある。お金では決して買えない、母として彼女が生きた、証でもあるのだ。そしてその思いが、今の私の一番大きな原動力になっている。さぁ、勉強だ!

理想の男性像

2008年05月08日 00:01

先日友人に『理想の男性のタイプ』の説明をしたところ、『そんな人はいない!』と言われた。実はこの話題でこういう反応を貰うのは、何もこの友人に限った事ではなく、誰に言ったとしてもほぼ100%の確立で同じ反応を貰う。先日親元に行った際にも、『いい加減で誰か見付からないのか?』という母の追及に、『理想のタイプ』がいないからという返答を返していたら、母からも全く同じ反応が返ってきた。『いるわけ無いじゃない!あんたみたいなタイプ!』とは、いかに?
ちなみに、私の『理想の男性のタイプ』とは、『同じ趣味の人』なのだが、それが、『いるわけない!』のだそうだ。・・・失礼な。まるで私が、人には言えないような恥ずかしい趣味か、やたらとマニアックで知っている人も少ないような、キワモノ趣味を持っているみたいじゃないか。

何も、私と同じくらいの本数の映画を観ていなくても良いし、読書の好みが多少違ったって良い。ジェーン・オースティン大好き!とか言う男性は、むしろ私の方がご遠慮したい(笑)。何も完璧に趣味が合う男性を求めているわけじゃない、そんなドッペルゲンガーは、さすがに不気味だ。
しかし、そういう男性がいたらむしろ『気持ち悪い』とまで言われると・・・、私も気持ち悪いって事?という小さな、小さな、小さな・・・疑問が沸き起こる。確かにねぇ、読書や映画鑑賞が趣味ってタイプは、どうもこう、私を含め、まぁ、あれよ、穴蔵生活というか、人に会わないというか(笑)。
時折レアな映画の話が出来る男性もいるが、稀に観ただけという場合が多い。小説に関しては、そうね?ウッドハウスを知っている女性は結構いるが、男性は1人もいないという・・・比率?

以前は自分でだって、理想の人と巡り合うのは無理と諦めて、完全に趣味が違う人の方が視野が広がって良い!などと思っていたものだ。
しかし、ブランド品好き、冬はスノボ三昧、ヨーロッパには海が『無い』からハワイに行きたいと言い、小説なら史実に基づいたネタの時代劇しか読めないとか、シットコムは大嫌いだと公言し、映画は『タイタニック』ぐらいしか知らなくて、むしろ大捜査線が踊るタイプを好み、余りに無趣味だから家でボーっとしているぐらいしかなかったり、イベントが大好きで、40度の熱があってもクリスマスには蝋燭を灯そうと無理をして、バレンタインにチョコが無いとふてくされたり。第一何より、人混みと流行の場所が好きな男たちが多かった。そんな方達と、上手く行く訳が無い。

そりゃ私だって誕生日くらいは祝って欲しい(プレゼントが欲しい(笑))、人気ドラマの映画化だって観てみれば結構面白かったし、『タイタニック』だって勿論観たさ(これは私のリクエスト)!シットコムが嫌いなら、コソコソ隠れて録画鑑賞して、ヨーロッパ系の映画は彼がいない隙にこっそり鑑賞。K1が余り好きではないと幾ら言っても聞いてくれない彼が、のうのうと『私の』テレビでK1の試合を見る度に、隣の部屋に非難して、文学作品をひっそりと読んだものなのだ。
ブランド名には余り興味が無く、物が良ければノンブランドでもドンと来い!タイプの私。そもそも金銭的事情から、ブランド物なんて買う余裕もありゃしなかった。携帯のストラップ、PADのカバー、小銭要れ、財布、眼鏡、眼鏡ケース、あらゆる小物をヴィトンだグッチだと最新のブランド品で固める彼の、お買い物にだって付き合った。
海外旅行は、ことごとく私の希望は却下。『ヨーロッパ(特にアイルランド)に行って真夏に何するの?』と言われれば、美術館とか古都を散策したりなどとは、幾ら言っても馬の耳に念仏。やれオーストラリアだビーチサイドだ!と連れて行かれ(旅費は自腹なのに)、免税店で彼のお買い物に付き合った。国内旅行に行っても、アミューズメントエリアか美術館巡りかで常に対立し、無理矢理美術館に行けば早足で終点まで行って居眠りしている憎き相方。当然、都内の美術展には1人で行く事が多かった。もうこりごりだ、こりごりなのだ!そんなに合わない相手の数は二桁を超え、趣味が『合う』人との方が、絶対に長い付き合いは上手く行く!という考えに至った。

元来、外国人の彼氏に憧れは全くないのだが、そうした面ではちょっと良いなぁと思う時がある。海外旅行先の道端で時折声をかけられるが、たまに小説の話になったりする。『ご趣味は〜』的会話の延長なのだが、そうした時、一応その国に則した作家か、世界的に有名な作家の名前を出すようにしている。その名前が確実に通じるのが嬉しいのだ。映画にしてもこれまたしかりで、やはり、日本よりは格段にヨーロッパ系の映画の話も通じる。
例えばイギリスでウッドハウスの名前を出せば確実に通じるし、古本が沢山売っている書店まで教えて貰える(買った所で読めやしないが(笑))。ジェーン・オースティンが好き!などと言おうものなら、男性だったら鼻で笑われたりもするが、それすら嬉しい(笑)。鼻で笑うだけ、知っているという事なのだから。突っ込んだ話は余り出来ないまでも、ジェームズ・ヘリオットを知っている男性がいたのは、本当に嬉しかった。
これは別に、日本の男性が無教養だという訳ではなくて、ただ単に、チャールズ・ディケンズは日本の夏目漱石や太宰治みたいなもので(笑)、要するに、誰だって知っている文豪なのだ。森鴎外だとか、大江健三郎だとか、井伏鱒二だとか、芥川龍之介だとか、宮沢賢治だとか、日本人なら誰でも知っているような作家の、海外バージョンの名前を挙げているだけなのだ。

理解され共感されるという事が、嬉しくて心地良いのだ。
例えば、今のところ私のロマ・コメNO.1映画『理想の恋人.com』でこんな場面があった(笑)。
主人公ジェイクは、理想の恋人と思われたサラと上手く行かずに、ヤケになって別の女性とデートをする。『ドクトル・ジバコ』を観た帰り、偶然サラに出くわしてしまう。デートの相手は『ドクトル・ジバコ』を『陰気な映画でつまらない!』とのたまって、原作がある事すら知らないのに対して、サラは『あの映画大好きよ、何十回も観たわ』とか言う。それを聞いてジェイクは思わず微笑むのだが、その気持ち、良く解る。そうなのだ、こうした共鳴が嬉しいものなのだ。
いつの日か『ジャック・フィニーがこの世で1番好きな作家』と言ったらば、『僕のベストも『ゲイルズバーグの春を愛す』だね』という男性が・・・現れないものか・・・。
マークトゥエインの人間観察に関してちょっとした会話が出来たり、レイ・ブラッドベリの文章について他愛も無い愛着を語ってみたり、ロシア文学のかつての繁栄に関して語りあってみたい。お薦めの小説を交換したりしてみたい!本棚を共有してみたいのだ!
いや、やはり、それが、大方の友人には『気持ち悪い』と映ってしまうのだろうな・・・、無念だ。

サイト名変更のお知らせ

2008年05月06日 23:37

ゴールデンウィークも最終日、皆様いかがお過ごしだろうか?
私は・・・、サイトのタイトルを替えてみた。

替えたからと言って、特に気にする方もいないだろう?とは思ったのだが、一応、リンクを張って下さっている方もいらっしゃるので、こんな形でご報告。

新しいタイトルには、特に意味はありません(笑)。
ただ、blogのテンプレートでは、英数字の文字設定が細かいものが多く、日本語だと上手く表示されない、というのがあったので、なんだかつまらないので乗っかってみる事にした。

Wanderlustとは、常に『旅したいなあ〜』という欲求に駆られている本心を如実に表しているのではあるが、まぁ取りとめも無いまとまりの無い日記を、思考も話題もあっちに飛び、こっちに飛びしながら書いている、映画や小説も、これといってこだわりの無いチョイスなので、『放浪』と引っ掛けるのは、そこそこ筋が通っているような気もした。
ぶらつくとか徘徊するとか、このblogに偶然辿り着いた方にも、言葉通りぶらぶら覗いて行って頂けたらなぁという、希望も入っていたりする。
memoruadumは、単にmemoでもjournalでもdiaryでも良かったのだが、何となく語感が気に入った。細かい文法の事などは・・・つっこまないで(笑)。

大分前に1度、『日々徒然』を英訳にしてみようか?と考えた事があった。日々・・・は、何とか英語にできそうだったのだが、徒然が難しくて結局断念(笑)。
今回は、小説を読んでいたらたまたま『Wanderlust』という言葉を見つけて、上記のような理由であっさり採用決定した。ということで、今後ともこちらのサイトを、宜しくお願いします。

現在リンクを貼っていただいている皆様には、リンク名はそのままでも宜しいですし、違う名前は気持ち悪いわ!という場合は、お手数ですが変更をお願いいたします。
と、この場を借りてお願いしちゃう失礼をお許し下さいませ。


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