映画人生

  • 2008/06/29(日) 12:22:33

少し前の話になってしまうが、映画評論家の水野晴郎氏が亡くなられた。日々目まぐるしく入れ替わるニュースに紛れて、20日も経つとすっかり古い話という気がしてしまう。世間はかくも慌しいという事か・・・、なんだか、水野氏の訃報と併せて、妙に物悲しい気持ちがする。
1つの時代が終わったな・・・、という気がする方はおられないだろうか?日本の映画産業における映画評論という1つのカテゴリー、戦後日本に映画が浸透し、進化してきた流れの1つ区切りが付いて、古い時代が終わったのだ、という物悲しさ。

私は幼い頃から、映画を比較的観る子供だったと思う。映画館にも良く行ったが、お小遣いが乏しい身としては、やはり映画のテレビ放映は欠かせない。高校生になった頃からレンタルビデオショップが乱立し出したが、ビデオを借りてきて映画を観るという生活スタイルが、中々馴染まなかったのを憶えている。中途半端に高いレンタル料を払うのも、何だか勿体無い気がした。
今では吹替えは120%拒絶するものだが、当時の私は吹替えも結構好きで、有名俳優がアテレコするのも楽しんでいた。アイドルが下手なアテレコするのは、今も昔も許せないけど(笑)。

そんなかつてのテレビでの映画放映と言えば、本編の最初と最後に登場する『解説者』が付きもの。私にとって映画評論家と言えば、こうしたテレビの解説者の事だ。それぞれに個性的な方が多かったが、その筆頭はやはり淀川長治氏。締めのフレーズが有名な、『さよならおじさん』だ。
映画のテレビ放映の時は、この解説から見なくては絶対にダメなのだ。観終わった後の余韻を確かなものにしてくれる、最後の解説も欠かせなかった。今のように多様なメディアが無かった時代、映画の達人達の短いが有意義な解説は、映画に関する貴重な情報源でもあったのだ。
特に淀川氏の解説は面白く、完全に独自目線で、『大衆の』というより完全に『自分軸』の意見や解説が大好きだった。日曜の夜ということもあって、あの『さよなら、さよなら、さよなら』を聞くと、終わってしまう休日を偲んで無性に寂しくなった事を思い出す。もう1人記憶に深いのは、その落ち着いた雰囲気と、何となく会社員風情の印象がある荻昌弘氏。語り口などは余り記憶にないのだが、とにかくその風貌から、『大人っぽい』解説を聞いている気分になったものなのだ。
双方共に既に他界されており、その後現れ始めた幾人かの名物解説者の中のお1人が、水野晴郎氏だ。私にとっては割と新しい解説者というイメージが強く、おすぎさん等はもうほとんどニューウェーブ(笑)。むしろ映画解説者として身近に感じる事が余り無いので、映画解説者という印象はほとんどないのである。現在『映画解説者』と呼ばれる方々にしても、映画を解説してくれる身近な場所が余り無いので、解説者という呼称で考えた事は無い。
吹替えNG論者になって久しく、子供の頃はあれほど楽しみにしていた映画のテレビ放映は全く観なくなった。今のテレビ放映の時間帯、曜日に変更は無いようだが、どれも『名物解説者』ではなく単なるナレータの解説に落ち着いているようだ。何だか寂しいなぁ・・・。観ないくせに(笑)。
ああした『その道の達人』の方々が解説されている場合、その言葉1つ1つが『生きた言葉』として感じられるが、ナレーションだけとなれば、誰かが書いた脚本をただ読んでいるだけ、かつてのような沸き立つ興味は感じられない。

なぜテレビから名物解説者が消えてしまったのか?それはやはり、先ほども書いたようにメディアの多様化によるものなのだろう。映画情報なども、今や雑誌すらレトロな媒体のように感じる。日々更新される俳優達の情報。新作の裏話、旧作の溢れるほどの感想。格言う私もその1人。
インターネットの台頭はあらゆる方向性を変えたのか?まさかテレビの映画解説がそのせいで消えたとは言わないが、なくても補って余りある情報が今や目の前にある。新作映画の映像だって、断片的であればご自宅でお手軽に観る事が出来る世の中だ。次第に、人間味のある名物的な語り口調より、正確で膨大な情報だけを人々が求めるようになってきたのかも知れない。
そうした情報を手軽に入手できる方法は数多あり、そうした場に情報を提供する人の数も多くなったはずだ。それでも、全身から『映画好き』という雰囲気を放出し、独自の言葉で楽しませてくれ、何か重要な意見を聞いているような気分になり、映画の話も勿論だが、その人の話を聞くのが楽しいというような、そんな際立った人達はいない。膨大な情報に飲み込まれて、言葉だけを生み出す評論家や解説者がいるばかりだ。雑多なニーズが、個性を消してしまったかのよう。
『いや〜映画って、ほんっとにいいもんですね』というのが、水野氏の決め台詞。これを言う時の水野氏の顔がなにやら本当に楽しそうで、こちらまでつられて笑ってしまうような雰囲気だった。数いる映画好きな解説者の中でも、水野氏は淀川氏に続く映画好き・・・というのは私の中の基準である。ご自分で映画を撮られたり、その映画に心身共に捧げたりと、奇矯とも思えるほどに映画にのめり込んだ人生だったのだろうと思う。
ある意味とても羨ましいよね、そういう人生、悔いなく生きる。
とかく愉快な話題を提供してくれた水野氏、『映画バカ一徹』と、良い意味で使わせていただきたいところのある方だったと思うが、そこがまた、なんとも憎めない雰囲気がある。最後にご覧になられた映画が『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』というのも何ともまた、らしいというか。長年の映画人生をこの映画で締められる事になるとは、とは言え、熱い映画好きの署名活動によって日本公開が決まったこの映画、確かに、水野氏の志と繋がる部分があったのかも。
私の中では、水野氏の姿は今もテレビの映画解説をしていた頃のままだ。毎週放送されるあらゆる映画を、愛情を持って独自の言葉で語る。福耳で頬のふっくらした輪郭、まるで豪勢なお船に乗っている方のような印象のある顔で、笑顔で映画を語るその姿。
『名物解説者』として私達を楽しませてくれた時代の、1つの幕が降りたような気がする。非常に寂しい気持ちがするが、流れ行く時代の中で生きている、これも致し方の無いこと。水野氏の訃報を聞いて、純粋に単純に映画を楽しめた子供の頃の気持ちが蘇った。私のこうした郷愁の中では、欠かせない『名物解説者』であった水野氏、心よりご冥福をお祈りいたします。

時間に対する価値の付け方

  • 2008/06/21(土) 00:30:09

『時間は神様からの最大の贈り物です。それを得るために働く必要もなく、お金を払う必要もありません。神様は何の条件も付けず、時間を白紙の状態でくださいます。それにどれだけの価値を付けるかは、あなた自身が決めることです。』

良い言葉だ。今読んでいる小説の中で語られた言葉。あるカソリックのシスターが、放蕩を重ねる主人公の心に残した言葉だ。私も何度か、時間の有効活用といった日記を書いたが、要はこういうことが言いたかったのだ。自分が上手く表現できない事を、これほど端的に印象的に的確に表現された文章を読むと、つくづく、小説を読んでいて良かったと思う。

アイルランド好きならば、決して避けては通れない宗教。とりわけ、敬虔なカソリックという世界だ。根本的に無宗教で、あえてどちらかと言うなら、仏教の方が肌に合っていると思う私。特にカソリックは、信仰に於ける良い面よりも、制圧的な事柄や禁欲的な理不尽さなどの印象が強い。要はキリスト教の教えには余り心動かされないのだが、時間に関するこの考え方は気に入った。
『ただそこにある』という意識ではなしに、無償のギフトなのだと思えば、それを生かすも殺すも自分次第なのだという価値観を身近に感じられる。時間そのものに価値があるのではなく、価値を持たせる事が重要なのだと。ただ無為に『価値ある時間』を浪費するのでは無い、何もしなければ時間は白紙であり、無為に過ぎているでもない代わりに、その人の過去の時間には、何ものも描かれてはいないという事だ。そうして無価値な時間の歴史が、長々と刻まれていく。

とまぁ、こんな風に心をぐわっしぐわっしと揺さぶられながらも、本日は仕事帰りに美容院に寄った。前回、美容院の指名制度に困惑しているという日記を書いてから早半年、その後の経過報告を怠っていたわけでもなんでもなく、ただ単に『行っていなかった』というだけ・・・。
何かと日々忙しくしている。美容院に行きたいなぁ〜と思っても、別の用事にかまけてしまう。もう1つ言えるのは、私が非常な電話不精である事だ。電話って、しようしようと思っても、ついつい先延ばしにしてしまうのだ。手紙の類もそうであるが、とかくだらしの無い性分なのだろう。
しかも昨今の美容院は、予約しないと髪を切って貰えない。今週末は空いているから美容院!と思っても、忙しさにかまけて電話をしそびれてしまうのだ。仕事から帰ってくると、ご飯を食べて映画を見て勉強してお風呂に入って・・・、ふと気が付けば、よもや美容院は営業している時間ではない。予約の電話にはほんのちょっとの時間で良いはずなのに、ついつい見過ごしてしまう。
ならば移動中に!と思うのだが、携帯電話で話しながら歩くというのが苦手だ。某CMのように、颯爽と歩きながら長電話なんてのは、私には難しい。そこでつくづく思うのは、移動中は常に急いでいるという事。立ち止まって電話するなどという余裕は、考えたらほとんど無い。
朝の出勤時は言うに及ばず、昼の仕事の後は慌ててバイト先へ。バイト後も、目的の電車目指してひた歩く。家の駅を通る電車がローカル線なので、いつも時刻表に追われるように駅に向かうのだ、乗りそびれたら、最悪30分待つような電車だ。友人と会うときも、大抵は時間ギリギリの移動なので、待ち合わせなどの目的に向かってひたすら突き進む。
大方の現代人がそんなものだろうと思いながらも、なにやら殺伐とした感じがしてしまう。そのため、良く利用するのが携帯メールだ。電車内では、話は出来ないがメールなら打てるから。

慌しい時間の使い方というのは、決して先に挙げたような『価値ある時間』にはならないだろう。勉強して良い仕事に就いて充実した人生を送るという、長期的な価値の付け方もあるだろうが、こうした短時間の上手い使い方、ゆとりのある時間の持ち方も、価値を生み出す根拠となる。
昼の仕事、夜のバイト、その合間を縫って勉強をして、趣味の映画を楽しみ、生きるためにご飯を食べて、人並みの空間を維持するために家事全般をこなして来た。時折友人と合って楽しい時間を過ごし、それでもまだ、時間を上手く使えていなかったのだと思い知る。
いつも先を考えて、こなす事に追われ、過ぎていく時間に汲々とする日々。やる事が次から次へとあって、ふと立ち止まる事すらないなんて、疲れが溜まるのも当然だ。ゆとりのある時間配分、人生にほんの少しでも、深呼吸する瞬間を作る。そうした時間から、次なる価値を生み出せるように。今日は髪を切りながら、そんな事を考えていた。

ちなみに、美容師の指名制度問題であるが、一応の決着がつきそうだ(笑)。
今日もまた『急な予約なので空いている方でお願いします』と逃げを打ったのだが、前回と同じ兄さんが担当してくれた。美容院側が、彼にしておけと決めた模様だ。2度続けてやってくれたし、ロングからショートという過程を経たので、今後はあの兄さんにお願いする事にしよう(笑)。

燃料サーチャージ・再び

  • 2008/06/19(木) 23:36:34

先日、高騰する原油価格に伴う燃料サーチャージ値上げの話題を、ラジオのコーナーで取り上げていた。朝の支度の忙しい時間帯に、思わず聞き入ってしまう・・・背筋が寒くなる話題だった。
私がつどつど、『アエロフロート・ロシア』を利用するのは、基本的なチケット代が安いことも然ることながら、『燃料サーチャージ』(以下:油代金)が安い事が、最大の決め手だったのだ。
昨年9月の利用時で、油代金は約18,000円。3ヶ月毎の見直し直後で、その前は16,000円だったそうだ。他社がほとんど25,000円から30,000円近くを提示しているのに、この安さ、少し心配になったくらいだ。ロシアでは、原油以外の燃料が密かに・・・?

ゴールデンウィーク頃は、貯金が底辺で旅行なんてとてもムリムリ。夏こそは!と思いたかったが、日本語教師の教材費、部屋の更新にかかる手数料が、6月7月にまとめて来る。実質金銭が無かった頃、親元へ行く新幹線代などをカード払いしていた分も、どど〜んと今月、来月にまとめてくる。海外どころか日本国内、近場の熱海だって、各駅列車の日帰りも危うい状態だ。来月は誕生月だと言うのに、、、なんとも情けない現実がイヤになる。
それにしても、このニュースを聞いたなら、海外旅行に行くのなんて、むしろ恐くなってしまうかも。なんてったって・・・・

ヨーロッパまでの油代金が、今や往復平均56,000円くらい、だって言うじゃない!!!???

3ヶ月毎の見直しを繰り返し、10ヶ月ほどでこれほど高騰していたとは、驚きだ。ロンドン・ローマ辺りの、西ヨーロッパで最も安い都市限定の往復チケット、オフピーク時の代金は約60,000円くらい。これとほぼ同額の油代金だなんて、もう、逆さにしたって鼻血も出やしないという感じ。
油代金が正式に導入されるまでは、各航空会社が原油高騰の煽りを一手に引き受けていたと言う。当然だな、タクシー会社だって初乗りは上がったが、利用料金と同額の『ガソリン代』は取っていない。しかしその負担額が臆を超えた辺りから、『止む無く』お客様に油代金を『ご負担』いただくシステムを導入したそうだ。臆超えとまで言われたら、仕方が無い、飛ばないよりは甘んじて受け入れようと諦めたものだ。が、その後油代金は上がる一方、それでも何とか上昇率は抑え目でここまで来たのに、さすがに、利用客への負担を航空会社が懸念するほどまでになったという。しかも、下がる見込みも一切無し。
旅行会社なども、『格安パック!』等といって、『30,000円以内』の旅行パックなどを販売しても、いざ支払い時点で倍額を超えてしまうケースもあり、顧客との揉め事も増えているのだとか。そらそうだ、1万円くらい高くなるなら仕方がないが、倍になられたらさすがにこちらも仰天する。

こうした事態を回避するために、油代金の表記を義務付けるという措置が検討されているというが、航空会社や旅行会社からは良い声が聞かれないそうだ。あくまでも『格安』というウリを残したいが、油代金だけで既に格安と言えない金額なので、客離れが心配だそうだ。でもそれって、油代金を知らずに申し込んだお客をカモる気満々です!と、公言しているようなものなのでは?
ビジネスなどで懐が痛まない人はどんどん払うだろうから、表示しようがしまいが関係ない。海外旅行好きは予め油代金を念頭い置いているから、申し込む前に胎は決まっているだろう。価格表示を控えて拾える客は、あくまでも油代金の存在に疎い人に限定されるのでは?
ふふ、不信感だわ、やはり航空会社と旅行会社って、非常な不信感を感じるわ。

顧客が精神的に絶え得るという価格帯を、遥かに超えた原油価格。 様々な商品にその影響が出ているが、この燃料サーチャージって奴が最強なんじゃないの?
現在既に、特に若者の海外旅行離れが始まっていると言う。これまで多額の負担を利用客に強いてきた航空会社だが、減り続ける利用客を前に、よもやこれまでと同等の飛行本数を維持する必要がないところまで追い込まれるかもしれないな・・・なんて思ったり。
だって、私だって海外旅行に行きたいけれど、こうなってはもう、手も足も出ない。宝くじにでも当たらない限り当分無理だろう。ユーロ高、破格とも思えるポンド高、私の希望の国では、行った先でも怒涛の高価格の嵐が待っている。

なんにしろ、航空会社だって困っているはず、旅行会社だって状況は同じだろう。原油という限られた資源に頼ってきたつけが、今、あからさまに襲い掛かって来ているのか。・・・何も今じゃなくてもと、自分勝手な事を思ってみる。車はソーラーカーだとか、エコに鞍替えが進んでいる。移動手段以外でも、地球を守るために、様々な分野で多くの方法が見出されている。
飛行機よ、、、早いところ何か解決策を見つけて下さい。。。だって夏だもの、脱出したいよぉ〜。

カリフォルニアの新しい法律

  • 2008/06/19(木) 23:18:16

カリフォルニアで、同性同士の結婚が法律で認められたというニュースを見た。同一国内で時差があるぐらいの面積を保有するだけあって、州ごとに法律の違うアメリカ。あの州知事は、『大勢の方がカリフォルニアに来て結婚式を挙げてくれれば、州の経済も上向く』とかなんとか発言していたが、それもいまいち良く解らない。
カリフォルニア州でだけ夫婦と認められるのか、知事が言っているのが、カリフォルニアに沢山の人が引っ越してくれば良いというのか、アメリカ中のいかなる州に於いても『カリフォルニア州の法律に則って』という言い分が、この場合は普通の結婚と同様通用するのか?等など。

私の無知ぶりはさて置き、ニュース映像では法律解禁(って言うのかしら?)当日の様子が映し出されていた。涙を浮かべる人、純粋に歓喜の表情を見せる人、ただただお互いを見つめ続けるカップなど、とにかく幸せムードが溢れかえっていて、見ていてとても・・・羨ましい(笑)。
やはり、一般的と言われる異性同士のカップルよりは、ここに至るまでに障害も多かったろうし、認められたいという意思も強かったろう。そうした紆余曲折というのは、関係をより強く結びつけるものなのだろう。なんだか、空気の中にハートマークが見えて来そうなほどで、羨ましい!!

しかし、こうした風潮に異を唱える人達はいるもので、祝うべき日を全力で台無しにするが如く、ご大層にも手の込んだプラカードなんか持っちゃって、大真面目に大騒ぎしている。こうした行為は想定され得る事態だったとは思うので、『ああ、やっぱりね・・・』と最初は思っていたが、次々に映し出されるそうした映像を見ていたら、『この人たち、酷くみっともないな』と思えてきた。
大体、他人事に口を出す時点で如何なものかと思うが、事は一個人の愛情問題だ。それを、袖触れ合う事も無かった全くの赤の他人が、とやかく言う筋合いじゃないだろうに、と思うのだ。
ああして大騒ぎしている人達も、自分たちの結婚式に赤の他人が大勢集まって、その結婚は悪の道だ!とか、地獄に落ちる前に救ってやる!とか言われたら、なんと思うだろう?間違いなく余計なお世話だ!と憤慨すると思うのだが、同性同士と言えど、それはよもや、全く同じ観点で観るべき問題じゃなかろうか?時代はこうして進み、価値観はこうして変化していく。

しかしね、私もこういう人達の気持ちは解らないでもない。正直言って私も子供の頃は、同性愛・・・なんて聞いただけで激しく拒否反応があった。その内に成長し、精神も成長し、愛情の対象が『何者であるか』という事には、大した問題は無いじゃないかと思うようになったのだ。むしろそうして誰かと深く想い合えるなんて・・・やっぱり羨ましいのです!!!!
ああして同性同士の結婚に目くじらを立てる人って、自分の価値観を赤の他人に押し付けている理不尽さに気が付いていないのだろうか?神の御心になんて本気で思っているとして、自分だったら救えると思い上がっているのか?自分の価値観が世界で一番正しいと信じてるのか?そんな無責任な自信や、他人を傷つける権利が自分にはあると思っている驕りは、一体どこから来るのだろう?少なくとも、対象者を嫌な気分にさせる事は、十分に理解しているとは思うけど。
心では何を思おうが個人の勝手だ、例えば同性愛の人が許せないとして、個人的に口を聞かない近付かないなど、防御策を張り巡らすのも良いだろう。ただし、相手を不快な気分にさせるのは戴けない、自分だったらどうだろう?と、常に考えてみれば解るだろうに。
結局、同性愛は古来からあって、それが今ようやく認められるようになっただけのはず。子孫繁栄の本能から男女がペアとなった太古の昔から、同性の結びつきを『恥ずかしい』と思わせたのが人間の些末な価値観からだったなら、『正しい事』と思うようにも、いずれは出来るはず。価値観の転換が出来るのも、文明を持つ人間の長所なのじゃないだろうか。

『だって好きなんだもん!』ってのは、何だか素敵な感情じゃないか。人間が人間を愛するという事に、制約を付けるなんて馬鹿らしい。同性愛の人は一生内に秘めた愛情を殺しながら、孤独に生きれば良いのか?まさか『全くの他人』に対して、それほど悲惨な押し付けは出来ないはず。自分が満足なら、同性愛者はそれぐらいの犠牲を払えとは、さすがのプラカード団体も言えないはず、いや、言わないと、同じ人間として信じたい。
私は自他共に認めるロマンチストなので、『愛情』というものに飽くなきロマンスを追い求めるタイプ。だからもちろん、個人的な愛は、神聖で侵さざる領域であって欲しい。『愛』というものには、他人が侵入してよい余地なんて、ありはしないのだ。
もちろん、祝福は別だ。祝う気持ちはきっと、愛を増幅させる効果があると信じている。だから、先日の初日に幸福な日を迎えたカップルも、そしてこれから迎えるカップルも、皆等しく、愛と神と一般市民の恩恵が受けられますよう、他人事ながら、心からおめでとう!と言わせて頂きたい。

至高の時間

  • 2008/06/18(水) 23:58:19

女性はとかくお買い物が好き!というのは世の定説であるが、私の周りにはそういう女性は余りいない。お買い物より倹約・・・というタイプが多いのは、『類は友を呼ぶ』ということわざ通りと言う事か。。。なんか虚しいなぁ(笑)。
とは言っても、ものの価値観は友人とて様々で、5,000円のスカートを酷く安かったと言う友人もいれば、高い!と驚く友人もいる。ちなみに私は、『高い!』派。スカートなんて、3,000円超えたら高級品よ(笑)。う〜ん・・・笑い事じゃなくて、やはり良い品は長く着られるし、着ている人も美しく見せる。いずれ、きちんと高級品を買える身分になりたいものではある。

私の洋服などの買い方は、どちらかというとかなり『男らしい』ようだ。欲しいものがある場合は希望がかなりはっきりしているので、売っているお店が解っていれば、買い物のために出かけて行っても余り時間が掛からない。むしろ最近は、ネット購入で済ませてしまうかも(笑)。
それ以外では、街中を歩いていてちょっと時間があって、たまたま通りがかったお店で気に入ったものを見つけると買ってしまう。街中を歩いていて、洋服などが買えるほどに時間があることも滅多に無いので、何とか破産しないで済んでいる。
だから新橋に職場があった時などは、新橋の地下街なんかで服を買ってしまったりするのだ。そんな服を着ていて友人に、『(服が)可愛い〜』などと褒められると、何ともバツの悪い思いをしてしまう。頼むから、どこで買ったのと聞いてくれるな、という緊張感も(笑)。
そんな私なので、ウィンドウショッピングなるものの価値観が全く解らない。物を買うために物色するのであって、買う気も無いのにショップのはしごだなんて、あんな疲れる事はしたくない。まして、買うお金も無いのなら、ただ売り物を眺める事に一体なんの意味がある?疲れと共に、なんとも虚しい気持ちになるだけじゃあないのか?と、不思議でならないのだ。買えないと解っている商品に関しては、なんらの興味も沸かない。興味の無い商品は、見る気にもならない。
なので、先日逢った友人との昼食後に、『余った時間は何をする?』という議題が持ち上がった折、『あたしウィンドウショッピングしたい♪』という彼女を、丁重に近所の公園に誘導した。自然に囲まれて彼女もご満悦だったので、結果オーライという事で♪

ただ1つ、唯一、私が『お買い物したい〜♪』と言い出す場所がある。見かけると、立ち寄らずにはおれない場所がある、ストレスが溜まると出かけて行って、ごっそり買い物をしてしまう場所がある。それはもちろん、『本屋』である。恐らく本屋は、私が当ても無く出かけていく唯一の商業施設であり、ただブラブラしてストレスが発散できる、唯一の売り物屋である。
ちなみに、古本の匂いは今でも好きではないので、古本屋に『行くだけ』では全くストレス解消にならなければ、満足の対象でもないのだ。古本屋はあくまで『買うため』に行く。『買いたい!』と思って出かけて行くので、店の大きさの差こそあれ、隅々まで見て3時間ぐらい過ごしてしまう。
普通の本屋こそ、単純にストレスを発散できる場所だ。新刊本の匂いを嗅いで、大量に並ぶピカピカの本を見て、都会のど真ん中でも静かな空間である本屋の中で、気になる本をチェックしてまわる。そんなこんなでこちらもまた、大きな本屋なら3時間くらいはブラブラしてしまう。しかもその間立ち読みは一切しない。気が向けば、いや財布が許せば文庫本の一冊でも買って帰るのが、至高の楽しみなのだ。
女性が楽しむウィンドウショッピングというのは、私の本屋巡りと同じ感覚なのだろうか?と考えたが、私の本屋巡りの場合は趣味的関わりが非常に強いので、服でも靴でもアクセサリーでもという、いわゆるある程度の必需品探しとは、またちょっと違う気もする。
それに、本屋巡りをする時には、極力1人で行きたいのだ。誰かと一緒に行くと、気を使ってしまって落ち着かない。大抵は、長居をし過ぎて嫌な顔をされるので、そうならないようにこちらも駆け足で物色して回る事になる。 これも確かに、友人のウィンドウ・ショッピングに長々つき合わされると、同じ気持ちを私も味わうので良く分かるのではある。
特に私が苦手なのは、散々あちこちの店を引っ張り歩いて、『何も買わないこと』なのだ。これだけ苦労したんだから、何でも良いから収穫して帰らんかい!という、獲物無しの狩りが嫌いなタイプ(笑)。最低限、靴下でも良いから買って頂戴・・・と胸の内で願ってしまう。
その点本屋に行くと、最低でも10冊くらいは買ってしまうものねぇ・・・、これもどうなんだか・・・。

至福を呼ぶもの

  • 2008/06/16(月) 23:03:39

唐突だが、お米派かパン派かと言えば、私はどちらかと言ったらパン派だ。選定基準は、パンは時々無性に食べたくなるが、お米はそう思った事が無いところ。焼きたてのパンは、のあの香ばしい匂いを嗅ぐと、もはや買わずにはいられないが、炊き立てのご飯の匂いは『美味しそうだ』と想像は掻き立てられるが、『食べたい!』と感極まるほどの欲求は沸かないのだ。
私の好みのパン遍歴は様々だ。始まりは子供の頃子供の頃、母に『パン屋』さんに連れて行って貰うと、姉は必ずフルーツなどの乗った甘いデニッシュを選び、私は必ず『芥子の実パン』だった。バタールの生地を小さく丸め、上に芥子の実をふんだんにまぶした贅沢な一品・・・と言いたいところだが、姉の所望するいわゆる『菓子パン』の半値以下だったため、不憫に思った母がいつも2つ買ってくれた。子供の頃から甘いものが苦手だった事に加え、シンプルなパンの香ばしさが最高の味わいという、子供らしからぬ味覚の持ち主だったらしい。

黒パン・白パン、エトセトラ、エトセトラ・・・。様々な種類のパンを時々の好みに合わせて食べて来たが、あるドイツ人に『白いパンなんか食べたら死ぬよ』と真顔で言われてからは、暫く黒系に走った。20kg以上のダイエットに成功した上司からも、『痩せたいなら色の白いものは食べるな!』と警告されてからは、かなり長い間、白パンには手を出さなかった。
もともと固いパンが好きなので、食パンの類は滅多に食べない。それにしても・・・、数年の拒絶時期を経て、私はやはり中身が白いパンの方が好きである!と最近は猛烈に思う。焼きたてのバゲッドにバターを溶かして食べるのは、やはり最高なのだ。

貧乏生活が長くて、いかなる事にも『節約』を心がける習慣が出来ているが、幾つかの食材に関しては、譲れないラインというのがある。手を加える事が出来ない素材系統(塩、砂糖などの調味料系統)、素材の味を楽しむ食べ物(チーズやパンなど、コーヒーなどの飲料系統)だ。それでも、一月の食費は3〜4千円くらいなので、平日のランチを入れても1万円を超えないくらい。
しかし今はまっているパンは、1本700円もする。明らかに、3〜4千円では納まらない高価格。基本的にパンは高くても平気な私だが、これを定期的に買い続けるのは至難の業なのだ(笑)。
しかもこのパン、私にしては珍しく食パン系統。このパンの最も美味しい時期は当然『焼きたて期』なのだが、この魔力はかなり強烈で、電車待ちをしながらムシリムシリと、半分ほども食べてしまうほどなのだ。傍から見たら相当不気味だろう、菓子パンならいざ知らず、普通の食パンを駅のホームでむしって食べる女って(笑)。すみません、お行儀悪くて。

さて、今や私の愛情のほとんどを占めている『そのパン』の事を説明させて頂こう。
長時間発酵が自慢の山型パンだ。上層部にはたっぷりと溶けたバターが焦げ付き、側面は少しサクサクとした厚めの皮、そして中は真白でフワフワ、フワフワ、フワフワァなのだ。山型のてっぺんからは、程よく焦げたバターの香ばしい香り、側面からは良く焼けた別種の香ばしい香り、そして中身の真っ白い部分からも、驚くほどの芳醇が溢れ出てくる。パンの切り口に鼻を近づけて匂いを吸い込むと、上層部、中部、側面の匂いが渾然一体となって、芸術的にすら感じるパンの豊かな香りが鼻腔になだれ込んでくる、まさに、至福の一時。
このパンは、トーストせずに食べるのがベストだ。日にちが経ってしまったら、香りを出すために軽く暖める程度が宜しい。白い部分の奇跡的な柔らかさ、それをかみ締める度に口中から鼻梁に抜ける、これまた信じられないほど芳醇な香りを楽しむためだ。私などは、食べながら何度も匂いを嗅いでしまう、相当理性が崩れているらしい、他人には見せられない(笑)。
ちなみに、間にハムだ野菜だを挟んだり、シチューだカレーだを付けて食べるのも否だ。それでも主役になれるパンではあるが、私個人としては、断然そのままパンだけを味わいたい。
匂いを嗅ぐだけで幸せになれる、頬張れば柔らかさとサクサク感のハーモニーに恍惚とする。香り、味ともに正に天下一品のパンなのだ。家に帰ればあのパンが待っている!と思えば、自然と足取りも軽くなるほどに。そう考えれば、たかだか700円なんて、安い物かも知れない。
カツカツの生活においては余り『至福』を感じる事も少ないが、その基準は人それぞれ。高価なものや事柄よりも、個々人の価値観が重要な『至福』。皆さんは、どんな『至福の時間』をお持ちだろうか?

各国の歌

  • 2008/06/16(月) 00:05:47

サッカーのヨーロッパ選手権が行われている。今から4年前のユーロ2004の時は、幸運な事にイギリスに滞在していた為、リアルタイムで予選から殆どの試合を楽しむ事が出来た。
面白かったのは、とにかくロンドンの町中がフットボール一色で大盛り上がりだったくせに、ベスト8であえなくイングランドが敗戦(主将ベッカムがPK外したんですよね・・・、確か)した翌日、唐突に町のムードが『ウィンブルドン』に変化した事。前日まではフットボールのユニフォームを着た人が町中に溢れていたのに、一晩明けたら『ポロシャツ&キャップ&テニスシューズ』で町中を闊歩する人が溢れていた。なんとも、勝敗に素直な国民だこと。
スーパーでは、『フットボールの応援グッズ』がカゴから溢れて『大特価』。選手の顔がプリントされたお菓子は棚から零れ落ち、テレビ放送の回数も減るばかり。ちなみに、イングランドの旗の配色は日本と一緒。ペインティンググッズでも特価で買おうか?などと思ってしまった(笑)。
しかも、念願の『フットボール・パブ観戦』をようやく果たしたその夜に、イングランドが敗戦を喫した。私の予定では、見事イングランドが勝利を決め、大盛り上がりのイングランド人に混じってビールをチビチビ・・・だったのだが、敗戦により異様に静まり返ったパブ内、法定によりアルコール販売禁止時刻も近付き、クモの子を散らすように人が減り、あっと言う間にお客は私と友人を残すのみになってしまった。なんとも・・・、情けない思い出だ。

さて、一部では日本でも盛り上がっているユーロ2008だが、実際私はイマイチなのだ。何故って?スイスとオーストリア共催のこの大会、リアルタイムで見るためには、真夜中から早朝にかけて以外はあり得ない。私にとって夜とは、当たり前に寝る時間なのだ。
オリンピックなら、予選は外して決勝だけを見るために早朝に起きる事もあるのだが、ユーロは常に見逃せない試合をやり続けているので、寝るタイミングは全く無い。そして当然、朝からは仕事に行く、更に夜はバイトをする。帰ってくる頃に第一試合が始まる、見たら・・・寝る時間が無い。
録画機械は、2年前に壊れてそれきりだ。普段はテレビを余り見ないので、録画してまで観たい番組なぞは無い。と言う事で壊れてそのままにして来たが、そろそろ・・・買うか、北京もあるし。基本スポーツは『リアルタイム』を主張したいのだが、どうしたって不可能な場合もあるわけで。
週末ともなれば、深夜ぶっ通しで試合を観戦する事も可能なのだが、はやり翌日を潰したくない思いがあって、前半だけ見てご就寝・・・と相成るのである。そこでまた、世界を見ていて思った四方山似非フットボール目線日記(笑)。

国歌って、その国を象徴する音階のところが多いのである。実直・勤勉・自己犠牲精神・忍者・武士・質素・質実剛健・・・まぁとにかく、古くは禁欲的なイメージが強い日本の場合は、勿論マイナーコード寄り。世界大会なんぞで色々国歌を聞いていても、格段に暗い印象があるのだが、気のせいだろうか。日本より暗いイメージの国歌って、余り聴いた記憶が無いような・・・?
20世紀に入って、革命だなんだで国の体制が大きく変わった国は、やはりメジャーコード寄りの国歌が多い気がする。何かこう・・・古きを破って新しい国家!的な希望が見え隠れ。伝統を守り続ける国でも、その歴史によってメジャー・マイナーが分かり易い分布を見せている気がする。
先日イタリア戦を観た時も、イタリアの国歌なんて、まぁ、跳ねるような明るさで・・・と思ったが、よくよく考えて、10年近くイタリアン・レストランで働き、あらゆる面で、もしかしたら私の人生において最も近い外国であったかもしれないイタリアだが、国歌なんて、題名も知らないなぁ〜。
こうした世界大会で何度も国歌を聞いたはずだが、未ださわりすら覚えておらず。ただ明るいという記憶があるのみ。大好きと主張して止まないアイルランドも、国歌なんぞ、知らないわ。イギリスは、題名ぐらいは知っているが、はて、どんなイントロだったかしら?
唯一フランスだけは何となく覚えているのだが、実はこれ、アメリカの国歌と何度か聞き間違えたから(笑)。そんなバカな!とお思いかも知れないが、出だしが似てるような気がするのだ。
そう考えると、やはりアメリカと日本の繋がりって、濃いな・・・と思ってしまう。多分アメリカの国歌なら、鼻歌でほぼ全部を歌う事が出来るだろう。同じく、大統領の名前どころか、その他要人の名前すら知っている、いやむしろ、知っていなくては恥という風潮すらある気がするが、イタリアの国防長官(という役職なのかは不明)なんて、知らなくて当たり前という意見が多いのでは?
アメリカが『大国』である、という意見も頷けるのだが、やはり日本とアメリカの繋がりが強いという事実もあるのでは?と思えてしまう。まぁ確かに、オリンピックなんか見ていると、アメリカの国歌を聞かされる回数が格段に多いという現実も、あるにはあるのだろうな(笑)。

フットボールの試合では、試合前に国歌斉唱がある。オリンピックなどでは、メダル獲得国の国歌を聞くことが出来る。私は結構、こうして各国の国歌を聞くのが好きである。覚えたりはしないけど(笑)。
今年はオリンピック・イヤーである。間違いなくアメリカの国歌を浴びるほど聞かせられるかと思われるが、日本のだって、何回かは聞かせて貰えるのだろう。その他の国歌も、沢山聞く事が出来るはず。胸に手を当てて、じっくりと国歌に聞き入る選手達の真摯な顔も好きである。
国を背負って戦う選手達、多くの人の期待が、国歌に込められて胸に響いていくのだろうか。そんな厳粛な雰囲気も好きである。この夏は、様々なドラマが国歌に込められるのかも知れない。

他人事なのに、最高に嬉しいよ!

  • 2008/06/08(日) 00:23:28

いや、やった!日本男子バレー、実に16年振りのオリンピック出場が決まった。
まさに、手に汗握る接戦。今日は、気迫では遥かに日本の方が上だったと私には思えた。選手のみならず、観客の眼前にもチラつく『16年ぶり』という言葉。思い返せばさらに前には、オリンピックに出場する以上に、メダルを期待できる強豪チームだった日本代表。あれから時が過ぎると共に、出場はするがメダルが取れない日本から、出場すら出来ない日本になるのは早かった。
目前に迫った『16年ぶり』という壁。その壁を打ち崩す闘志、迫力は、連続出場を狙うアルゼンチンより遥かに勝っていたのだろう。今若い選手も、『今回』を考えていたわけではないのではないか?16年分の期待を、背負っていたのではないだろうか。

私のバレーボール観戦の歴史上、初めてオリンピック出場を逃した時から、大好きだからこそ、期待するのを辞めた。日本バレーが弱くなるに伴って、報道や試合中継が影を潜めたため、私の頭からバレーボールを締め出すのは簡単だった。
好きであるという気持ちが強ければ強いほど、期待をしてしまう。期待が大きければ大きいだけ、それが叶えられなかった時の失望は大きい。そうした勝手な期待を持たないためにも、予め諦めてしまうのが私の防衛手段なのだ。先の日記にも書いたが、卑怯な奴だと思いながらも、失望する事に対して、どうしても免疫が作れない。
スポーツ観戦は、見方を変えれば『他人事』ではあるが、自分自身に対しても同じ事をしてしまう。『私なんてダメな人間だから・・・』という諦めが、常に心のどこかにある。それがあれば、失敗した時に落ち込まないで済むのだ。そんな消極的なことばかりではいけないと解っていながらも、自分に失望した時に、立ち直る自信が無いのでどうしようもない。

自分を信頼する事が出来ないのは、逆説的に見れば、こうした弱い気持ちが原因だとは思うのだが、成功へのビジョンというのを常に考えていながら、その根底に、『万が一失敗してしまっても・・・』という逃げ道を用意している自分がいる。
全てが逆説的でおかしな話に聞こえるかも知れないが、だから私はスポーツを観るのが好きなのだ。『もしも失敗してしまったら・・・』そんなマイナスイメージを持たないスポーツ選手達。例えば水泳の北島選手のように、『世界新で金メダル2個』などと言い切ってしまう自信、そしてそれを実行してしまう力。そうした人達を見ていると、なんとも勇気付けられる。そうした人達の強さを見習おうと、いつも、いつも思うのだ。私にとって、スポーツ観戦は一種のカンフル剤だ。

己を信じる強い気持ちと言うのは、それを裏付ける弛まぬ努力が当然あるはずで、それほどの自信を付けるためには、一体どれほどの努力をしているのだろう。スポーツを見ていると、いつも考えてしまう。弱気な心が微塵でもあれば、世界の力舞台で活躍する事は不可能だ。その強さは、例えテレビの画面を通しても、全身に突き刺さるように発散されてくる。
今日の男子バレーの舞台でも、存分にその『強さ』を見せ付けられた。最終セット、繰り返されるマッチポイント、お互いの気持ちをボールにぶつけ合うような、激しいスパイクの連続。1度コートに落ちたら終りだ、拾って、拾って、まるで生命を繋ぐように。
最後の方はお祈り状態、もはや画面を見ることなど不可能。頭の中を、4年前の山本選手のインタビューが過ぎる。コートに座り込んで悔しさを噛み殺した表情が過ぎる、舞台裏で焦燥していた姿が過ぎる。選手達の悔し涙が過ぎる、荻野選手の、16年間の闘いと思いが過ぎる。

最後の1点が決まる、そのボールがコートの外に落ちた時、腹のそこから、何か大きな塊がこみ上げるような感じがあった。その大きな塊が、口元から飛び出すような感覚だ。それと同時に、涙が一気に溢れ出してきた。まさか泣くと思っていなかったので、驚いて一瞬涙が圧し留められる。それでも出てこようとする涙の奔流の為に、呼吸が一瞬止まった。ビックリして苦しくて、物凄い量の涙が一気に飛び出してきた。まさに嗚咽という奴だ。
まさか自分が、こんな風な泣き方をするとは思わなかった。こんな激しい泣き方をしたのは、生まれて初めてだった。それほどに、男子バレーに期待していた自分に気が付いた。まさに、『他人事なのに』という思いが沸きあがってきて、なんだかおかしくなって泣き笑いしてしまった。

この数年間は、期待なんか一切していないつもりだった。『どうせ負ける』という思いがあった。だから負けたって、『やっぱりね』としか思っていないつもりだったのだ。これほど自分が期待を押し殺していたとは、なんとも、自分自身を解っていないのだと、情けない思いだ。
それにしても、あの緊張状態、僅か一点で天国と地獄。そんな状況で、心が折れない強さとは、一体どうしたら養えるのだろう。顔を上げて、勇気を持って、自分と、仲間達を信じて。その強さ、熱い繋がり、なんとも羨ましいと思える。羨ましいと同時に、見習うべき姿だと思う。
今日はさすがに、私も開眼した。今の私にはやるべき事があるから、見習って、繁栄させるものがあるから。努力なくして、信じる気持ち無し。座右の銘にしようかな(笑)。

とにもかくにも、本当に良いものを見せてもらった。1つの目標を成し遂げた日本バレー。次なる目標に向かって、今日の熱戦は大いなる糧になる事だろう。ガンバレ、ニッポン!!

北京への道を

  • 2008/06/07(土) 20:37:20

バレーボール、女子はオリンピック出場を決めた!彼女等のあの明るさ、気概、前進するという逞しさ、見ていて清々しいくらいの一生懸命さ。この夏、彼女達の勇姿を、五輪の舞台で見る事が出来る。正座だな、テレビの前で(笑)。
前回オリンピック予選を兼ねた試合の際、選手達の言った言葉、『出たいんじゃない、出るんだ』と言い切った言葉を忘れていない。私はそういう強いビジョンを持った事が無い。心のどこかで必ず『失敗』を想定して、そうして心の中に逃げ道を作ってしまうのだ。『失敗』を想定する事は、自分の弱さを守るため。そうした逃げ道を用意しない言葉、とても心に残っている。

例えば今の私は、日本語教師に『なりたい』んじゃない、『なるんだ』という思いがある。それは、年齢上、今のどん詰まりの状況から、いささか追い詰められた将来の展望を何とかするために、四の五の言わずにやらざるを得ないという部分がある。幾つもの可能性の中から、という余裕は無いのだが、今にしてようやく、あの時の彼女達の気持ちが少し理解できた気がする。
『なるんだ』という気持ち、時折挫けそうになるし、検定に受かった後の事を考えると、今で既に悩ましい現実が沢山見えてくる。ただ今は、『なるんだ』という思い込みだけで何とかやっている。

さて、男子だ。オリンピック出場を決めるため戦っている姿を、今テレビで見ている。以前も書いたが、バレーボールは私のスポーツ好きの原点だ。だからこそ、熱くなりすぎてしまう自分がいる。何よりも、他のどんなスポーツより良く『理解』できるので、その分、ダメな時は見ていて辛い。

以前は、負けが込むと全員下を向いて、声も全く出なくて、戦う前から負ける姿が見えていた。それから暫くして、監督が代わり、選手も少し顔ぶれが代わり、男子バレーボール界が少しずつ変わってゆく姿を見てきた。2年前の日記で『北京が見えてきた』と書いたが、それが今、目前に見えている。成長したなぁ・・・というより、かつての日本男子バレーの姿に、今また蘇りつつあるのか。いやしかし、良いねえ〜♪大好きなスポーツで、選手達が力強く戦っている姿を見るのは。

こういう所に私の弱さが存分に現れるのだが、好きならば好きなほど、負けていく姿を見たくない。ダメと解っていて、期待をしたくない。ダメだと解って期待しているのに、何故か裏切られた気分になる自分が嫌だった。なんとも、失礼な奴なのだ、私って。
でも今は、男子バレボールの選手達の姿を見ていれば、そんな気持ちも霧散する。負けたって良いじゃないか!と思える。いや実際は、負けて欲しくはないのだが、これだけ力一杯やっているのだ、負けたって、次がある。今は下を見ていない、大きな声が出ている、気持ちは十分だ。

しかし私も年をとったものだとつくづく・・・。なんだか目の前が霞んでテレビが良く見えませんよ・・・。画面から溢れてくる彼等の気迫で、なんだか目からチロチロお水が・・・。
人が頑張っている姿って、それだけで物凄く感動できる強いオーラがある。私もそもそも感激屋なので、スポーツを見ていると、無駄に良く泣くのだ、ハハ。
いや・・・良いねぇ。

ゴーゴー日本、ごー とぅー北京。なわけですよ。