2008年05月11日 22:12
ここ最近、今年の目標にも定めた『日本語教師』になるための勉強をしている。
これまでもボチボチ独学でやってきたものの、遂に己の無学さと広範囲な出題範囲に匙を投げ、10万円近くする教材を買ってしまったのだ。
お金がかかっているから、、、という安直な感情では無しに、今の私には別の動機が、それも強い動機があるので頑張る事が出来る。先ず何より、たとえ検定レベルであろうとも、日本語教師になれる基準を手に入れたいのだ。たとえ高卒という低学歴がネックになろうとも、働く場所は確実にあると信じて、今はやるしか無い。リアルな現実を、ウダウダ悩んでいる余裕は無いのだ。
強い動機というのは、母のこと。40歳で私を産んだ母は、正直、高齢になってしまった。減る事の無い心労のせいか、最近母の体調が悪い。こういう現実を目前にすると、長年考えないようにしてきた『肉親の死』というのを、嫌でも考えてしまう。
母の心労の大半は、お金の事だ。自営業でやってきて、残念ながら生活するのがやっと言う状況だった。今も多大な借金を抱え、年金は夫婦合わせて10万程度。生活するのもやっとな状況なのに、身体は言う事を利かなくなる年齢でもあり、普通なら、旦那の定年退職金やらなんやらで、何不自由なく暮らしていてもおかしくない年齢だ。
勿論子供たちだって立派に自立し、金銭面で援助が出来て当たり前のはずなのに、私達子供は・・・、未だに『子供である』という基準から抜け出せないでいる。派遣を続けて、その日暮しのまま、貯金だって、自分が生きるので精一杯という有様だ。
金銭的援助も当たり前なのだが、親にとっての満足感や幸福というのは、子供が親を乗り越えて、立派な人生を歩む事なのじゃないだろうか?立派でなくとも、世間に恥じない、まともな人生を歩むこと。それは勿論『大人』として歩むことだ。
そう考えると、私は一体今まで何をやってきたのだろうと、痛烈に自分を非難する事しか出来ない。仕事は派遣だし、学歴も無い。この先の人生も、余り発展性があるとは言えない。確かに、自分の生活を削って親を援助する事はできるだろうが、それでは何かが違うような気がした。
世間に顔向けできるような、地に足の着いた仕事を得る。それが何より重要だと思えるのだ。ただ働くと言うのではなく、自分を証明できるような仕事をしたい。そうなって初めて、私は母に『立派な大人になった』事と、この先の安心を差し出す事ができるのだ。
『日本語教師』として、例え非常勤のアルバイトとして教壇に立とうとも、今現在のように、『単なる派遣』でいるより数倍マシだ。母はきっと、安心して私を誇りに思ってくれるだろう、これでようやく、『大人』になった私を見る事ができるだろう。
親と子供の関係は複雑だ。親は幾つになっても子供を心配し、親である事実を守り続ける。子供にしても、親は親であり、精神的に上位に立つことは無いだろう。それでもきっと親は、子供達の生活や人生の安定が、自分達より上位に立つことを望むだろう。それこそが、親が後世に残せる足跡であり、自分たちが消え行く運命だとしても、安心して旅立てる証になるだろうから。
私はこのままでは、母を安心して送り出す事が出来ない。こんな子供のままでは、母を送る事など到底できないのだ。母が母として生きたこの年月を、それでは無駄にしてしまう。私は今の自分を満足だとは思っていないし、世間に顔向けできるとも思っていないのだから。
資格を得、母が誰かに自慢できる仕事に就く。教職が自慢の範疇だと言うのではなくて、これもやはり、『単なる派遣』から、説明できる仕事に就く事が重要なのだ。それに、将来への安心感も増す。母は以前友人に言われたそうだ、『死んでまで子供の心配は出来ないのよ』と。
私は母に、死んでまで持ち込む心配の種を与えている。子供は常にそういう対象ではあるが、年齢だけでも『大人』になったなら、その生活も、実態も、『大人たらん』とするべきで、大人であると言う事は、親に心配をかけない事も含まれる。
これまでは、金銭的援助が何より大切だと思ってきた。でも今は、『お金で解決できない』問題があると言う事を実感している。普通の人が当たり前に与えられる『堅実な人生』を、私は何故上手く差し出す事が出来ないのか?時折そう感じると、無性に自分が嫌になる。
母は今とても、私の夢を応援してくれている。果たして、私に与えられた時間は後どれほどあるのだろうか?たとえどれほど少なくても、思ったよりも多くても、早いに越した事は無い。母が満足して私を見る時間が、その分増える事になるのだから。
だから、必死に勉強する。私が得るのは、単に日本語教師への可能性だけではなくて、母へのプレゼントでもある。お金では決して買えない、母として彼女が生きた、証でもあるのだ。そしてその思いが、今の私の一番大きな原動力になっている。さぁ、勉強だ!
これまでもボチボチ独学でやってきたものの、遂に己の無学さと広範囲な出題範囲に匙を投げ、10万円近くする教材を買ってしまったのだ。
お金がかかっているから、、、という安直な感情では無しに、今の私には別の動機が、それも強い動機があるので頑張る事が出来る。先ず何より、たとえ検定レベルであろうとも、日本語教師になれる基準を手に入れたいのだ。たとえ高卒という低学歴がネックになろうとも、働く場所は確実にあると信じて、今はやるしか無い。リアルな現実を、ウダウダ悩んでいる余裕は無いのだ。
強い動機というのは、母のこと。40歳で私を産んだ母は、正直、高齢になってしまった。減る事の無い心労のせいか、最近母の体調が悪い。こういう現実を目前にすると、長年考えないようにしてきた『肉親の死』というのを、嫌でも考えてしまう。
母の心労の大半は、お金の事だ。自営業でやってきて、残念ながら生活するのがやっと言う状況だった。今も多大な借金を抱え、年金は夫婦合わせて10万程度。生活するのもやっとな状況なのに、身体は言う事を利かなくなる年齢でもあり、普通なら、旦那の定年退職金やらなんやらで、何不自由なく暮らしていてもおかしくない年齢だ。
勿論子供たちだって立派に自立し、金銭面で援助が出来て当たり前のはずなのに、私達子供は・・・、未だに『子供である』という基準から抜け出せないでいる。派遣を続けて、その日暮しのまま、貯金だって、自分が生きるので精一杯という有様だ。
金銭的援助も当たり前なのだが、親にとっての満足感や幸福というのは、子供が親を乗り越えて、立派な人生を歩む事なのじゃないだろうか?立派でなくとも、世間に恥じない、まともな人生を歩むこと。それは勿論『大人』として歩むことだ。
そう考えると、私は一体今まで何をやってきたのだろうと、痛烈に自分を非難する事しか出来ない。仕事は派遣だし、学歴も無い。この先の人生も、余り発展性があるとは言えない。確かに、自分の生活を削って親を援助する事はできるだろうが、それでは何かが違うような気がした。
世間に顔向けできるような、地に足の着いた仕事を得る。それが何より重要だと思えるのだ。ただ働くと言うのではなく、自分を証明できるような仕事をしたい。そうなって初めて、私は母に『立派な大人になった』事と、この先の安心を差し出す事ができるのだ。
『日本語教師』として、例え非常勤のアルバイトとして教壇に立とうとも、今現在のように、『単なる派遣』でいるより数倍マシだ。母はきっと、安心して私を誇りに思ってくれるだろう、これでようやく、『大人』になった私を見る事ができるだろう。
親と子供の関係は複雑だ。親は幾つになっても子供を心配し、親である事実を守り続ける。子供にしても、親は親であり、精神的に上位に立つことは無いだろう。それでもきっと親は、子供達の生活や人生の安定が、自分達より上位に立つことを望むだろう。それこそが、親が後世に残せる足跡であり、自分たちが消え行く運命だとしても、安心して旅立てる証になるだろうから。
私はこのままでは、母を安心して送り出す事が出来ない。こんな子供のままでは、母を送る事など到底できないのだ。母が母として生きたこの年月を、それでは無駄にしてしまう。私は今の自分を満足だとは思っていないし、世間に顔向けできるとも思っていないのだから。
資格を得、母が誰かに自慢できる仕事に就く。教職が自慢の範疇だと言うのではなくて、これもやはり、『単なる派遣』から、説明できる仕事に就く事が重要なのだ。それに、将来への安心感も増す。母は以前友人に言われたそうだ、『死んでまで子供の心配は出来ないのよ』と。
私は母に、死んでまで持ち込む心配の種を与えている。子供は常にそういう対象ではあるが、年齢だけでも『大人』になったなら、その生活も、実態も、『大人たらん』とするべきで、大人であると言う事は、親に心配をかけない事も含まれる。
これまでは、金銭的援助が何より大切だと思ってきた。でも今は、『お金で解決できない』問題があると言う事を実感している。普通の人が当たり前に与えられる『堅実な人生』を、私は何故上手く差し出す事が出来ないのか?時折そう感じると、無性に自分が嫌になる。
母は今とても、私の夢を応援してくれている。果たして、私に与えられた時間は後どれほどあるのだろうか?たとえどれほど少なくても、思ったよりも多くても、早いに越した事は無い。母が満足して私を見る時間が、その分増える事になるのだから。
だから、必死に勉強する。私が得るのは、単に日本語教師への可能性だけではなくて、母へのプレゼントでもある。お金では決して買えない、母として彼女が生きた、証でもあるのだ。そしてその思いが、今の私の一番大きな原動力になっている。さぁ、勉強だ!















最近のコメント