勉強じゃない勉強

  • 2008/04/26(土) 23:24:16

今私は、自分で決めた事ながら、勉強をしなくてはならない身の上だ。
とは言え、そもそも脳の皺が人よりは少ないと自負しているし、ポアロやジーヴスが『灰色の脳細胞』ならば、さながら私のは、灰色の対極にありそうな『ショッキングピンク』、とでも言い切れるのじゃないか?と、常々思っている。

簡単に言っちゃうと、勉強が大嫌いなのだ。

勉強に関する事柄が嫌いなのじゃなくて、勉強と言う概念が嫌いなの。簡略すると、興味対象に勉強という概念が忍び込む事によって、何もかも全てが色褪せてしまうという事だ。例えば、中世ヨーロッパの歴史的小説は大好きだが、学校の歴史の授業は大嫌い!という違い。
日本語教師の勉強も、まず自分が明後日の方向に向かっていた事を知り、更には徐々に勉強の色が濃くなって来た辺りから、やる気が・・・。埒が明かないので、通信教育を始めようと思ったが、まさに『お勉強世界』に踏み出す気構えと、単に金銭不足から二の足を踏んでいる。

とか何とか言いつつ、実は私、今無性に『大学』に通いたい。大学なんざ勉強の総本山じゃないか!と思われる向きもあるやも知れないが、今の私にとっては、単に知識の宝庫という見方でしかない。美術館、図書館、大学、これ全部並列(笑)。高校はもう行ったし、次は大学(笑)。
そんな話を母にしていたら、『あんたって、何でもかんでも遅いのよ』と言われた。更に『本当は大学に行って欲しかったのよ、でもどうせ、言ったって聞きやしないんだから』と。お母さん?それはちょっとおかしくないですか?私が高校の頃は既に両親とは一緒に暮らしておらず、進路の事など、まともに話した事は無い。勉強しろの何のと口うるさい親では無かった代わりに、娘の日々の実態すら知らない親だったのだ。それなのに、何を今更?

我が家の親子関係は、平均レベルを遥かに超えて良好だと言える。子供の頃から一緒に暮らしていなかったのが要因かも知れないが、親というより、友達のように会話をする。当然、会話の内容も友達と同等レベルだ、恋の話だってしちゃうのだ。これが、良くもあり悪くもある。
親子らしい会話が少なかったせいか、話題は豊富なれど、悩みや心配事などを打ち明ける事は滅多に無く、子供の頃から、『己の判断』を押し通す癖が身についてしまったのだ。これも、良くもあり悪くもありだ。人の提案よりも、自分の判断を尊重してしまう。
不必要な心配をしない分、むしろ友達の方が素直に悩みを打ち明けられる場合もある。母は心配だけはとにかくする、それこそ身体を壊すほど心配はするが、打開策は何一つ提示してはくれないのだ。で最悪なのが、何とかして欲しい訳ではなくて、時に同情したり励ましたり、何かしらの意見が欲しかったり、その人なりの打開策でも提案してくれればそれで良いのだが、母はなぜか『自分が解決しなくては!』と思うらしい。まぁこれも、親だから・・・と言う事なのだろうが。
しかし彼女は、端的に『金』で解決しようとするから、その『金』を持っていない事に逆切れするのだ。『貧乏で悪かったわね、援助してあげられなくて悪かったわね!』という切れぶりだ(笑)。違うんだけどね、問題の根本は金じゃないのよお母さん。しかし彼女の考えからすると、いかに多くの『悩み事』が金と直結しているかと、今更ながらに資本主義の恐ろしさを実感する。

そんな訳で、進路に関しては親の意見は一切無く、まして親から『大学』を強要された事は無かった。そこでふと、『私には若い頃、道理を教えてくれる人がいなかったからねぇ』と言ったらば、『あんたはどうせ、親の言う事なんて聞かないから、言ったって無駄だったのよ』と言下に断定された。確かにそうだが、お待ちになってお母様。
誰だって自己愛と自己顕示欲の塊になる10代のバカ者に、道理を一辺倒解いただけで、簡単に理解されるはずもなかろうが?そこは親らしく堂々と、理屈理屈、畳み掛けるように一般論に次ぐ一般論で、無邪気かつ面倒な10代の自我をバッサバッサと打ち崩してくれなくちゃぁ・・・。
他人任せは嫌いだが・・・、いやいや、今にして思えば、何も10代から自分の人生に責任なんて、持てなくたって良いのじゃないだろうか?と、時に自分を甘やかしてみたくなる(笑)。
いずれにしろ、大学という進路を選択しなかったのは完璧に私の意志につき、その責任は自分にあると重々承知していながらも、おんぶに抱っこで大学に通えた可能性を、実に勿体無く思うのだ。なぜ19歳から働いちゃったんだろう?とにかく10代の頃の私は、誰にも頼らずに生きたくて、社会に出たくて堪らなかったのだ。あ〜全く、今は誰かに頼りたくて仕方が無い(笑)。何につけても、考え方の推移が一般とは逆なのだろう、私の場合はきっと。

しかし、我が両親が親らしく、10代の娘の自我を打ち崩し、嫌々ながらも大学に通わせたとしたら?まず間違いなく私は短大しか行けなかったろうから、その後の人生で、果たして親に感謝しただろうか?恐らく感謝はしただろうと思うが、それはきっと、曲がりなりにも『大学卒業資格』を手に入れる事が出来たという、単なる事実に対してだけだったろうとも思う。
嫌々大学に行って、やりたくも無い勉強をして、なんとかかんとか卒業したところで、残るべき『知識』は無かったろうとは、簡単に想像が付く。それを証拠に、嫌々通っていた高校の授業で、覚えている事なんか1つだって無い。
結局人間なんて、強制される事に良い結果なんぞは生まれない。いや勿論、大学に於いて、何か学びたい事を見出していた可能性だってある。ただし、強制に対する憎しみは人の心を曇らせる、特に私の場合は根深いので(笑)、もう一寸先も闇というぐらい暗雲が立ち込めちゃって、観るべきものも見落として大学生活を送っただろう。
だから、結果的には良かったのだ。思う様社会に出て働き、そうしながらも自分の興味を探求し、次第に興味の幅も広がった。興味のある事柄の知識を更に得たい、その過程に限界を感じた今だから、学びの場に舞い戻りたいと考える。今やっと私には、知識を授けてくれる場がある事を心から素晴らしいと思えるし、その恩恵を享受することに対する幸運を認識する事が出来たのだ。
大学と言うものを知っている方々には、恐ろしく理想論に過ぎると思われるかも知れないし、実際に通ってみたら、羨望は大きく打ち砕かれるかも知れない。それでも、行けたら素敵だろうな〜♪と、甚だ楽観的に憧れてしまうのだ。恐らく私のこの感情は、大学そのものに対するコンプレックスに裏打ちされた部分が強いと思う。大学を卒業した人は立派な人という、子供騙しな劣等感は、長年私の中で燻り続けて来たものだ。

しかしながら、人は何歳になっても、如何なる場所に居ようとも、『学びたい』という強い意志があれば学ぶ事が出来るのだ。動機が劣等感だろうがコンプレックスであろうが、そこにより純粋で熱烈な欲求があれば良い。あらゆる些末な感情を凌駕するような、強い信念があれば良いのだ。何よりも、そうした熱意や信念が、より以上の成果を生み出すはずだから。
要するに、『行けたら素敵だろうな〜♪』程度では、まぁまず、不可能なのだ(笑)。長い目で見て、新聞沙汰になるぐらい高齢になったとしても、いずれはその恩恵を受けたいと思っている。今はとにかく、勉強恐怖症を克服しなくては(笑)。

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