『バベル』
〔米/メキシコ/仏〕BABEL (2006年)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:スティーヴ・ゴリン/ジョン・キリク/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/ガエル・ガルシア・ベルナル/アドリアナ・バラーザ/役所広司/菊地凛子/二階堂智/エル・ファニング/ネイサン・ギャンブル/ブブケ・アイト・エル・カイド/サイード・タルカーニ/ムスタファ・ラシディ
モロッコの山中、遊びから観光バス射撃した2人の若い兄弟がいた。その銃弾によって妻が負傷したアメリカ人夫妻は、テロ活動を懸念した政府間の摩擦によって、救出が遅れたまま山中に取り残されてしまう。一方、夫妻の子供たちは、メキシコ人乳母と共にアメリカに残っていた。代わりの乳母が見つからないため、息子の結婚式を欠席するように言われた乳母は、止む無く幼い子供達を連れてメキシコへ行く。しかし結婚式の帰り、深夜の国境で意味も無く負われる羽目になる。モロッコでは狙撃犯探しが続いていたが、使われた銃から、日本のあるサラリーマンとの繋がりが見えてくる。そして日本、銃の登録者である男は、耳の聞こえない娘と、妻が自殺してからは、反抗的な高校生の娘との擦違いの日々に悩んでいた。
鑑賞後は、いまいち、何が言いたいのだろうか?と。映画のキャッチコピーや予告編からは、言語の違いに何かキーワードがあるのかと思っていた。神に到達しようと高い塔を建て始めた人間に、腹を立てた神が雷を落とし、互いに意志の疎通が出来ないよう、それぞれの言語をお与えになった・・・とか何とかよね、確か?その辺は・・・関係ないのではないかと感じた。
鑑賞直後は、憤怒というか、やるせなさというか、何なのこの白人主義的な映画は!と憤る気持ちが強かった。しかし監督はメキシコ出身、『アモーレス・ペロス』は名作だったのに・・・、仕方が無いので(笑)、色々と考えてみる事にした。そのままだと、何だか釈然としなかったし。
舞台となる国々は、その名前が重要なのではなく、世界の地域をそれぞれ代表したものじゃないだろうか?そうして広い範囲で、国の繋がりや上下関係を示しているような気がした。日本は言わば、『アジアと島国』代表。周辺を完全に海に囲まれて、閉ざされた文化を育んだ国。ある意味独特な私たちの文化は、大方の国から見たら特殊かつ興味深く映るのではないだろうか。映画の大半を占めるエピソードとは、一見切り離された状態に感じるのも、島国的扱いと考えると、妙にしっくり納まった気がした。孤立した状態に、むしろ意味がるのよ、きっと。
さて、とにかく白人有利に話が運ぶ。それがまた、悲劇的な状態を含んでいるから安に責められないのではあるが、余りにも身勝手な白人達の姿が描かれているように感じた。狙撃されたバスにはヨーロッパなどの『白人』も多く乗っており、それぞれが勝手に、自己中心的な醜態を見せる。モロッコ人の兄弟がバスを狙撃するに到った過程を、もうちょっと必然的なものにして欲しかった。余りにも楽観的で弁護の余地のないあの行動は、彼らへの救済の気持ちを閉ざしてしまう。
アメリカ人夫妻が受けた艱難辛苦は、結果的にはお互いの関係に良い方向に向かった事だろう、結果的には何も失ってはいないのだ。しかし、彼等が『生み出した悲劇』は?
メキシコ人乳母に対する無茶な注文、そこから引き起こされた悲劇に対する、ほんの些細な台詞から夫の傲慢さが窺えた。子供たちの無邪気な台詞からも、自分たちが上位であることを知っているような、無意識な制圧が見えたりもした。この辺の描写がね、そもそもの憤慨の根拠なのだ。息子の結婚式を欠席しろと命令するのは、雇用者としても許されない領域でしょう。
それぞれの国の時間軸が違い、国が切り替わる度に、脳内で時間の帳尻を合わせる。多少煩わしい演出にも思えるが、このズレの巧みさも、私の憤りを増長させるきっかけになった。それに、複雑な時間軸の変化が、パズル的な面白さを映画に添えているのではないだろうか。
結果的には、やっぱり『アモーレス・ペロス』だったのねぇ・・・なんて、私のこの解釈は、恐らく全く外れているだろうと思う。自分の中の腑に落ちない部分を、突き詰めてみたらこうした憤りが強くなったというだけで。K・ブランシェットも、『監督の描く愛の深さに涙した』とかなんとか言ってるぐらいだから、白人優位主義じゃ、実際は全く成り立たないわけ(笑)。
ぽすれん『バベル』紹介
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:スティーヴ・ゴリン/ジョン・キリク/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/ガエル・ガルシア・ベルナル/アドリアナ・バラーザ/役所広司/菊地凛子/二階堂智/エル・ファニング/ネイサン・ギャンブル/ブブケ・アイト・エル・カイド/サイード・タルカーニ/ムスタファ・ラシディ
モロッコの山中、遊びから観光バス射撃した2人の若い兄弟がいた。その銃弾によって妻が負傷したアメリカ人夫妻は、テロ活動を懸念した政府間の摩擦によって、救出が遅れたまま山中に取り残されてしまう。一方、夫妻の子供たちは、メキシコ人乳母と共にアメリカに残っていた。代わりの乳母が見つからないため、息子の結婚式を欠席するように言われた乳母は、止む無く幼い子供達を連れてメキシコへ行く。しかし結婚式の帰り、深夜の国境で意味も無く負われる羽目になる。モロッコでは狙撃犯探しが続いていたが、使われた銃から、日本のあるサラリーマンとの繋がりが見えてくる。そして日本、銃の登録者である男は、耳の聞こえない娘と、妻が自殺してからは、反抗的な高校生の娘との擦違いの日々に悩んでいた。
鑑賞後は、いまいち、何が言いたいのだろうか?と。映画のキャッチコピーや予告編からは、言語の違いに何かキーワードがあるのかと思っていた。神に到達しようと高い塔を建て始めた人間に、腹を立てた神が雷を落とし、互いに意志の疎通が出来ないよう、それぞれの言語をお与えになった・・・とか何とかよね、確か?その辺は・・・関係ないのではないかと感じた。
鑑賞直後は、憤怒というか、やるせなさというか、何なのこの白人主義的な映画は!と憤る気持ちが強かった。しかし監督はメキシコ出身、『アモーレス・ペロス』は名作だったのに・・・、仕方が無いので(笑)、色々と考えてみる事にした。そのままだと、何だか釈然としなかったし。
舞台となる国々は、その名前が重要なのではなく、世界の地域をそれぞれ代表したものじゃないだろうか?そうして広い範囲で、国の繋がりや上下関係を示しているような気がした。日本は言わば、『アジアと島国』代表。周辺を完全に海に囲まれて、閉ざされた文化を育んだ国。ある意味独特な私たちの文化は、大方の国から見たら特殊かつ興味深く映るのではないだろうか。映画の大半を占めるエピソードとは、一見切り離された状態に感じるのも、島国的扱いと考えると、妙にしっくり納まった気がした。孤立した状態に、むしろ意味がるのよ、きっと。
さて、とにかく白人有利に話が運ぶ。それがまた、悲劇的な状態を含んでいるから安に責められないのではあるが、余りにも身勝手な白人達の姿が描かれているように感じた。狙撃されたバスにはヨーロッパなどの『白人』も多く乗っており、それぞれが勝手に、自己中心的な醜態を見せる。モロッコ人の兄弟がバスを狙撃するに到った過程を、もうちょっと必然的なものにして欲しかった。余りにも楽観的で弁護の余地のないあの行動は、彼らへの救済の気持ちを閉ざしてしまう。
アメリカ人夫妻が受けた艱難辛苦は、結果的にはお互いの関係に良い方向に向かった事だろう、結果的には何も失ってはいないのだ。しかし、彼等が『生み出した悲劇』は?
メキシコ人乳母に対する無茶な注文、そこから引き起こされた悲劇に対する、ほんの些細な台詞から夫の傲慢さが窺えた。子供たちの無邪気な台詞からも、自分たちが上位であることを知っているような、無意識な制圧が見えたりもした。この辺の描写がね、そもそもの憤慨の根拠なのだ。息子の結婚式を欠席しろと命令するのは、雇用者としても許されない領域でしょう。
それぞれの国の時間軸が違い、国が切り替わる度に、脳内で時間の帳尻を合わせる。多少煩わしい演出にも思えるが、このズレの巧みさも、私の憤りを増長させるきっかけになった。それに、複雑な時間軸の変化が、パズル的な面白さを映画に添えているのではないだろうか。
結果的には、やっぱり『アモーレス・ペロス』だったのねぇ・・・なんて、私のこの解釈は、恐らく全く外れているだろうと思う。自分の中の腑に落ちない部分を、突き詰めてみたらこうした憤りが強くなったというだけで。K・ブランシェットも、『監督の描く愛の深さに涙した』とかなんとか言ってるぐらいだから、白人優位主義じゃ、実際は全く成り立たないわけ(笑)。
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ぽすれん『バベル』紹介
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