『愛と欲望 ミラノの霧の中で』

2008年04月27日 00:48

〔伊〕A Casa Nostra (2006年)
監督:Francesca Comencini
脚本:フランコ・ベルニーニ/Francesca Comencini
ルカ・ジンガレッティ/ヴァレリア・ゴリノ/Giuseppe Battiston/Laura Chiatti /Luca Argentero/テコ・セリオ/Bebo Storti/Ditta Teresa Acerbis/Antonello Annunziata /Paolo Bassegato/エレナ・マリア・ベリーニ/Fabio Ghidoni/Cristina Suciu

財務関係の捜査に当たる警察官リタは、財界の大物ウーゴの動きを追っていた。あらゆる手段を使って彼の動向を探る内、ウーゴを取り巻く様々な人達の姿が見えてきた。愛人であるエロディ、彼女が一夜の浮気相手として選んだジェリー、そしてその妻。また、都会ミラノの裏側では移民社会が蔓延り、そんな移民の1人生活の為に娼婦をしているビアンカがいた。彼女には崇拝者のオテロがいたが、彼には人に言えないある過去があった。リタには芸術家肌の恋人マッテオがいたが、彼との擦違いに、私生活では仕事では見せない大きな不安を抱えていた。

イタリアだねぇ〜(笑)。飄々とした人間模様、愛に関しても、どこか冷淡な距離感があるフランスのドラマ、堅実で、理路整然とした構築を基にした感のあるドイツのドラマ、表面的なスタイルを誇示してアーティスティックな側面を持ちつつも、どこか野暮ったさが残るイギリスのドラマ。ヨーロッパ各国の人間ドラマには、それぞれの特色があると思っているし、これは、各国に対する、超個人的な印象だ。そしてイタリアに関しては、『泥臭い人間ドラマ』、という印象がある。
ファッショナブルで、それでいて恐ろしく美しい自然を多く持ち、学ぶ価値のある歴史があり、流行の先端を行っていながら、余りにも不器用な側面を多く持つイタリア。それはそのまま、その国に暮す人々の印象であると言える。これもまた、私の個人的意見ではあるのだが。
この作品の舞台、流行の先端であり、過去と現在、そして未来が融合した美しい都市ミラノでも、こうした不器用で泥臭い側面は健在だ。そこに暮す人々の姿はファッショナブルで美しく、彼等の姿は羨望の気持ちを呼び起こすだろう。しかしその裏で、彼等の日々は余りにも不器用なのだ。イタリア人は愛だけではなく、『生きること』、その全てに情熱的で一生懸命だといつも思う。人生の一分一秒を無駄にしないように、例え間違えたとしても、全力で間違えてしまうような。熱いんだな、とにかく熱いんだ。何事も、全力で感じようとする。そうした姿が、この映画からも何となく伝わって来た気がした。アイリッシュと似ているような気も、ちょっとしてしまう(笑)。
ウーゴという曲者の成功者を軸にして広がる群像劇だ。さもすればバラバラと広がってしまいそうな人々を、リタという、もう一方の軸がしっかり握ってまとめていく。物語の展開としては優れていると言える。演出も地味ながら堅実で、淡々と進んでいるように思える物語が、実は大きなうねりになってラストに向かっていた事に、ラストのその時、気が付かせてくれる、良い演出だった。
この静けさと暗い感じが良い、それなのに、余りにも人間臭くて泥臭い人達の等身大の悩みが、妙に色を持って感じられる。イタリアが作った、まさにイタリアらしい、上手い作りの映画だった。
んがぁぁぁぁあああ、私は『ミラノ』が嫌いだ。とにかくあの町、圧倒的にウマが合わない。恐らくもう2度と、一生をかけて行く事は無いだろう。いかん・・・映画を見ていたら、余りにも特徴的なミラノの風景が出てきて、なんだかいや〜な気分に。集中、集中、映画に集中!全くもって、まともな判断力を欠きそうな状況だった事は、情けなくも白状しておきます。
そういえば、リタ役のV・ゴリノ、『レインマン』の彼女なのね!先日親もとへ行った時、たまたまこの映画を懐かしく再鑑賞していて、嬉しい事に直ぐ解った。20年近い年月が流れているはずが、ほぼ変わらない印象で、知的で愛に純粋に悩む女性を好演していた。非常に素敵な女優になられていて、もっと出演作が観たいと思った。最近はやはり、本国イタリアで活躍しているようで、中々その希望も叶いそうも無いのが残念だ。

愛と欲望 ミラノの霧の中で愛と欲望 ミラノの霧の中で
(2008/02/06)
ルカ・ジンガレッティ、ジュゼッペ・バッティストン 他

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ぽすれん『愛と欲望 ミラノの霧の中で』紹介

勉強じゃない勉強

2008年04月26日 23:24

今私は、自分で決めた事ながら、勉強をしなくてはならない身の上だ。
とは言え、そもそも脳の皺が人よりは少ないと自負しているし、ポアロやジーヴスが『灰色の脳細胞』ならば、さながら私のは、灰色の対極にありそうな『ショッキングピンク』、とでも言い切れるのじゃないか?と、常々思っている。

簡単に言っちゃうと、勉強が大嫌いなのだ。

勉強に関する事柄が嫌いなのじゃなくて、勉強と言う概念が嫌いなの。簡略すると、興味対象に勉強という概念が忍び込む事によって、何もかも全てが色褪せてしまうという事だ。例えば、中世ヨーロッパの歴史的小説は大好きだが、学校の歴史の授業は大嫌い!という違い。
日本語教師の勉強も、まず自分が明後日の方向に向かっていた事を知り、更には徐々に勉強の色が濃くなって来た辺りから、やる気が・・・。埒が明かないので、通信教育を始めようと思ったが、まさに『お勉強世界』に踏み出す気構えと、単に金銭不足から二の足を踏んでいる。

とか何とか言いつつ、実は私、今無性に『大学』に通いたい。大学なんざ勉強の総本山じゃないか!と思われる向きもあるやも知れないが、今の私にとっては、単に知識の宝庫という見方でしかない。美術館、図書館、大学、これ全部並列(笑)。高校はもう行ったし、次は大学(笑)。
そんな話を母にしていたら、『あんたって、何でもかんでも遅いのよ』と言われた。更に『本当は大学に行って欲しかったのよ、でもどうせ、言ったって聞きやしないんだから』と。お母さん?それはちょっとおかしくないですか?私が高校の頃は既に両親とは一緒に暮らしておらず、進路の事など、まともに話した事は無い。勉強しろの何のと口うるさい親では無かった代わりに、娘の日々の実態すら知らない親だったのだ。それなのに、何を今更?

我が家の親子関係は、平均レベルを遥かに超えて良好だと言える。子供の頃から一緒に暮らしていなかったのが要因かも知れないが、親というより、友達のように会話をする。当然、会話の内容も友達と同等レベルだ、恋の話だってしちゃうのだ。これが、良くもあり悪くもある。
親子らしい会話が少なかったせいか、話題は豊富なれど、悩みや心配事などを打ち明ける事は滅多に無く、子供の頃から、『己の判断』を押し通す癖が身についてしまったのだ。これも、良くもあり悪くもありだ。人の提案よりも、自分の判断を尊重してしまう。
不必要な心配をしない分、むしろ友達の方が素直に悩みを打ち明けられる場合もある。母は心配だけはとにかくする、それこそ身体を壊すほど心配はするが、打開策は何一つ提示してはくれないのだ。で最悪なのが、何とかして欲しい訳ではなくて、時に同情したり励ましたり、何かしらの意見が欲しかったり、その人なりの打開策でも提案してくれればそれで良いのだが、母はなぜか『自分が解決しなくては!』と思うらしい。まぁこれも、親だから・・・と言う事なのだろうが。
しかし彼女は、端的に『金』で解決しようとするから、その『金』を持っていない事に逆切れするのだ。『貧乏で悪かったわね、援助してあげられなくて悪かったわね!』という切れぶりだ(笑)。違うんだけどね、問題の根本は金じゃないのよお母さん。しかし彼女の考えからすると、いかに多くの『悩み事』が金と直結しているかと、今更ながらに資本主義の恐ろしさを実感する。

そんな訳で、進路に関しては親の意見は一切無く、まして親から『大学』を強要された事は無かった。そこでふと、『私には若い頃、道理を教えてくれる人がいなかったからねぇ』と言ったらば、『あんたはどうせ、親の言う事なんて聞かないから、言ったって無駄だったのよ』と言下に断定された。確かにそうだが、お待ちになってお母様。
誰だって自己愛と自己顕示欲の塊になる10代のバカ者に、道理を一辺倒解いただけで、簡単に理解されるはずもなかろうが?そこは親らしく堂々と、理屈理屈、畳み掛けるように一般論に次ぐ一般論で、無邪気かつ面倒な10代の自我をバッサバッサと打ち崩してくれなくちゃぁ・・・。
他人任せは嫌いだが・・・、いやいや、今にして思えば、何も10代から自分の人生に責任なんて、持てなくたって良いのじゃないだろうか?と、時に自分を甘やかしてみたくなる(笑)。
いずれにしろ、大学という進路を選択しなかったのは完璧に私の意志につき、その責任は自分にあると重々承知していながらも、おんぶに抱っこで大学に通えた可能性を、実に勿体無く思うのだ。なぜ19歳から働いちゃったんだろう?とにかく10代の頃の私は、誰にも頼らずに生きたくて、社会に出たくて堪らなかったのだ。あ〜全く、今は誰かに頼りたくて仕方が無い(笑)。何につけても、考え方の推移が一般とは逆なのだろう、私の場合はきっと。

しかし、我が両親が親らしく、10代の娘の自我を打ち崩し、嫌々ながらも大学に通わせたとしたら?まず間違いなく私は短大しか行けなかったろうから、その後の人生で、果たして親に感謝しただろうか?恐らく感謝はしただろうと思うが、それはきっと、曲がりなりにも『大学卒業資格』を手に入れる事が出来たという、単なる事実に対してだけだったろうとも思う。
嫌々大学に行って、やりたくも無い勉強をして、なんとかかんとか卒業したところで、残るべき『知識』は無かったろうとは、簡単に想像が付く。それを証拠に、嫌々通っていた高校の授業で、覚えている事なんか1つだって無い。
結局人間なんて、強制される事に良い結果なんぞは生まれない。いや勿論、大学に於いて、何か学びたい事を見出していた可能性だってある。ただし、強制に対する憎しみは人の心を曇らせる、特に私の場合は根深いので(笑)、もう一寸先も闇というぐらい暗雲が立ち込めちゃって、観るべきものも見落として大学生活を送っただろう。
だから、結果的には良かったのだ。思う様社会に出て働き、そうしながらも自分の興味を探求し、次第に興味の幅も広がった。興味のある事柄の知識を更に得たい、その過程に限界を感じた今だから、学びの場に舞い戻りたいと考える。今やっと私には、知識を授けてくれる場がある事を心から素晴らしいと思えるし、その恩恵を享受することに対する幸運を認識する事が出来たのだ。
大学と言うものを知っている方々には、恐ろしく理想論に過ぎると思われるかも知れないし、実際に通ってみたら、羨望は大きく打ち砕かれるかも知れない。それでも、行けたら素敵だろうな〜♪と、甚だ楽観的に憧れてしまうのだ。恐らく私のこの感情は、大学そのものに対するコンプレックスに裏打ちされた部分が強いと思う。大学を卒業した人は立派な人という、子供騙しな劣等感は、長年私の中で燻り続けて来たものだ。

しかしながら、人は何歳になっても、如何なる場所に居ようとも、『学びたい』という強い意志があれば学ぶ事が出来るのだ。動機が劣等感だろうがコンプレックスであろうが、そこにより純粋で熱烈な欲求があれば良い。あらゆる些末な感情を凌駕するような、強い信念があれば良いのだ。何よりも、そうした熱意や信念が、より以上の成果を生み出すはずだから。
要するに、『行けたら素敵だろうな〜♪』程度では、まぁまず、不可能なのだ(笑)。長い目で見て、新聞沙汰になるぐらい高齢になったとしても、いずれはその恩恵を受けたいと思っている。今はとにかく、勉強恐怖症を克服しなくては(笑)。

『ジーヴスと恋の季節』

2008年04月26日 23:22

P・G・ウッドハウス著/森村 たまき 訳/国書刊行会
デヴリル・ホールの当主エズモンド・ハドックは、なんと!5人のおばさんと同居していた。そこに『ガッシー』として乗り込んだバーティー、『バーティー』として乗り込んだガッシー、ガッシー(バーティー)の従者ミドウズとして乗り込んだ、バーティーの旧友で俳優のキャッツミート。彼の妹コーキーはハリウッドの売れっ子女優、そしてハドックの導きの星にして、バーティー(ガッシー)の女神。と言う事は、ガッシーの婚約者アマンダは、ガッシー(バーティー)の元へ?しかもハドックは従妹であるガートルードに猛攻撃を仕掛けているらしい。キャッツミート(ミドウズ)はガートルードと恋仲だが、そんな不幸な間違いにより、ミドウズ(キャッツミート)として、デヴリル・ホールのメイドのクウィニーと婚約?かと思ったが、クウィニーは村のドブズ巡査と婚約していた。ガッシー(バーティー)の執事であるはずのジーヴスだが、デヴリル・ホールの執事は、ジーヴスの叔父でクウィニーの父であるチャーリー叔父さん。仕方なくジーヴスは、バーティー(ガッシー)の執事として乗り込んできた。

なんだか、あらすじの新境地を開拓した気分(笑)。さてコチラ、ジーヴスもの最新翻訳!しかも、幾人かの有名なウッドハウス・マニアが、最高傑作と考えている作品だそうだ。(解説より)
とにもかくにも、お腹一杯!これぞウッドハウスの真骨頂と言えるのではないだろうか?真骨頂というか、『エムズワース物』に類似した、キャラクターの入れ替わりによる騒動による入り組んだ面白さ、それによってさらに混線の度合いを増す、恋愛模様が本作では4組にも上る。
これもまた解説からだが、ウッドハウスが戦争のためにフランスで暮らしていた頃の作品だそうだ。そのため、作品にかける時間がふんだんにあったとか。だからこれほど入り組んだプロットが可能になったのだろうと予想しているが、なるほどなるほど、余りにも緻密に展開するドタバタ劇に、笑いが絶える間もないぐらいだった。それに、いつもなら若干感じる無理矢理な展開が無く、いともスムーズにバーティーが窮地に落ち込んでいく。これは、じっくり考えられた物語ゆえ、と言えるのでないだろうか。
笑いと言えば、今回はとにかく、1行毎にも笑わせて頂いた。これはもう、圧倒的に翻訳者のおかげである。確実に、翻訳者森村氏の笑いのセンスは、向上の一途を辿っている事を、私としては、一点の曇りも無く疑わない事を表明するのにやぶさかじゃないのだ(真似してみた(笑))。
言葉選び、リズム感、文章であるのに表れる間合いの絶妙さ。ウッドハウスをかつて原書で読もうと無謀な挑戦をして、多用される引用でけつまずき、粋な言い回しに転倒し、よもや起き上がる事も出来なくなったのは、僅か5ページ目ほどだったか。何より、全く持って、面白いと思われるニュアンスを嗅ぎ取れなかったのだ。
やはりこうした言葉の上手い作家の作品は、同じくらい言葉遣いが上手く、原作者を深く理解し、適切な日本語に訳してくれるであろう、信頼の置ける翻訳者の方の作品を楽しむに越した事は無い。そういった面で私にとって、アガサ・クリスティに田村 隆一氏が欠かせないように、ウッドハウスには森村たまき氏が、よもや欠かせない存在だ。本当に、毎回深く感謝しております。
今回は(いやここ最近か?)ジーヴスの影が薄かったのが、若干残念ではある。もちろんバーティーは全開でスープに浸かりまくるし、個性豊かな友人連中も大活躍で・・・スープにまみれる。それでも、私がこのシリーズで何より好きなのは、バーティーとジーヴスの掛け合いなので、確かにこの面においては、お腹一杯とは良い難いかも。
今回のラストは、え!?次回に続くなの?と疑問に思う終わり方だった。あれで終わってしまうには、余りにも惜しい終わり方。ぜひぜひ、あの後のバーティーの顛末を知りたいものである。アガサ伯母さんと戦って、粉塵と化してしまっていない事を願って。

ジーヴスと恋の季節 (ウッドハウス・コレクション)ジーヴスと恋の季節 (ウッドハウス・コレクション)
(2007/12)
P.G.ウッドハウス

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『ユージュアル・サスペクツ』

2008年04月26日 23:20

〔米〕THE USUAL SUSPECTS (1995年)
監督:ブライアン・シンガー
脚本:クリストファー・マッカリー
ガブリエル・バーン/スティーヴン・ボールドウィン/チャズ・パルミンテリ/ケヴィン・ポラック/ピート・ポスルスウェイト/ケヴィン・スペイシー/スージー・エイミス/ジャンカルロ・エスポジート/ベニチオ・デル・トロ/ダン・ヘダヤ/ピーター・グリーン/クリスティーン・エスタブルック

ある容疑者が語りだした6週間前に始まる出来事、それは、幾つかの犯罪のに関わる告白だった。銃器強盗の容疑で連行された、5人の常習犯たち。1つ所に集まった彼等は、自然発生的に新しい強盗計画を立てる。それが上手く行くと、次には新たな儲け話が。しかしそれは怪しい匂いのする話で、彼等はそれと気付かぬ内に、大物犯罪者、カイザー・ソゼの手に落ちていた事を知る。誰も姿を見た事の無い陰の立役者、決して逃れる事の出来ない男。そして5人の常習犯たちは半ば強制されるように、麻薬絡みの危険な仕事に駆り立てられていく。

いや〜、G・バーンが素敵だったねぇ〜。この方、こういう影のある伊達男というイメージがピッタリね。全く素敵だったわ、思わず惚れ惚れしちゃって、ストーリー追うのを忘れそうになったわね。冒頭の、ちょっと汚れた感じの渋さに、まず早々にノックアウトよ(笑)。
個人的突込みどころとしてピカイチなのは、やはりB・D・トロね。最初に出てきた時は、パンチパーマをかけた日本のヤンキーかと(笑)。パンチパーマこそ見間違いだったが、あの眉毛って・・・。『バスキア』の時は素敵だったのに。何なの、今回のナヨっとした印象の薄いキャラは・・・。
S・ボールドウィンはね、どうしても『フリントストーン』の印象が拭えない。余りにもはまりすぎてて、今回のような切れ味のある役柄はどうもね、失礼とは思いつつ、致し方ない。その上更に、常に落ち着く先で外せないのは、『お兄ちゃん達にそっくりだよねぇ』というね(笑)。
K・ポラックは、見かける度に『どこかで観たぞ?』と思って調べると、以前も同じ理由で調べた事を思い出し、しかし、何の映画がきっかけで調べたのかも思い出せず・・・という悪循環を繰り返している役者だ。今回もまた同じ行程を踏んで軽く凹んだ。もう好い加減で覚えたいのに・・・。
K・スペイシーはね、変わりませんねこの方(笑)。ちょっと抜けた感じの犯罪者を演じていて、追い詰められたオトボケ面がなんとも可愛らしく見えちゃって、あらら大変だわ。でも、時折魅せる利発そうな瞳の輝きが、俳優K・スペイシーである事を思い出させる。そんでもって、ちょいとやりすぎちゃったかな・・・という気がしないでもない。抜け作の演技も、やりすぎちゃったかな〜?
と言うわけで、私個人としては、K・スペイシーの演技から、ラストの展開や犯人が解ってしまったのだ。ただし!映画中盤頃までは、K・スペイシー演じるヴァーバルを尋問する刑事が、何を求めているのかが掴めなかった。だからその分、物語を純粋に楽しめたかな?と思う。
追うべき犯人像が見えて来たら、定説を基に消去法で犯人を捜したら真相が解ってしまった。映画冒頭から、伏線がまるでネオンサインのようにチカチカ目立っていて、そうしたところも、鑑賞中から真相を探るのに役立ってしまったのだ。余りにも手の内をバら撒き過ぎで、むしろ刑事の無理矢理な論理の方が、映画全体を通せば面白いのでは?と思えた。
『意外な結末』というのが用意されてる場合、良くも悪くも『衝撃』というのが必要なのだと思う。大抵はストーリーから衝撃を生み出すのだろうが、例えば、『未経験』から生まれる衝撃もあるだろう。この場合、観客がどれだけ経験値を積んでいるかで評価が大きく分かれる。
この映画の場合は、公開当時の一般の経験値からすれば、結構な衝撃があったのではないだろうか?その後数多くの『どんでん返し』映画が生まれた現在となれば、未経験の衝撃はほとんど生まれないだろう。より趣向を凝らした作品と比べると、かなり解り易く思えるぐらいだ。
映画の展開や雰囲気、地味だけど個性的な俳優の演技、レベルとしては悪くないので、今更ながら、ラストを書き換えて欲しい・・・なんて思ってしまう。最初に映画が語る人物をそのまま追ったラストなら、現在でも十分に受け入れられる水準と面白さがあると思うのだけど。。。

ユージュアル・サスペクツユージュアル・サスペクツ
(2006/09/08)
スティーヴン・ボールドウィン、ケヴィン・スペイシー 他

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ぽすれん『ユージュアル・サスペクツ』紹介

『田園交響楽』

2008年04月26日 23:17

アンドレ・ジッド著/神西 清 訳/新潮文庫
村の牧師はある雪の深い夜、村外れで1人の老女の死を看取った。その家には目の見えない少女が、半ば放置するようにして育てられていた。薄汚く、礼節や礼儀などとは無縁で、言葉も知らず、まるで獣のような少女。牧師は彼女をジェルトリュードと名付け、淑女として通るように一身の教育を施していく。年月は流れ、美しく才気溢れる女性へと変貌を遂げたジェルトリュード。盲の彼女は見えないから故幸せでもあったのだが、牧師は彼女に開眼手術を受けさせる。長年閉ざされていた世界の景色を見たジェルトリュードは、なぜか川へと身を投げてしまうのだった。

物語自体は非常に短いが、その約半分を使ったぐらい長く、ジットに関する解説が載せられている。物語自体は大した事は無いのだが(笑)、その詳細な解説を読んで、もう1度物語を反芻してみる。・・・どうにも私には、作者を持ち上げすぎだと思えるのだけど?
持ち上げただけで『ノーベル賞』が受賞できるとも思わないが、物語が短い分、問題は多数提議義されていても、答えは作者からは与えられていないわけだ。だからこそ人は考える、そして研究する。これほど著名な人物が書いたなら、多くの意味が含有されているはずだと信じて。
これもまた時代なのか?現在では、ジットがこの作品を通して描いた問題や提議に類似した作品は、それこそ山程ある。より解り易く示している作品もあるし、物語的に面白い物も沢山あるだろう。簡単に言ってしまえば、この作品の云わんとしてる事は非常にステレオタイプな事柄で、そうした題材を描く作品としては、格別面白いとも思えなかった事。
実は、ジットその人の経歴を読んで、つくづくそう思ってしまった。なんだか・・・聖人扱いしているような錯覚を得たが、ちょい待ち?従姉と結婚した事、厳格な母の存在、父親不在、幼少の頃の学業不振等など、作者を形作った経歴、それゆえに描かれた物語たち、その題材。全てを総合して考えても、ジット様々論が入っている気がする。『穢れ無き妻には邪な肉の欲求などは無いはず』と勝手に決めて処女妻を押し通し、自分は男女問わず遊び呆けたって、、、何様?
芸の為なら女も泣かすじゃないけどさ、不倫も芸の肥やし?いやいや、何が何様って、そうして長年放って置かれた妻の感情を、ちゃっかり作品に転用してるじゃないですか!?従姉と結婚した、そうしたタブーや常識打破、例えば宗教に関する感情なども、幾つかの逸話と併せて上手い事利用しているようにしか・・・思えなくて。
単純に物語を読み終った時は、正直想像していたより遥かに俗っぽい結末で驚いていた。そこはそれ、著名な作者の事だから、この俗っぽさにこそ、牧師の犯した罪や堕落、影に潜む滑稽さなども見えるのだろうと、まぁ思ったわけだが、解説を読んでそんな思いも霧散したというか・・・。著者自信は俗っぽいと思っていたかどうかは知らないが、大衆はまさかそんな事を思ってはいないわけで、真摯にも、宗教だとか清廉なジェルトリュードの魂の事を考えているのかと思うと、自分のこの相容れない考えが、なんとも下世話な判断にも思えてくるのではあるが。
盲であるということも、実に上手く美しく描いていたと思ったが、ラストに続く一連の記述で、その部分すら肩透かしを食らった気分なのだ。なんとも、こういう時は学が無い自分を責めるべきなのか、お気楽な無学さを自画自賛するべきなのか、考えてしまう。
まぁ〜、性に合わない作家だったという事で、いずれ『狭き門』も読んでみようかと思っていたが、これにて打ち止めという事で、良いかな。

田園交響楽 (新潮文庫)田園交響楽 (新潮文庫)
(1952/07)
神西 清、ジッド 他

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紙に印刷された本

2008年04月23日 23:08

今年の春になって、冬の間『冬眠』していた図書館通いを再開した。
私が図書館に通うようになったのは、小学校低学年の頃。知り合いのお姉さんが働いていたのがきっかけだったが、家の近所の図書館はかなり大きな場所で、1階から3階までを埋め尽くす本、本、本。今の私なら狂喜乱舞して何時間でも過ごせたろうが、当時の私は読書嫌いで、古い本の臭いがとりわけ『大嫌い』だったのだ。ちなみにその図書館のサイトを現在確認してみると、『ハヤカワ文庫』全冊所蔵と謳っている。それを知った時には、本気で涎が垂れそうになった(笑)。
では何故通ったのかというと、祖母の知り合いのお姉さんというしがらみがあって、行かないわけにもならなかったのだ。小学生にして、人脈の複雑な構造機構に飲み込まれた、不幸なる私。
そこで起こった重大事件は以前も日記に書いたような気がするが、端的に言うと、借りた本にゴキブリが挟まっており、それを潮に図書館通いをキッパリと辞めた。堂々としがらみから開放されたのだ。以来私は、『古本』が大嫌いになり、古本の臭いは、輪をかけて嫌いになったのだ。
時は過ぎ、大人になり、働いて、貧乏になり(笑)。新刊本を買えなくなる時が来た。以前は月の本代に1万円までと決めていたが、そんな大盤振る舞いは、よもや出来ない身の上となった時、致し方なく古本屋通いを始めた。だけど決して、決して、図書館には行かなかった。古本屋の本よりも、図書館の本の方が汚いという認識があった。
古本はそもそも『個人』が所有していたもので、誰でも、自分の物は大切に扱う。または、全く読まないから売る場合もあるので、比較的綺麗なものも手に入る。図書館は『人のもの』と思うからか、扱いがぞんざいだと思うのだ。

それが何故今、図書館に行くようになったのか?それは、『読みたい本が古本じゃ中々見付からないから』。もっと突っ込んで言うと、『ウッドハウスの本が読みたかったから!』なのである。
最初はそりゃあ、そりゃあ辛かった。実は私、圧迫恐怖症?のようなものがあって、狭くて暗くて背の高い書架がある図書館は、いるだけで呼吸困難になってしまう。冗談でもなんでもなくて、恐怖で本当に息が出来なくなってしまうのだ。今の市の図書館は、比較的書架が低く、室内も明るく、書架と書架の間も広いので、長時間いてもその辺は大丈夫なので助かっている。
借りる本も、基本2005年以降発売の本のみと決めている。それ以外は、実際に手に取ってみて、綺麗だったら借りる事にしている。人気の無い本だと、古くても割合と綺麗だ(笑)。
それでも何でも、とにかく図書館の本は『汚い』・・・場合が多い。最悪なのは、新刊を予約して、それほど日が経たずに手元に届いても、既に手垢やページの捲れなどの劣化が目立つ上に、食べこぼしや、よもや何の染みかも解らない、解りたくない汚れがこびり付いている事。ページを剥がすとペリペリ・・・なんて音がして・・・、ああもう、最悪だ。
大体ね?他の人も借りると言うのに、どうして、何だか知らないが、食べ物をこぼしっぱなしにして本を閉じられるわけよ?それが張り付いてページをくっつけようがお構いなし、不快に挟まった食べ物くずを、ページの奥深くに残しておいたり出来るわけなの!?払いなさい、拭き取りなさい!大人ならそれぐらいの常識を心得なさい!!!
私は基本、自分の本を読むときも、借り物の本を読むと時も、飲みはするが食べない主義だ。自分の本にしても、食べ物の染みが付く事を好まない。ついでに言えば、ページが折れたり破れたりするのも好きじゃない。こういうところは、思いっきりA型だ、そんな自分も嫌いじゃない(笑)。
ああ、嫌だ嫌だ、嫌だけど我慢しなくちゃ。1冊2〜3千円もするようなご本を、読みたい度に買えるご身分になるその日まで。時折不快感の為に涙目になりながらも、やはり読みたい本を適切に読めるのって素晴らしい!と、良い側面を見るようにして堪えている。

そこで思ってしまうのは、『紙だからいけないんだよね・・・』という事。放って置いても紙は劣化して変色するし、虫に食われたりもする。色々と書く事が出来るが、それが仇になって汚れも付き易い。洗えないのも難点だ。汚れをこう・・・ざぁ〜っと一掃する手段が無い。
今は電子図書なども世に出回り、いつかの時代には、図書館レス・・・というか、ネットで借りたい図書を予約して、それがPCか携帯に届いて、2週間だけ閲覧出来る、なんて世代が来るのかも知れない。お取り寄せシステムも無くなり、市や区の境界線も無くなり、もしかしたら世界のボーダーラインも無くなるかも?
私も何度か、携帯図書を読んだ事がある。アレはアレでお手軽で良いのかも知れないが、私はやはり、本は今の本の形で読みたい。紙にチマチマ印刷された文字、ページを1枚ずつめくる楽しみ、読んだ分と、これから読む分を時折比べ、自分の足跡を満足に実感する。
次第に少なくなっていくページ、最後の1ページをめくる時の充足感。実は、初めて小説を読みきった時の清々しい達成感を、私は毎回追体験している。この何とも言えない小さな達成感は、どれだけ長い時間が過ぎても、私の中で薄れる事はないようだ。
最初のページをめくる時の密かな興奮、物語が動き始めた時の盛り上がる興味、次第に深まっていく物語、その穏やかな流れを、過ぎてゆくページの量で知る事が出来る。こうした物語以外に感じられる読書の楽しみは、今の形態の『本』でなければ、感じる事が出来ないのだ。少なくとも、私はそうなんである。ページをめくるという行為自体にかかる楽しみは、決して、電子書籍では味わえないのだ。栞を忘れてパラパラと行き来する楽しみも、忘れちゃいけませんね(笑)。

そうしてつらつら考えてみて、汚さに我慢するか、風情の無い電子図書を鋭意取り入れていくか?考えるまでもない結論が浮かび上がった。私にとっては、やはり図書館様様なんである。
まともな仕事をして人並みの収入を得て、読みたい本は片っ端から新刊で買えば良いじゃないか!という至極真っ当な結論は・・・最大限無視するとして(笑)。

『敬愛なるベートーヴェン』

2008年04月23日 21:12

〔英/ハンガリー〕COPYING BEETHOVEN (2006年)
監督:アニエスカ・ホランド
脚本:スティーヴン・J・リヴェル/クリストファー・ウィルキンソン
エド・ハリス/ダイアン・クルーガー/マシュー・グード/ジョー・アンダーソン/ビル・スチュワート/ニコラス・ジョーンズ/フィリーダ・ロウ/ラルフ・ライアック

交響曲第9番完成間近、ベートーヴェンの作業は遅々として進んでいなかった。病のために、仕事の中断を余儀なくされた写譜師の変わりに、アンナ・ホルツが音楽学校から派遣された。彼女の成績は首席で、かつベートーヴェンを深く敬愛していたものの、粗雑なベートーヴェンには気圧されるばかりだった。余りにも自信の音楽を理解するアンナに信頼を寄せ始めたベートーヴェンは、共同で作業を完成させ、歴史的な名作、2時間に渡る交響曲の初演を迎える事が出来たのだ。晩年のベートーヴェンに焦点を当て、知られざる一面を素晴らしい楽曲と共に描いた作品。

ベートーヴェン死の間際、日本の大晦日でもお馴染みの、交響曲第9番完成の頃を描いた作品なので、いわゆる伝記映画とはちょっと違う。それでも、天才的な音楽家でありながら、耳が聞こえなくなったベートーヴェン。困難を克服した偉人として、学校でも教えられた人は多いはず。
宮廷に出入りしていた時代の作曲家とは違い、ベートーヴェンに対する私の印象は、かなりの庶民派だった。伝えられる話からも、粗雑で横暴な人だったらしいとは理解していたので、果たしてこの映画、かなり小奇麗に描いてはいないだろうか?なんて邪推してしまう(笑)。
晩年のベートーヴェンを、仕事と精神面の両方で支えたように描かれているアンナは架空の人物だ。HPを確認してみると『未だ謎に包まれている3人目のコピイスト』がどうのこうのと書いてあるが、これは・・・、ソフトな言い訳と、眩惑するための宣伝文句と思われる。
何で今更?というのが正直な感想。実際にアンナ・ホルツという人がいて、ベートーヴェンと映画のような良好な関係を築いたというのなら、それは隠れざる話と言う事で十分映画にする価値はあると思うが、世界的に有名なベートーヴェンという人を中心に据えて、伝記でも無く、舞台背景も諸事情も史実に則した、架空の物語を作った意図が解らない。
ベートーヴェンという確固たる実在の人物の、今尚褪せる事の無い強烈な存在感と、アンナ・ホルツという、余りにも虚弱な架空の人物のそれとが噛合っていない。その割に物語上では、余りにも大きな役割を持つアンナ。歴史を書き換えてしまうほどの存在を担うには、幾らD・クルーガーが美しく、良い演技を披露しようとも、漠然とした存在感の欠如は否めない。
全体的に魅せる部分の多い映画ではあったのだが、浮かび上がる3文的な虚飾感が払拭できなくて、やたらと薄っぺらに感じてしまった。ベートーヴェンが病に倒れる様も、実験的な楽曲を発表するのも事実かもしれないが、虚構との狭間が無くて、陳腐な逸話に思えた。
要するにこの映画、どう捉えたら良いのか解らないのだ。『アマデウス』のように、実在した音楽家に虚構の個性を与えたフィクションなら面白いと思う。恐らく本作は、サリエリが男性だったのに対し、アンナが女性だったのが問題なのではないだろうか?だからこそ、真実に寄り添うように存在する虚飾のままではいられず、真実に無理やり食い込んでいく強引さに繋がってしまうのでは?男女の繋がりを描く中で、およそ傍観的な距離感を持続するのは難しい。だからと言って、アンナがいないと生きていけない!という程までにベートーヴェンを描いた事が、この不安定感を私に与えた要因のような気がする。
雰囲気も役者も良かったので、なんとも勿体無い・・・という思いが強い。伝記かフィクションか、ベートーヴェンの映画なのか彼は単なるキャラクターなのか、その辺をもう少しはっきりさせてくれていたら、良かったのにと思う。・・・なんだか、白黒ハッキリさせたい、A型気質が裏目に出たような感想で失礼(笑)。

敬愛なるベートーヴェン敬愛なるベートーヴェン
(2007/11/07)
エド・ハリス.ダイアン・クルーガー.マシュー・グッド.フィリーダ・ロウ.ニコラス・ジョーンズ.ラルフ・ライアック

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ぽすれん『敬愛なるベートーヴェン』紹介

『遺失物管理所』

2008年04月23日 20:34

ジークフリート・レンツ著/松永 美穂 訳/新潮クレスト・ブックス
北ドイツの大きな駅、その一角に、そのもの自体が忘れられたような『遺失物管理所』がある。本人の意志も手伝って、新しくそこに配属された24歳のヘンリー・ネフ。お坊ちゃま育ちの彼だったが、本人に出世の気負いは一切無かった。余りにも多くの人が奇妙な物を忘れ、しかもその時の詳細も忘れ、それでも必死になって探し回る事か。ヘンリーにとっては驚きと楽しみの詰まった日々の業務は、職場の同僚を始め、様々な人達との出会いの毎日だった。

著者ジークフリート・レンツという方、かなり著名な作家らしいが私は初見。この作品を読んで無性に他の作品を読みたくなったので調べてみたが、どうやら本作が特に、コミカルで読みやすく、人間味溢れる穏やかな印象の作品、という事らしい。どうかな?だとしたらどうかな?
まず主人公ヘンリーが良い。飄々としていて霞のようで、上昇志向は無いが自分が居たい位置や、望む価値観などはちゃんと理解している。一見するとぐうたらなように見えるが、そこにはそれなりの信念があるのだ。自己犠牲の精神もあるし、その痛みを理解する事も出来る。
それに、なんとも人を見る目が優しい青年だ。人の欠点を露見する事はせず、常に於いてその人の良い面を探ろうとする。感動に対して及び腰ではなく、ふとしたところから温かみを見出せるし、心から悲哀を感じたり同調したり出来、物事の良さや本質を受け止められる人だ。きっと、この著者の人柄が染み込んでいるのだろう。こうした事柄が、それとなく描かれているのが良い。
ぐうたらで掴み所の無い、曰く少年のような男ではあるが、正義を追求する姿勢は人一倍強い。もしかしたら、これまで安寧に暮らしてきて、初めて触れた『人を心の底から傷つける暴力』に戸惑い、持ち前の正義感がようやく目覚めただけだったのかも知れないが。それに、暴力に暴力で征しようとしない姿勢は、作者が伝えたい、何だかのメッセージもあるような気がする。
それでも、やるときゃやる(笑)。敢然と暴力にぶつかったヘンリーが見せた姿は、単に暴行を犯すのではなく、痛みや苦しみの中で『立ち向かう』という高潔な姿勢を見せてくれた。べた褒めでお恥ずかしいのだが、理想の男性像に近かったので、つい(笑)。
さてそんなヘンリーが、会社の吹き溜のような部署にやってくる。ある程度は本人の希望なのでヘンリーには異存」はないが、同僚にしてみれば、諦め半分といった部署なのだ。どうでも良い部署ではあるが、それでもやはり、無くてはならない部署。そんな部署の見方を、ヘンリーは徐々に変えていく。彼にとっては、無限のおもちゃ箱のような世界。品物も面白ければ、それを取りに来る人間も、飽くなき興味を提供してくれるのだ。
そうした、最悪を最高に転じる物事の見方を、巧みな演出で作者は語ってくれる。陰鬱な場所に思える『遺失物管理所』から始まり、そこにヘンリーが一陣の風を吹き入れる事で、読者諸君の『見る目』を鮮やかに変えてから、物語は更なる展開へと進むのだ。憎い演出ね(笑)。
ヘンリーが出会ったバシュキール人のラグーティン教授。この2人には、楽観的で幸福感のある人間として共通点があるのだが、より厳しい環境で生まれたラグーティン教授は、やはり少し内に秘めたものが多い存在だ。これは、ヘンリーがこれから学ぼうとする『人生』を、そのまま体言させたものだったのかも知れない。最後まで、ラグーティンは高潔で温かい印象を残している。例え、如何なる傷を心に秘めていようとも。
とにかくね、巨匠の描く人生。御歳80になんなんとする著者が描いた『人生』ですよ。その明るい側面や幸せな部分、反面鋭利な傷や痛みも、幸せな見方に変えさせようとするやんわりとした指南を感じる。現ポーランド領出身と聞くだけで、そんな著者の秘められた切れ味を想像できる。本作は、そんな刃をそっと鉾に収めた、温かい仕上がりの作品だったと思う。ただし、しっかり有るべき切り口は存在していて、そうした事柄も見過ごさずに読んで頂きたい。
余りに人間臭い人々、沢山の悩み苦しみ、閉塞感を抱えていながらも、楽しい側面を見続けようと努力する。人生は苦しい事も多いけど、当たり前に楽しい事もあるのだということを、こうした人間臭いキャラクターがそれとなく伝えてくれる。そしてヘンリー、およそ高いとは言い難い彼の理想だが、多くの奇妙な忘れ物に囲まれて、その裏には無数の『人生』が隠されている事を知るのだろう。そして堅実さという、これもやはり人生では欠かせない要素の1つである事柄を学んだ、という結末だったのかもれない。

新潮クレスト・ブックス 遺失物管理所 (新潮クレスト・ブックス)新潮クレスト・ブックス 遺失物管理所 (新潮クレスト・ブックス)
(2005/01/26)
ジークフリート・レンツ

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骨盤の歪みには!?

2008年04月22日 22:57

さて私、3週間ほど前に、とても素敵な買い物をした(笑)。その商品とは、『骨盤矯正ベルト』だ。
現代女性の殆どは、骨盤の歪みによる何だかの影響を受けていると言う。私なども、整体や無料体験のエステに行くと、ほぼ100%の確率で骨盤の歪みを指摘される。しかし大抵は、金銭絡みの営業活動と思って、余り相手にしていなかった。
とは言え、腰痛も骨盤の歪みが原因の場合アリと聞くと、これはちょっと気にならざるを得ない。それに、歩き方の悪さが骨盤を歪ます原因と聞けば、私の骨盤変形は俄かに危機感を帯びて来る。酷い前傾姿勢で歩くのだが、これも猫背の一種だそうだ。おまけに足もO脚だし、爪先を外側に開くように歩くのは、骨盤を歪ます歩き方なのだそうだ。そうした余りよろしくない歩き方を総合すると、酷い外反母趾になる。外反母趾になると、歩き方が悪くなる。こうした悪循環の結果、私の骨盤がちょっとばかり大袈裟に歪んでいると考えるのは、極自然の事に思えた。

ちなみに以下、骨盤の歪みによる症例(一部)
『腰痛・便秘・下痢・生理痛・不妊・肌荒れ・冷え性・肥満・バストダウン・O脚・不眠』

さらに骨盤の歪みは、腰周りと太腿の肥大に現れるらしいのだ。下腹がぽっこり出るのも骨盤歪みの典型らしく、私の場合も、身長165cmで体重42キロになった時、身体のあらゆる部位から肉が削げ落ちたにも関わらず、下腹だけがふくよかさを維持していたものだった・・・。
その他特異な症例ではO脚、腰痛、極度の生理痛辺りが当てはまる。骨盤の歪みからこうした症状が顕著に現れるなら、その現況を直すに越した事は無いのでは?と思った次第だ。

・・・ふふ、実はこれはかなりの建前(笑)。
昼・夜働いて食事もまともに取れない日々なのに、ここ最近、太るのが止められない。大体おかしいのだ、飲食業に携わっていて、この膨らみ具合は完璧におかしい。飲食のサービスをするか海外旅行に行った時は、いつも大体似たような効果が得られる。1週間程で腰周り、太腿共に細くなり始め、ヒップの位置も後方にずれて持ち上がった感じになる。だから、『ただ歩く』というのが、効果的なのだと思っていた。現在は週3回はバイトに入っているのだから、似た症状が現れても良いはずだろうと。それなのに・・・膨らんでる。。。
サービス業では当たり前に良い姿勢で長時間の立ち仕事、旅行に行った時は、1日9時間くらい歩く。そのため、『歩きすぎ』という、問答無用のエクササイズ効果が上がっていたと思われる。
そこで思い至ったのが、歩き方そのものに問題があるのでは?と言う事。今のバイトでは非常に歩き易い靴を履いて、結構のんびりやっている。だから姿勢に気を使ったりもせず、ふと気が付くと、悪癖の前傾姿勢が出ている時がある。要するに、悪い歩き方で5時間の立ち仕事は、状況を悪化させる以外の何物でもないのでは?との推察が成り立ったのだ。

骨盤ベルトをすると、歩き方そのものが矯正されるらしい。ならば試しにやってみようじゃないの!と言う事で、ええそうです、要は、痩せたくて買ったのです(笑)。
さて、初めて着けて5分ほど、締め付けている辺りから『コリッ、コリッ』と、骨の動く音がする。これにはちょっと驚いた。暫くするとその音は消え、以来、音がすることは無い。これで、私のずれていた骨が元に戻ったと言う事なのだろうか?まず締め付け感が心地よい。動きも制限されるので、確かに、歩き方が矯正されている感覚だ。爪先を開いて歩く癖も、1日で大分良くなった。
更に1週間ほどで、なんと!O脚がほぼ完治したのだ。私のO脚は、骨自体は真直ぐなのだが、それを2本並べると反っているのが解る。だから私の膝は、かなりの長期間に渡って、どんなに力を入れて引き寄せようとも、直立時にくっついた事が無かった。それが今では、ほぼすんなり直線に伸びた足、膝は軽く力を入れただけでくっつくほどまで近付いているので、完治するのもそう遠からずといった所だろうか。
腰痛は格別良くなったとは思わないが、なんと!ヒップの位置が、あるべき場所に戻ったのだ。エステに行くと良く、『ヒップのお肉が横にずれちゃってますよ』と真顔で言われていたものだが、これならエステティシャンの姉さんにも、文句は言わせまい。まぁこの現象には説明が着くのだが、簡単に言ってしまうと、骨が正しく有るべき位置に戻った、と言う事になる。
さて、気になるスリム効果は?というと、今のところほとんど現れていない。強いて言うなら、欲眼プラス希望的観測100%全開で見るならば、下腹が少し凹んでスッキリしたかな?とうところ。一番の希望は太腿なのだが、こちらはビタ1mmも、細くなってはいない。
今のところ2日ほど着けないでいると、O脚も元に戻ってしまうし、程よく凹み始めた下腹も、勢い良く舞い戻ってしまう。定着するには暫くかかりそうだが、着け心地も概ね気に入っているので、苦にはならないだろうと思う。
更に素晴らしいことに、仕事中に脚を組まなくなったのだ。この締め付け感がそうさせているのか、潜在的で理由は良く解らないが、無意識に脚を組むのを止めている。試しに1度組んでみたのだが、締め付けられている辺りが何だか気持ちが悪くて、直ぐに解いてしまった。

私が買ったベルトは約3,500円くらいのもの。安いとは言い難いと思っていたが、こんなに良い品なら、もっと早く買っておけば良かった・・・、という事で、既にワイドタイプを注文済みだ(笑)。私は、人よりちょと股上が深いので、普通の太さのベルトだと、巻くべき場所に行き渡っていないような不信感があったので、これで解消できると良いな。
我こそは骨盤に異常アリ!と自信のある方(笑)、1度お試しになられたら如何だろうか?私個人としては、高いお金を払って整体に行ったり、エステに行ったりして治療するより、格段にお勧めの手法だ。ただし、当然なのだが、骨盤に何らの以上の無い方には、恐らく全く効果は無いはずなので、その辺の見極めは個人的責任で慎重にどうぞ。

『恋するレストラン』

2008年04月21日 23:27

〔オランダ〕HET SCHNITZELPARADIJS (2005年)
監督:マルティン・コールホーベン
原作:Khalid Boudou
脚本:マルコ・ヴァン・ゲフィン
ノア・ヴァレンタイン/Bracha van Doesburgh/Mimoun Oaissa/ヤヒーラ・ゲイール/Tygo Gernandt/Mohammed Chaara/Micha Hulshof/Gurkan Kucuksenturk/Sabri Saad El-Hamus/Frank Lammers/Linda van Dyck /Porgy Franssen/Sanne Vogel

父親の期待を一身に背負い、学校を優秀な成績で卒業したノルディップ。しかし彼は父親が決めた自分の未来に納得が行かずに、父親には図書館のバイトと偽って、ホテル厨房の皿洗いのバイトを始める。そこで出会った、社長の姪でもあるウェイトレスのアグネスに一目惚れしたノルディップ。何とか彼女の気を引こうと試みるが、彼女の返事は『モロッコ人だから』、両親が反対するという素気無いものだった。ノルディップの恋は、未来は、どうなってしまうのか?

こちらの映画もまた、観終わった時は『いや〜青春って良いな、恋がしたいな!』とまぁ、清々しくウキウキするような気持ちだった。でもやはり?感想を書こうと色々考えてみると、、、大した作品でも無かったなと(笑)。ステレオタイプなキャラクターや展開を利用して、リズム感良く適度にまとまっているので、鑑賞直後は面白いと感じられるのだろう。間違っても、振り返って色々考えちゃいけない作品だ。冷静な判断力のある人に、お薦めするのもお勧めしない。
こちらもまた原作ありきの映画なのだが、悲しいかな詳細は不明だ。物語の質感と著者の名前から判断するに、著者の実体験を基にしたデビュー作で、オランダ国内における移民に対する目線、差別や対応などの厳しい側面を、『普通のオランダ国民』として暮らすモロッコ人青年の目線を通して、新鮮に嫌味なく描き出し、そこに、同国人間の友情や、異国間の恋と友情、最終的には、そうした差別や国感情を乗り越えた、人間性を認め合う関係などを描きこむ。きっと親子の気持ちの擦れ違いや歩み寄りなんかも描かれていて、お父さんにも、もっと焦点が当たっているのだろうな。もちろん、青年が自らの将来をとしっかりと向き合い、仕来りやお国柄に左右されず、求める自分の姿を見出す物語でもあるだろう。ホロリとさせつつも大仰にならない抑えた筆致でスマートに、若者らしい初々しさを湛えて描かれた青春小説なのだろう。というのが、私の予測ね(笑)。多分かなり近いと思うんだけど?と言う事で、原作者のHPを発見。デビュー作というのは、当たっていたみたいよ(笑)。
とまぁ、こんな事を予測してしまうぐらい、映画でもキャラクター構築はしっかりと成されているのだ。原作から忠実に抽出したのは、キャラクターの個性のみなのか、そのどれもが、物語では全く生かされていない。キャラクターは置いてけぼりで、物語だけが進んでいく感じ。キャラクターと物語が噛合っていないなんて、どう考えてもおかしな状況が実際に起こってる。
映画の製作者側が、原作におけるキャラクターの完成度を、活かしきれていないのかな?と考えた。そうする事によって完成度が高まる物語を、台無しにしちゃった感じね。ホテルの社長に与えられた設定なんて、余りに無意味な絡み過ぎてよもや意味不明。サンダーの活かし方も、非常に勿体無いない。嫌味はどう転んでも良いってものでは無いのよ、嫌味にも一貫性がないとダメ。
結果として、あらゆる事への取っ掛かりが陳腐に感じられて、引きずるように個々の結末の処理まで中途半端だ。定石を守っている分、面白くも感じるのだが、『もっと出来たはずだ!』という煮え切らなさが残る。主演の俳優2人が素敵だったのも、何とか救われた要因だろうな〜。
アグネス役の女優はとにかく可愛くて、そりゃあノルディップも一目惚れするわねと共鳴(笑)。そんな、恋に一途で男気のあるモロッコ人の青年ノルディップを演じるのは、N・ヴァレンタイン(Noah Mounir Valentynというらしい)。スタイルも良くて精悍な面立ちで、輝く瞳がとにかく素敵なのだが、気を許すと・・・つい気を許すと・・・『ばんばひろふみ』に見えてしまって(笑)。ごめんなさい、ごめんなさい・・・。お詫びに、本当はこんなに素敵なN・ヴァレンタイン画像を最後に。
Noah1.jpg

ほら素敵だ(笑)

Noah2.jpg

ね?素敵でしょ?

Noah3.jpg

やっぱり、ばんば・・・

恋するレストラン恋するレストラン
(2007/05/02)
ムニール・ヴァレンタイン、マルコ・ヴァン・ゲフィン 他

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ぽすれん『恋するレストラン』紹介

『さよなら僕の夏』

2008年04月21日 00:53

レイ・ブラッドベリ著/北山 克彦 訳/晶文社
14歳になるダグラス・スポールディング、大好きなおじいちゃん、おばあちゃん、仲の良い弟トムと過ごす楽しい毎日。たんぽぽのお酒を作った1年前から、また夏が来て、そして去っていく10月。ダグは仲間達と一緒に、大人へ、時間へ、成長していく自分達へ、『戦争』を仕掛ける事にした。夏が終わるなんて我慢が出来ない!ダグたちは、過ぎていく夏を捕まえようと奮闘する。

宝物だね、この作品は宝物だよ。1言で表せる、これは、長年小説を読み続けて来て、今手にする事が出来た、私の読書人生における、間違いなく『宝物』。
なぁんで、こんなに素敵で優しくて、切なくて面白くて、悲しくて楽しくて、ワクワクして苦しくもなって、恋があって友情があって、発見があって成長があって、それこそあらゆる感情や出来事が沢山詰まった、素晴らしく充実した人生のような作品が書けるのでしょう。
巨匠だから書ける、少なくともそれは事実。だけど、レイ・ブラッドベリという人、彼だからこそ描けるのだ。だからこれは、唯一無二の作品。レイ・ブラッドベリには、余りにも独特の彼らしさがある、似たものすら生まれはしないだろう。普通に言ってしまっても、こうした作品を描ける作家は、この先2度と現れないだろうとも思う。
それは時代が変わってしまったから、ブラッドベリが過ごしたような、古き良き時代は、遠い過去の話だから。だからこそ今の小説世界は、変わってしまっているとも言える。若くして活躍している作家達が描く、『子どもの頃の思い出』、子供時代の経験を色濃く反映した物語は、大方は暴力の色が濃かったり、どこか冷淡な印象が強い場合が多い。それは作家が悪いのではなくて、時代が変化してしまった事に要因があるのだろう。
それでも、この作品を読んでいると、驚くほど子供の頃の思いが蘇る。普段なら忘れてしまっている感情を、鮮やかに蘇らせる事が出来るのだ。私の子供時代は、ブラッドベリのそれとは、時代も距離も果てしなく隔たっている。それでも、ダグラスの夏の終わりは、私の幼い頃と重なり、余りにも懐かしく、微笑ましく、なんだか甘酸っぱい郷愁を呼び覚ました。これが、ブラッドベリの真骨頂、素晴らしいところなのだ。小説に愛を感じる事が出来るなら、今はその思いで一杯だ。
この作品では、夏とお年寄りというのが、様々な隠喩になって登場する。こうしたものをこれほど巧みに隠喩化し、更には物語にこれほど自然に染み込ませている作品を他には知らない。これもまた、ブラッドベリの職人技なのだ。
子供達の瑞々しいほどの感性、自由な楽しみ、輝くばかりの奔放さを、夏の終わりと被せるように、ノスタルジックな色合いで物語は進んでいく。まるで、一陣の夏の風に、読書中始終煽られているような清々しさが続く。風そのものが文章に溶け込み、肉眼で見えるような鮮やかさだ。ダグラス達が走り回る自然も、穏やかな町の風景も、苦労なく眼前に浮かび上がってくる。
そして、徐々に見えてくる夏の終りが示す事柄、ダグラス達と戦う老人クオーターメインの存在、賢者のようなおじいちゃんなど、老人たちがが意味するものとは?老人と語るのが好きだったというブラッドベリ自身が、老人になって仕上げた珠玉の作品だ。
読書中何度も、切なくて泣きそうになって、苦しくなって、おかしくて笑って、感動して泣きそうになった。ダグラスの仄かな恋が始まり、子供時代は終わりを告げ、少しだけ成長するダグラス。同じくクオーターメインは、若さにしがみ付くのを諦めて、老いを、人生の成熟を受け入れる。その様がなんともおかしく、そして感動的に描かれる。こんなシチュエーションを描ききった作家も、他には恐らくいないだろうと思う。
ダグラスにとって、その年の夏は、単なる『夏の終わり』ではなかった。しかし秋の始まりもまた、いつもの秋ではなかったはずだ。人間の成長を、自然の摂理をこれほど巧みに生かして描いた作品もまず思いつかない、なんだか、アールヌーボーみたいな作品だ(笑)。
若さと老い、これもまた巧みな演出で描いている。その様が滑稽で、また切なくて、今私はその中間にいるのだと思い知る。この作品を実際に描いたブラッドベリの年齢と、それほど遠くない年齢にいる。それからの55年、ブラッドベリは、この作品を大事に暖めて来たのだろう。何度も校正を加え、加味される年齢や経験と共に、色濃くなっていく子供時代の思い出を重ねて。
この所、色々なものに感謝しているが、ここは盛大に、ブラッドベリをこの世に誕生させてくれてありがとう。適切な時代に、彼が生きた事実に感謝。そして、『宝物』を与えてくれたブラッドベリに、最大の感謝を。ああ、抱きしめて眠りたいほどの作品だった。

さよなら僕の夏さよなら僕の夏
(2007/10)
レイ・ブラッドベリ

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自分のためのblog

2008年04月20日 22:41

先週、先々週と、派遣の仕事が俄かに忙しくなった。
私のポジションは、新しくスタートした業務の補佐という辺りなのだが、1月に入った頃は新規スタートしたばかりで、暗中模索状態が続いていた頃だったのだ。その為、格別やる事も無く、ルーチンだけが課せられた課題だった。
新年度が始まり、これまで蓄積してきたデータを基に、さていよいよ、今後の方策などを打ち出しましょうか!という事になったらしく、『資料作成』がスポット的に舞い込んできたのだ。

私のように、一応、『パソコンが上級向けに使える派遣』を雇う場合、大方は、『パソコンが余り得意でない社員』が多い部署か、『忙しすぎて細かい資料なんぞ作っている暇は無い』部署のどちらかである。ちなみに経験上、後者のほうが待遇が楽である。理由は以下の通り。

パソコンは使えないが、パソコンで何が出来るかは知っている、言い方は悪いが頭でっかちの方が多いので、要求する仕事はハイレベルな割りに、与えられる時間が少ない、のである。
明らかに『今日中』は無理ですよと、殆ど叫びだしたいぐらいの面倒な作業を、『数時間で仕上げろ』と、さらりと言ってくる。『いや無理ですよ・・・』と呟くと、『じゃあ急いでやって!』と、いや違う、もう根本的に無理ですってば!という事で、実際どういう作業をしていくか?という事を細かく説明して納得してもらおうと思うと、そんな事は理解できないので、困惑顔で退けられてしまう。

おかげ様で、我ながら驚くほどの集中力で仕事を進める日々だった。おまけに、今の会社はなんとも『国営』的風合いの会社で、女性が残業したりするのは良い顔をされない。就業時間を過ぎると、女性は残業させないしないという雰囲気が充ち満ちるので、1時間も残っていると、非常に居住まいが悪くなるのだ。おまけに、上司に当たるおじさん達も、『帰って欲しいけど資料も欲しい』という困惑を見せ始めるので、もうなんとも、努力が結実しない歯痒さを感じてしまう。
しかし追い詰められて仕事をしていると、7時間という時間がなんと短い事か!時間の流れの速さに均一性は無いのかもしれない、アインシュタインはやはり正しいのだ!という思い。

そんなわけで、ここ暫くblogのネタ書きが出来なかった。私のこのblogは、余り大きな声では言えないが、90%は会社で書いている(笑)。根を詰めて仕事をし続けると、頭は痛いわ集中力は途切れるわ。そんな時、チョコチョコblogのネタを書いて『休憩』しているのだ。大体、1日で1本書けるか書けないかとういペースなので、まぁ、余りサボっているとは、、、責めないで(笑)。
この2週間は本当に会社では書く事が出来なくて、かと言って、夜はバイトもあるので余計に難しい。実は、会社で暇な時間や、疲れた時の休憩の為にネタ書きをしようと思い立ったのが、かつてHPを始めた要因だった。その後にHPは一旦辞めたものの、『会社での暇な時間と疲労を紛らわす』方策が他に思い至らなかったので、このblogを始めたのだ。
要するに、会社でネタ書きが出来ないなら、何かと忙しい家での時間を潰してまでは、恐らくネタは書かないだろうという事。言わばblog存続の危機だったわけである。潰れたとしても、よもや誰も気にしないとは思いつつ(笑)。

しかし、思わぬところで、私の心境に大きな変化が起こっていたようだ。僅か2週間ばかり、思う様文章が書けなかった事で、無性に『書きたい!』という衝動が湧き上がった。我ながらおかしくなってしまうが、『書かせろ!』というね、制圧された欲求があったの。
そんなわけで、この週末は文章を書きまくった。感想もひと段落する程は書けたし、とりあえずは満足だ。と言うかお腹一杯だ(笑)。また当分は、会社で暇な時間を見つけて数語ずつ書く日々で、この欲求は収まりそうだ。
しかしつくづく、何の足しにもならない文章を書く事に、それほどの情熱を見出す自分の愚かしさがおかしくも情けない。趣味=文章を書く事(注:作家でもライターでも素人エッセイストでもない)と言うのは、履歴書で通るだろうか?むしろ怪しくて、面接官に興味を持ってもらえるかも(笑)。

私の場合は、人一倍喋る性質なのだが、それでもまだ足りない!とばかりにこうして文章を書く。普段はバカな事ばかり言っているので、時たま真面目な事も書いたりする。こうして色々と書く事で、頭の中が整理されたり、ストレスを発散したりしているのだと、つくづく思い知った。
例えば文章なんて、誰にも読んで貰えなくても良いのかも知れない。読まれる文章もあれば、こうしてただ書かれる文章もある。その価値は、読む人によって決まる場合もあれば、書く人によって決まる場合もあるのだろうな。まさにこれ、『自分のための覚書』なのである。

『ピエロの赤い鼻』

2008年04月20日 13:05

〔仏〕EFFROYABLES JARDINS (2003年)
監督:ジャン・ベッケル
原作:ミシェル・カン
脚本:ジャン・ベッケル/ジャン・コスモ/ギョーム・ローラン
ジャック・ヴィルレ/アンドレ・デュソリエ/ティエリー・レルミット/ブノワ・マジメル/シュザンヌ・フロン/イザベル・カンディエ/ニナ=パロマ・ポーリー/ダミアン・ジュイユロ

長年小学校教師を続けてきたジャックは、やはり長年、ピエロになり続けてきた。そんな父を快く思わない息子リュシアンは、反抗的な態度ばかりとってきた。そんなリュシアンに、父の古くからの友人アンドレが語り始めた、父のピエロが生まれた経緯。20年ほど前の戦時中、2人のマドンナであるマリーに良い所を見せようと、レジスタンス活動の真似事をやってみせるジャックとアンドレ。それが思わぬ大事に発展し、彼等は他2名の若者と一緒にドイツ軍に捕らえられてしまう。処刑の危機に晒された時、彼等は1つの大きな出会いを経験したのだった。

そうねぇ、これはどうなんでしょ?観終わった時は、単純に良い映画だったなぁ〜と思ったのだが、実はその時も、『そう思い込もうとしていた』節がある。言わんとしている事も解るし、ある程度主題もぶれていないので伝わり易いとは思う。
ただねぇ?例えば主役ジャックとアンドレの安易さや軽率さとか、彼等に突きつけられた現実の、不必要とも思えるほどの冷酷さとか、なんというか、失礼だがフランスらしい。こういう映画は、イタリアやスペイン辺りが作ったら、もっと上手く処理してくれたように思う。
ジャックとアンドレの考えや行動と、彼等に覆い被さる現実の冷酷さのバランスが悪すぎるのよ。それだからこそ『戦争』なんだ!と声高に主張されたとしても、映画としては上手くないと思う。軽い気持ちで『レジスタンス活動』をしてしまった『良い大人2人』。先ずそこからして、余りの安直さに唖然ではあるのだが、それはまぁ、何とか自分の中で消化したとしよう。
それに続く事態の暗転、余りにも大きくなってしまう悲劇的側面に対して、ジャックとアンドレは全く付いていけていないの。最初の安直な思考そのままなんだね。で、それがラストまで続く。
ジャックが極限の苦痛や不幸の中で、『笑い』がいかに大切かに気付かされた、それを教えてくれたある人の存在、希望を持つ事の大切さだとか、美しい部分は良く解るのだが、それはもう、脳内で理屈と正論を無意識に構築した結果というかね。
そうした事柄を悟る上で成された悲劇というのが、見合わないほど大きいの。この呑気な男2人に対して与えられる幸運、その基盤としての悲劇とするなら、その格差が大き過ぎる、やはりどうしても、感じる都合良さが処理できない。ジャックとアンドレの描き出し、必然として生まれるレジスタンス活動の流れ、この辺りが上手く描ききれていなかったのが原因かな?ラストの展開においても、彼等の楽天ぶりは健在で、あれほどの苦悩を経験したのに反省も余り感じられなかったし。そんな呑気な彼等の姿から、彼等を救った悲劇の必然性を感じる事が出来なかった。
それでも紋切り型な美談を脳内で構築する事は可能で、無意識にそうしてしまっていたのね。この話の裏では、もっと堅実な何かがあるはずと信じて。原作読まなくちゃ、なりませんかねぇ。
後ね、20年前の事柄を語るのに、現在と同じ役者、しかも明らかに良いお年の2人を起用するのは如何なものかと?20年の時の流れが全く感じられない。これはちょっと痛かったなぁ。厳密に考えるなら15年そこそこかな?パリ開放の直前まで描かれてるはずだからね。それにしたって、微妙さは隠せない。なれた良い役者を使いたいのは解るが、あの2人に恋だなんだと無邪気に騒がれても、、、、微妙なんである。
観終わった直後は良い映画だったなぁ〜と思ったものの、心のモヤモヤを整理したら意見も反転。作りが悪いよね、原作そのものに要因は無いと思われる。父と息子の関係も片手間に描かれていた感もあり、勿体無いなぁと思わざるを得ないかな。似たような題材ならば、『ライフ・イズ・ビューティフル』かな。こちらの方が、作品としてはよほど秀逸だったと思われる。

ピエロの赤い鼻ピエロの赤い鼻
(2006/04/28)
ジャック・ヴィユレ、アンドレ・デュソリエ 他

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ぽすれん『ピエロの赤い鼻』紹介

『シーオグの祈り』

2008年04月20日 02:48

ジェイムズ・ヘネガン著/佐々木 信雄 訳/ランダムハウス講談社
もう直ぐ14歳になる孤児のトム・マレンは、学校近くの工事現場に忍び込み、大きな穴の中に落ちてしまう。そして落ち着いた先は、トムの住むリヴァプールから遠く離れた、アイルランドの荒涼とした島だった。そこで出会ったモナガン一家、次男タリーは何故かトムにそっくりで、その妹ハナは純真で愛らしかった。時は19世紀、ジャガイモ飢饉の真っ只中。現代に帰る術を知らないトムだったが、里親を転々とした彼にとっては、初めて知る家族の温かみだったのだ。果たして、トムが19世紀のアイルランドに来た事にいかなる意味があるのか?過酷な状況を必死に生き抜くモナガン一家と行動を共にするトムは、厳しさの中で頼れる愛情を見出していく。

どんだけ感動させれば・・・もうホントに、電車の中で何度泣きそうになった事か。『リヴァプールの空』で感動を呼んだという触れ込みの、ああ、私にも大きな感動を呼びまくった作者の、どっぷりアイルランドに絡んだ待望の翻訳新作だ。ランダムハウス講談社さんありがとう!と、出版社にすらお礼を言いたい気分。図書館から借りたのだが、『本泥棒』に続いて、『返したくない〜』と1人勝手に駄々をこねた作品となった。
もうね、良いたい事は山程ある。でも何から書いたら良いのか解らない。脳内で渦巻いちゃってる。全く整理が着かないけど、そのままの状態で私は十分満足なのだ。感想放棄(笑)。
とにかくこの作者、胸に響く良い文章を書く。派手でも大袈裟でもないけど、堅実で心のこもった文章なのだ。だからこそ、青少年向け作品であっても、大人も十分に楽しめるクオリティを保っている。それに、少年の瑞々しい強がりや傷つき易さなどが実に自然に描かれているので、大人としては新鮮な気持ちで読めるし、同年代の子供達でも、素直に受け止める事ができるだろう。
『リヴァプールの空』もそうだったし、翻訳されていないこの他の作品の概要を見てみても、比較的史実にある出来事を題材にして描いてるようだ。本作は、実際にリヴァプールであった大量の柩発掘に関する事件を元に、家族を知らず、孤独の中で生きて来た少年が、過酷な状況でも共に過ごしたいと切望する、『家族』という存在を見出す物語に仕上げていく。勿論、名も無く、記録もされず、発掘されては全て焼却されてしまったという多くの柩に込められた物語を、著者なりの解釈で感動的に組み込んでいる。非常に教訓的でもあり勤勉な内容でもあるのだが、物語の面白さから、その堅苦しさは一切感じられない。
感動的に素晴らしい、素朴さが愛おしい、子供達のひたむきさが苦しくも逞しい。アイルランド国内において、余りにも大勢の人々の命を奪ったジャガイモ飢饉。その話は何度も触れたことがあるし、この作品の悲惨さが全てとも真実無二とも思わないが、事実を伝える一助であり、この出来事を、悲惨さを、衝撃を伝える秀逸な作品でもある。そして、過酷な状況において、人は何を求めるのか、何において、生きる希望を見出すのか。その時人は、いかに強くあれるのか?こうした事も、大袈裟にならず、制御の効いた丁寧な筆致で描かれているのが好ましい。
さて、ラストにおいて、実はちょっと困った部分がある。余りにも話が上手すぎるのだ。ちょっと子供騙しに過ぎる。最初は随分戸惑ったが、上手すぎたとしても、満足の行く結末ではあるのだ。満足も満足なのだが、やはりちょっとね、簡単すぎる。
そこでちょっと考えたのだが、物語の中ほどに、この結末の楽観主義を緩和してくれる記述があった事に思い至ったのだ。だから良いのだ、モナガン一家の為に奔走したトムだからこそ、最後に自分の願いが叶う。彼が過去へと旅立ったのは、このスムーズなラストの展開への布石だったのだろうと。そう思ったら全てがスッキリしたのだ。ただ単純に、満足だけが残った。
のだが!?やはりこの都合の良すぎるラストに関しては、各所で批判が相次いだらしく、アメリカで出版された別版では、ラストが書き換えられて章立てまで変わっているという。変える必要は無いとは思いながらも、別のラスト、、、それはそれで読んでみたい。間違いなく悲壮な色は濃くなっているだろうが、感動の度合いも高くなっているような気がする。思わず、海外書店の購入ボタンを押しそうになった(笑)。
この著者、他の作品の多くでも賞を受賞する、実力は折り紙付きの作家だ。より多くの作品が日本でも翻訳される事を心より願って、久々に、閉じたく無くなる作品を楽しめた事に感謝したい。

シーオグの祈りシーオグの祈り
(2007/11/30)
ジェイムズ ヘネガン

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『最後の恋のはじめ方』

2008年04月19日 23:16

〔米〕HITCH (2005年)
監督:アンディ・テナント
脚本:ケヴィン・ビッシュ
ウィル・スミス/エヴァ・メンデス/ケヴィン・ジェームズ/アンバー・ヴァレッタ/ジュリー・アン・エメリー/マイケル・ラパポート/アダム・アーキン/ケヴィン・サスマン/ジェフリー・ドノヴァン/ロビン・リー/ポーラ・パットン/マット・マロイ/デヴィッド・ワイク

デート・コンサルタントのアレックス・ヒッチは、恋に悩む男達に独自倫理を伝授して幾つもの恋を助けてきた。そんな彼に、最大の難関が舞い込む。余りにも冴えない会計士アルバートが、自信の顧客でもある億万長者で噂のセレブ、アレグラの気持ちを射止めたいという。その契約と同じ頃、ゴシップ誌の記者サラと知り合ったヒッチ。しかしサラが、アレグラに突然浮上した新しい恋の相手アルバートに興味を持ち始めた事から、ヒッチは彼女に大きな秘密を抱える事になる。

正直言って、大した物語でも無い。とりわけ主役ヒッチとサラの恋模様がいまいち釈然としない。恋の達人であるはずのヒッチだが、その過去を描いた部分からは、たった一度の恋に破れたがために、倫理的に恋愛を追及したというニュアンスが感じられる。その時の傷を今もまだ引きずっているというなら、彼の『恋の実践』はかなり経験値が低いはずだ。
まぁそれは置いておくとしても、『男よりキャリア』と虚勢を張っているサラが、余りにもあっさりヒッチに落ちるのも納得が行かない。恋の始まりがあっさり過ぎるので、その後のサラの行動や考えの変化が陳腐に見えてしまって、なんだか釈然としない。この2人の恋愛模様を、どう見せたいのかかハッキリしていないように思うのだ。反してアルバートとアレグラの恋は、ポイントはハッキリしているものの、余りにもステレオタイプで添え物的。
なのだけど〜、役者が良いとこうも違うのかと(笑)。単純だろうか?いえ、良いのです、だってそう感じたんだも〜ん!主演のW・スミスは勿論、冴えない男アルバートを演じたK・ジェームズ、サラ役のE・メンデス、アレグラ役のA・ヴァレッタなど等、青春ロマンス、20代のロマ・コメには無い、30代の大人の恋、しかもちょっとキュートでなんだか不器用な姿を、割かし爽やかに、そして何となくスタイリッシュに見せてくれるのだ。スタイリッシュというより、スマートなのかな?恋する姿は不器用だけど、全体のフォルムがスマートに感じるのね、私みたいなドン臭い奴には、『さすがN.Y!』と惚れ惚れしちゃうようなね(笑)。
全体としては、2つの毛色の違うような、それでいてどこか似通った恋の行方を平行して描き、アレグラを追うサラという形で交錯させて融合させていく、テンポも良くて飽きずに楽しめた。ラストはちょっとチンケだったけど、役者の力で何とか持ち堪えた・・・という感じね。なんだか、悪く言ってるのか良く言っているのか解らない感想だが(笑)、総体的には面白かった!という事で。

最後の恋のはじめ方最後の恋のはじめ方
(2007/07/25)
ウィル・スミス.エヴァ、エヴァ・メンデス 他

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ぽすれん『最後の恋のはじめ方』紹介

『猟人日記』

2008年04月19日 20:29

〔英〕YOUNG ADAM (2003年)
監督:デヴィッド・マッケンジー
原作:アレグザンダー・トロッキ
脚本:デヴィッド・マッケンジー
ユアン・マクレガー/ティルダ・スウィントン/ピーター・ミュラン/エミリー・モーティマー/ジャック・マケルホーン/テレーズ・ブラッドリー/ユアン・スチュワート/スチュワート・マッカリー

1940年代のグラスゴー、平底荷船の雑役人ジョー・テイラーは、海辺で女性の溺死体を引き上げる。船首レズリーは、殺人事件かも知れないと色めき立つ。そんなレズリーの目を盗んで、その妻エラを誘惑するジョー。彼が時折思い出すのは、以前の恋人キャシーとの日々だった。そしてその思い出は、ある秘密へと繋がっていく。一方、水死体の女性に対する容疑者が逮捕された。極刑は確実と思われた容疑者だが、ただ1人、ジョーだけが彼の潔白を知っていた。

イギリスを代表する『ビートニク作家』アレグザンダー・トロッキが原作者だそうだ。『ビートニク』・・・取り付きにくい言葉だ。私が文字通り若い頃、ビートニク作家熱が再燃した事があった。芸能人の誰だかが『ポケットにケルアックを入れて、気ままに旅に出る』だとか言っちゃって、そんな謳い文句も手伝って、俄かにその線の作家の作品が書店に並んだ。あたかも『ベストセラー』小説のようにね。あの頃は私も若かった・・・、そんな気ままさや奔放さ、その裏にある傷つき易さや孤独感なんかがね、やたらと格好良く見えたものだが、実際読んでみると・・・受け入れ難い。
あの頃から、『自分の恵まれた環境にブツブツと反抗し、あえて不幸を呼び込み、その癖その状況が辛いとか泣き言を言ってみたりして、見えない何かを追い求め、それでいて手に入れられそうだと拒絶して、不幸比べをしては悦に入る、そんな薄幸症候群の一団』という妙なビートニク論理が私の中に確立され始めた。間違えていようが何だろうが、とにかく私にはそう思える。
恵まれてるくせに何をウダウダ深刻ぶってるのかねぇ?と。ちなみに、『ライ麦畑でつかまえて』を含む全てのサリンジャー作品なんかも、はっきり言って苦手。ついでに『ボヴァリー夫人』なんてもう、うざい女以外の何者でもない。『チャタレイ夫人の恋人』ギリギリ許容範囲(笑)。
とまぁ、なんでまた、こんな愚にも付かない私のビートニク論理なんかをつらつら書いているかというと、この映画に対する大した感想が無いからで(笑)。主人公ジョーに対して『なんだこいつ!?』という呆れた感情と、『マイ・ネーム・イズ・ジョー』では『ジョー』役だったP・ミュランが、あの声あの訛りで、E・マクレガーに向かって『ジョー』と繰り返すのが面白かったぐらいで(笑)。
主人公ジョーのように、自分中心で自分だけが幸せで、関わる人々をあれほど不幸に貶められる存在も珍しい。そのくせやたらと深刻ぶっちゃって、そのくせ腰抜け振りは天下一品。それなのにずーずーしさと自己愛も最上級で、弱いものにだけ強気なあの姿勢・・・、一体何様なんだ!?というね。人間として全く生産性が感じられない、行動や日々に目的意識も見られない。いや〜、お近づきになりたくないタイプだわ〜、絶対イヤだわ〜。
先の感想をお読みになられた方なら、なんでまたこの映画を観たのか?というのはお察し付くと思いますが、そう、E・マクレガーが観たかっただけなのだ!!!しかも貴重な、祖国スコットランド訛りを全開で話すユアン・・・。ホフ♪素敵だったわ。とりあえず1つは満足を得られて良かった。共演者も中々の演技派揃いだったのに、いや・・・意味があるのでしょう、こういう作品が好きな方には。個人的には、全くもって受け入れられないというだけだから・・・。

猟人日記猟人日記
(2007/06/01)
ユアン・マクレガー、ティルダ・スウィントン 他

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ぽすれん『猟人日記』紹介