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桜の季節
- 2008/03/29(土) 11:16:26
桜が満開の季節を迎えた。やはり日本の桜は良い。
以前スペインのマドリッドで桜を見た。意外にも街中のあちらこちらに桜並木があったのだが、咲かせ方が日本とは全然違った。3月の半ば頃であったがほぼ8分咲き、それなのに『剪定』をしてしまっているのだ。こちらも町中あちらこちらで、桜の木を剪定している姿を見かけた。下から容赦なく枝を切り捨て、上の方にポコっと膨らむように花の付いた枝を残すという感じ。
枝ぶりもなんだかスカスカで、日本の様に四方に限りなく伸びよといった豪快さも無く、空が見えない程密に咲き誇る桜の、微妙なピンクや白のコントラストも無い。
イタリアでも桜の木を見かけたが、こちらは街中の一角に『桜の木畑』のようなものがあり、四角い区画の中に整然と桜が並んでいる。やはり枝は剪定されているのか寂しげな枝ぶりで、無節操な中に整然とした美しさを感じられる日本の桜とは、これまた全く違った趣だったのだ。
今の会社の近くにも、短いながらも桜並木がある。昨日の時点でほぼ9分咲き。近日中には満開になる事だろう。
私は桜が『咲き誇る』という姿が好きだ。一見無造作の様に見えて、自然の摂理が手伝って美しく重なるようにしてお互いを邪魔せず、空に花の絨毯のように広がる様が好きだ。日本の庭師の方々の、永年培われたセンスも素晴らしいと思う。漠然としたようで決められた方式があるのだろう、無駄なく剪定された桜の木の枝ぶりは、まさに自然と人知が融合した美しさとも思える、ちょっとオーバーか(笑)。
そうした桜の姿を見ていると、純粋に美しいという感動で胸が塞がれると共に、一抹の悲哀が紛れ込む。私にとって桜の美とは、幾分の寂しさを含有したものであるのだ。
理由は簡単、桜とは3月末から4月冒頭にかけて咲き、その時期日本では、出会いと『別れ』の季節があるからだ。私にとっては『別れ』の印象が強いのだが、『新学期』に向けるワクワクする期待感と共に、新しい生活に対する恐れや不安なども強かったのが原因だろう。
それと、桜の花の刹那的な美しさ。桜の花の寿命は、驚くほどに短い。美しいが故に短いのか、短いが故に美しいと思うのか。その命の短さ、美しさの儚さが、今この瞬間の儚さと繋がって、自らが持っている時間の貴重さ、短命さなどを思い知らされるような気がして、漠然と悲しさを覚えてしまう。
余談だが、それゆえに私は森山直太朗の『さくら』が好きだ。あの曲の歌詞がたまらなく好きなのだ。友人たちの別れと未来に対する希望を、桜の花の短命さとかけて書かれたあの歌詞は、桜の持つある種の特性を存分に生かした美しい詩だと思う。使われる言葉もまた、日本語の美しさを感じられる稀有な作品だ
実は私は、自分のこの感情が結構好きである。桜の花の圧倒するような美しさの中に立ち、感動の中に漠然とした悲しさを感じる。この複雑な感情が好きなのである。かなりのナルシストというかヒロイック的な感情なのだろうが、圧倒的な美に対する純粋な思いが充満し、自分では制御しきれない、一種複雑な感情に満たされる瞬間だからだ。おいそれと体感できるものではないと思っている。
桜の花を見るといつも思う。私がこれまで経験した幾つもの別れ。それと同時に、これまで体験してきた幾つもの希望。別れと背中合わせの新しい生活、自分の力を試すということ、自らを信じるということ、挑戦するという期待感を思い出す。
全く情けない話かも知れないが、この一年を振り返り、成さなかったことが痛切なまでにこみ上げる。それでも努力した事を思い、漠然とではあるがこれからの一年に思いを馳せる。私にとって桜の花とは、やはり『新学期』の象徴でもあり、新たな決意を固めさせてくれる。それにあの可愛らしいピンク色の花々、何かが出来ると素直に信じられるような、気持ちが浮き立つ眺めではないか。
その美しさを自分の希望に換えて、今年もまた、美しい桜が空一面に咲き誇る、短いが素晴らしい季節がやってきて、そしてまた過ぎ去ろうとしている。
ジャンル:
- 日記
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