『遺失物管理所』

  • 2008/04/23(水) 20:34:30

ジークフリート・レンツ著/松永 美穂 訳/新潮クレスト・ブックス
北ドイツの大きな駅、その一角に、そのもの自体が忘れられたような『遺失物管理所』がある。本人の意志も手伝って、新しくそこに配属された24歳のヘンリー・ネフ。お坊ちゃま育ちの彼だったが、本人に出世の気負いは一切無かった。余りにも多くの人が奇妙な物を忘れ、しかもその時の詳細も忘れ、それでも必死になって探し回る事か。ヘンリーにとっては驚きと楽しみの詰まった日々の業務は、職場の同僚を始め、様々な人達との出会いの毎日だった。


著者ジークフリート・レンツという方、かなり著名な作家らしいが私は初見。この作品を読んで無性に他の作品を読みたくなったので調べてみたが、どうやら本作が特に、コミカルで読みやすく、人間味溢れる穏やかな印象の作品、という事らしい。どうかな?だとしたらどうかな?
まず主人公ヘンリーが良い。飄々としていて霞のようで、上昇志向は無いが自分が居たい位置や、望む価値観などはちゃんと理解している。一見するとぐうたらなように見えるが、そこにはそれなりの信念があるのだ。自己犠牲の精神もあるし、その痛みを理解する事も出来る。
それに、なんとも人を見る目が優しい青年だ。人の欠点を露見する事はせず、常に於いてその人の良い面を探ろうとする。感動に対して及び腰ではなく、ふとしたところから温かみを見出せるし、心から悲哀を感じたり同調したり出来、物事の良さや本質を受け止められる人だ。きっと、この著者の人柄が染み込んでいるのだろう。こうした事柄が、それとなく描かれているのが良い。
ぐうたらで掴み所の無い、曰く少年のような男ではあるが、正義を追求する姿勢は人一倍強い。もしかしたら、これまで安寧に暮らしてきて、初めて触れた『人を心の底から傷つける暴力』に戸惑い、持ち前の正義感がようやく目覚めただけだったのかも知れないが。それに、暴力に暴力で征しようとしない姿勢は、作者が伝えたい、何だかのメッセージもあるような気がする。
それでも、やるときゃやる(笑)。敢然と暴力にぶつかったヘンリーが見せた姿は、単に暴行を犯すのではなく、痛みや苦しみの中で『立ち向かう』という高潔な姿勢を見せてくれた。べた褒めでお恥ずかしいのだが、理想の男性像に近かったので、つい(笑)。
さてそんなヘンリーが、会社の吹き溜のような部署にやってくる。ある程度は本人の希望なのでヘンリーには異存」はないが、同僚にしてみれば、諦め半分といった部署なのだ。どうでも良い部署ではあるが、それでもやはり、無くてはならない部署。そんな部署の見方を、ヘンリーは徐々に変えていく。彼にとっては、無限のおもちゃ箱のような世界。品物も面白ければ、それを取りに来る人間も、飽くなき興味を提供してくれるのだ。
そうした、最悪を最高に転じる物事の見方を、巧みな演出で作者は語ってくれる。陰鬱な場所に思える『遺失物管理所』から始まり、そこにヘンリーが一陣の風を吹き入れる事で、読者諸君の『見る目』を鮮やかに変えてから、物語は更なる展開へと進むのだ。憎い演出ね(笑)。
ヘンリーが出会ったバシュキール人のラグーティン教授。この2人には、楽観的で幸福感のある人間として共通点があるのだが、より厳しい環境で生まれたラグーティン教授は、やはり少し内に秘めたものが多い存在だ。これは、ヘンリーがこれから学ぼうとする『人生』を、そのまま体言させたものだったのかも知れない。最後まで、ラグーティンは高潔で温かい印象を残している。例え、如何なる傷を心に秘めていようとも。
とにかくね、巨匠の描く人生。御歳80になんなんとする著者が描いた『人生』ですよ。その明るい側面や幸せな部分、反面鋭利な傷や痛みも、幸せな見方に変えさせようとするやんわりとした指南を感じる。現ポーランド領出身と聞くだけで、そんな著者の秘められた切れ味を想像できる。本作は、そんな刃をそっと鉾に収めた、温かい仕上がりの作品だったと思う。ただし、しっかり有るべき切り口は存在していて、そうした事柄も見過ごさずに読んで頂きたい。
余りに人間臭い人々、沢山の悩み苦しみ、閉塞感を抱えていながらも、楽しい側面を見続けようと努力する。人生は苦しい事も多いけど、当たり前に楽しい事もあるのだということを、こうした人間臭いキャラクターがそれとなく伝えてくれる。そしてヘンリー、およそ高いとは言い難い彼の理想だが、多くの奇妙な忘れ物に囲まれて、その裏には無数の『人生』が隠されている事を知るのだろう。そして堅実さという、これもやはり人生では欠かせない要素の1つである事柄を学んだ、という結末だったのかもれない。

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(2005/01/26)
ジークフリート・レンツ

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