監督の一言

  • 2006/12/04(月) 14:30:27

さて、あっという間に『世界バレー』が終了(笑)。予想通りの結果とはいえ、2年後に期待が持て、弾みがついたように感じられる戦いを繰り広げてくれたと感謝。
セルビア・モンテネグロ戦の後だったかな?植田監督がその日の試合を語って、『結果が悪ければ、全て監督の責任』 と言い切った。思えば長いスポーツ観戦暦の中でも、こうして監督が自らの非と言った記憶はほとんど無い。
確かに試合が始まってしまえば、その結果は選手によるところが多いのだが、采配とは非常に大きな意味を持ち、それ1つでも違えば、結果は悲惨なものになりかねない。しかしだ、それを認める監督は少ないと思うのだ。もちろん、試合に至るまでの道のり、戦術や強化においても監督の力の及ぶ部分は大きく、そこに己の力を波及できないなら、むしろ監督なんぞは要らないわけだ。
全ての責任を負い、レベルを上げ、試合に勝利する義務を負っているのが監督だろう。それでもやはり、酷い負け試合後、選手を責める監督は多いのだが、こうして『全ては自分の責任』と、自らを責める監督は少ない(というかはっきりした記憶が無い)。

監督インタビューを見ていていつも思うのは、『傍観者』的発言が多いな〜という事。妙に冷静だったり、まるで解説者のように終わった試合を語っていたりする。時折『我々は次の試合も準備をして勝つだけだ!』なんていう人もいるが、それも所詮、選手ありき、勝つ実力ありきの監督の口からしか、真実味を持って聞こえない気がする。

『全ては自分の責任』と言ったからとて、戦った選手のミスが無かったわけでもなく、『そりゃそうだ、あんたがいけないんだよ』と突っかかる人もいないだろう(笑)。大体だ、真剣勝負の戦いの場において、誰が悪いなどのしょぼい話は無いと思っている。
とかく責任の擦り付けに、良い結果なんぞも生まれない。
監督がそう言ったのは、選手の力を信じればこそ。その力を上手く使いきれなかった自分への反省をこめてなのだろう。そして何よりこの監督は、選手と一緒にコートの上で戦っていたんだなと、少なくとも私には思わせてくれた。

今回のバレーを取り上げても、誰かのレシーブが悪かったりしたろうし、サーブミスが多かったりしたかも知れない。研究されたアタッカーのスパイクが決まらなかったり、焦って単純ミスを繰り返したかも知れない。
しかし監督も同じく、気持ちだけはしっかりコート上にあったからこそ、試合に自分の力を重ねて、『責任は私にある』と言わしめたのではないか?どんな希望的な言葉を聞くよりも、この一言が強く仲間意識や闘争意識を感じさせ、信頼できる監督という印象を植え付けてくれた。

何よりも、選手が一番、この言葉に奮起するのではないだろうか?そうでなければいけないと思う。実際に肉体を使用して戦っていない監督は、簡単に言葉だけで責任逃れが出来る、しかも立場の強いリーダーなのに、『全責任を負う』と言われたら?
これを自分の立場に置き換えてみたら良く解るはず。上司が部下である自分のミスを、非難だけして『まぁ、これから頑張れや』と言い捨てるか、自分と一緒になって、頭を下げてくれるのか?
果たして、どちらの上司に対して、より強い信頼を感じるだろう?
果たして、どちらの上司のために、限界を超えても頑張ろうと思えるだろう?
『自分のために』という思いから、『上司のために』という気持ちに切り替わるのはどちらだろう?そして人は、『誰かのために』という犠牲的な気持ちによって、実力以上の奮闘を勝ち得る事が出来る。少なくとも私はそう思う。

監督とは、数いる選手達の信頼を勝ち得なくてはならない、言わば『気持ち』を扱う難しい職業だ。それゆえか『理想の上司』などというアンケートに、必ずプロスポーツの監督の名前が入ってくるのではないだろうか?
そうした意味で、植田監督は部下の気持ちが解り、常に一緒に戦い、必要とあらば身を投げ出してくれる理想的な上司なのだと思う。

ここで甘えるか、己により厳しくなれるか?それだけでも、その人の真価が解る。その後の2戦、負けはしたが、多くの希望が見えただろう。ロシアからもフランスからも1セット獲り、20点を超えて追い上げたセットもあった。さて果たして、日本代表の選手達は、どのような真価を持っていたのか?答えはもう見えているでしょう。

2年後、諦めきっていた北京オリンピックでの日本男子の活躍。
もしかしたら見られるかも知れない、かなり大きな期待が生まれた。
そしてそのコートの上で、大の字になって喜びを表す、植田監督の姿も見られるのかも知れない、それが私は楽しみだ。

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