『ルワンダの涙』
〔英/独〕SHOOTING DOGS (2005年)
監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ
脚本:デヴィッド・ウォルステンクロフト
ジョン・ハート/ヒュー・ダンシー/クレア=ホープ・アシティ/ドミニク・ホルヴィッツ/ニコラ・ウォーカー/ルイス・マホニー
1994年、海外青年協力隊の一員として、ルワンダで教師の職に就いたジョー・コナー。カソリック系の公立技術専門学校には、クリストファー神父という長年ルワンダで布教活動をしている校長がいた。突然のクーデターによって政府が転覆、フツ族は軍を利用して、根深い怨恨がある少数派のツチ族狩りを始める。民兵を募っての虐殺が始まり、一夜にして学校は難民達の避難所となる。もともと基地として詰めていた国連軍はこれを良しとしなかったが、平和『監視』の名目のもと難民を受け入れざるを得ない。暴徒化するフツ族の民兵による虐殺を恐れて避難所を出られないツチ族の人々。過激な虐殺を目の当たりにしたジョーは、凄まじいまでの現実に直面し、自らの無力さ痛感していた。
同じ状況を描いた映画として、『ホテル・ルワンダ』が記憶に新しいだろう。この映画の感想を読み返してみても、状況理解に苦労したと書いてある。『ホテル・ルワンダ』では、主人公がフツ族でありながらツチ族の妻を持ち、ツチ族を匿って・・・と区別が着き辛く理解に追われるようだったが、本作はその辺の種族分けも明確だし、メイン・キャラクターに欧米人という第三者、いわゆる私達と同じ立場の人間を持ってきているので、感情的にも理解し易い。
そしてこの『同じ立場』の主人公の姿が・・・なんとも胸の痛い処を突いて来る。冒頭では天真爛漫過ぎる青年ジョー、余りにも自分が暮らす国の事を知らな過ぎ、ちょっとイライラするぐらい楽観的にクーデターを見つめる。しかしそんな姿もあっと言う間に崩れ、自らの無力さに打ちひしがれるのだ。
この映画を見て涙を流すのは偽善なのか、否か?しかし映画が後半に進むにつれ、そうした第三者の『白人』達によって、よもや偽善がどうのという思いが瑣末な事であると思い知らされる。ジョーの苦悩、TVクルー・レイチェルの壮絶とも言えそうな告白。私の想像を遥かに超えた世界が描かれていた。そこには単に自らの無力さを嘆く一個の人がいて、余りに壮絶な現実と折り合いが付けられない事に涙する、無力な人間の姿があった。
ああした場において、偽善などという感情は消滅してしまうだろう。そこを通り越して、耐え難い苦しみか、または理解したくない冷徹さが生まれるのだろう。偽善などでは行動できないほどの恐怖、それを乗り越えてジョーも神父も行動していたのだ。この映画を見て、ジョーに対して卑怯だとか偽善者だとか言う人がいたなら、その人こそが本当の偽善者だろう。
国連軍の大尉にしても、彼の心の葛藤は幾ばくであったか?それを安易に想像できる人は少ないだろう。その場にいて初めて感じられる協調なのだ。しかしこの映画は、少なくともその気持ちや行動を理解するきっかけを与えてくれる。『ホテル・ルワンダ』の感想で『国連』の全てを非難するような事を書いたが、そこは撤回させていただきたい。現地において痛みを肌で感じた国連軍の兵士達は、恐らくその職業的立場からも、相当に歯がゆく悔しい思いをした事だろう。
第三者という存在を細かく描いているおかげで、映画に対して深い理解が生まれた。それだけに、心の中にリアリティのある痛みを残した。それ以上に、この映画が包括しているメッセージは、単にこの事実に限った事ではなくて、こうしたあらゆる『想像を超えた』ほどの悲劇に対して、その是非を、対応の必要性を訴えているのだと感じた。
原案は、実際に現地で報道に携わったカメラマン。帰国後に苛まれた深い後悔からこの映画の案を思いついたという。だからこそ、第三者的なリアルさがこれほど深かったのだろう。そして、映画制作には、当時多くの親類縁者を亡くした人々が携わっているそうだ。映画ラストに流れる屈託の無い笑顔、ハツラツとしたその姿とは対照的に記載されている、当時の彼等の状況。
その姿を見て、私などは本当に弱い人間だと痛感させられた。映画を見ている間中、きっと撮影は別の場所で行われたのだろう、と考えていたからだ。だって、過去の記憶を呼び覚ますようなシーンは、例え映画撮影だとしても、殺戮を経験した人達は見たくないだろうと思ったから。
人間とはなんと強いのだろう、とつくづく思う。果たして彼等は、どんな思いでこの映画の製作に関わったのだろうか?彼等の乗り越えた世界は、私にはきっと永遠に解らない。だからこそ、彼等のあの笑顔の価値をしっかりと理解したいと思う。そして、この映画を通して受けたリアルな心の痛みを、忘れないように。
ぽすれん『ルワンダの涙』紹介
監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ
脚本:デヴィッド・ウォルステンクロフト
ジョン・ハート/ヒュー・ダンシー/クレア=ホープ・アシティ/ドミニク・ホルヴィッツ/ニコラ・ウォーカー/ルイス・マホニー
1994年、海外青年協力隊の一員として、ルワンダで教師の職に就いたジョー・コナー。カソリック系の公立技術専門学校には、クリストファー神父という長年ルワンダで布教活動をしている校長がいた。突然のクーデターによって政府が転覆、フツ族は軍を利用して、根深い怨恨がある少数派のツチ族狩りを始める。民兵を募っての虐殺が始まり、一夜にして学校は難民達の避難所となる。もともと基地として詰めていた国連軍はこれを良しとしなかったが、平和『監視』の名目のもと難民を受け入れざるを得ない。暴徒化するフツ族の民兵による虐殺を恐れて避難所を出られないツチ族の人々。過激な虐殺を目の当たりにしたジョーは、凄まじいまでの現実に直面し、自らの無力さ痛感していた。
同じ状況を描いた映画として、『ホテル・ルワンダ』が記憶に新しいだろう。この映画の感想を読み返してみても、状況理解に苦労したと書いてある。『ホテル・ルワンダ』では、主人公がフツ族でありながらツチ族の妻を持ち、ツチ族を匿って・・・と区別が着き辛く理解に追われるようだったが、本作はその辺の種族分けも明確だし、メイン・キャラクターに欧米人という第三者、いわゆる私達と同じ立場の人間を持ってきているので、感情的にも理解し易い。
そしてこの『同じ立場』の主人公の姿が・・・なんとも胸の痛い処を突いて来る。冒頭では天真爛漫過ぎる青年ジョー、余りにも自分が暮らす国の事を知らな過ぎ、ちょっとイライラするぐらい楽観的にクーデターを見つめる。しかしそんな姿もあっと言う間に崩れ、自らの無力さに打ちひしがれるのだ。
この映画を見て涙を流すのは偽善なのか、否か?しかし映画が後半に進むにつれ、そうした第三者の『白人』達によって、よもや偽善がどうのという思いが瑣末な事であると思い知らされる。ジョーの苦悩、TVクルー・レイチェルの壮絶とも言えそうな告白。私の想像を遥かに超えた世界が描かれていた。そこには単に自らの無力さを嘆く一個の人がいて、余りに壮絶な現実と折り合いが付けられない事に涙する、無力な人間の姿があった。
ああした場において、偽善などという感情は消滅してしまうだろう。そこを通り越して、耐え難い苦しみか、または理解したくない冷徹さが生まれるのだろう。偽善などでは行動できないほどの恐怖、それを乗り越えてジョーも神父も行動していたのだ。この映画を見て、ジョーに対して卑怯だとか偽善者だとか言う人がいたなら、その人こそが本当の偽善者だろう。
国連軍の大尉にしても、彼の心の葛藤は幾ばくであったか?それを安易に想像できる人は少ないだろう。その場にいて初めて感じられる協調なのだ。しかしこの映画は、少なくともその気持ちや行動を理解するきっかけを与えてくれる。『ホテル・ルワンダ』の感想で『国連』の全てを非難するような事を書いたが、そこは撤回させていただきたい。現地において痛みを肌で感じた国連軍の兵士達は、恐らくその職業的立場からも、相当に歯がゆく悔しい思いをした事だろう。
第三者という存在を細かく描いているおかげで、映画に対して深い理解が生まれた。それだけに、心の中にリアリティのある痛みを残した。それ以上に、この映画が包括しているメッセージは、単にこの事実に限った事ではなくて、こうしたあらゆる『想像を超えた』ほどの悲劇に対して、その是非を、対応の必要性を訴えているのだと感じた。
原案は、実際に現地で報道に携わったカメラマン。帰国後に苛まれた深い後悔からこの映画の案を思いついたという。だからこそ、第三者的なリアルさがこれほど深かったのだろう。そして、映画制作には、当時多くの親類縁者を亡くした人々が携わっているそうだ。映画ラストに流れる屈託の無い笑顔、ハツラツとしたその姿とは対照的に記載されている、当時の彼等の状況。
その姿を見て、私などは本当に弱い人間だと痛感させられた。映画を見ている間中、きっと撮影は別の場所で行われたのだろう、と考えていたからだ。だって、過去の記憶を呼び覚ますようなシーンは、例え映画撮影だとしても、殺戮を経験した人達は見たくないだろうと思ったから。
人間とはなんと強いのだろう、とつくづく思う。果たして彼等は、どんな思いでこの映画の製作に関わったのだろうか?彼等の乗り越えた世界は、私にはきっと永遠に解らない。だからこそ、彼等のあの笑顔の価値をしっかりと理解したいと思う。そして、この映画を通して受けたリアルな心の痛みを、忘れないように。
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ぽすれん『ルワンダの涙』紹介
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