難聴になったらしい

  • 2007/12/03(月) 21:33:50

『老いを感じる』・・・、まだ30代なのに変な言い方だが、実際最近つとにそう思う。勿論、これから40代、50代と、まだまだ老いを感じて行くのだろうが、私の場合は、その戸羽口がいきなり訪れてしまったのだ。
20代の後半ごろのある日、鏡を見ていたらいきなり首の皺に気がついた。前日までは全く気にもなっていなかったのに、その時突然、鏡の中の自分の首にあの、『年齢と共に現れる横皺』がくっきりと刻まれているのが目に付いてしまった。その時に初めて、『自分は年をとっているんだ』と、当たり前なのに見えなかった現実に気がついた。それでもまだ20代だったので、その若さにすがって現状を紛らわす事が出来た。
30代に入って間も無く、無視できないほどの白髪が現れ始めた。その量はもう『若白髪』の粋を遥かに超え、単なる加齢による白髪の域。美容院で相談もしたが、当座は自分で染めている。およそ2週間に1回の割合である。
それでもそんなものは、誰にも迷惑をかけないし、私自身が気にしなければ、慌しい毎日に紛れて存在すら忘れてしまう。『老い』と言うには、まだまだ甘ちゃんな出来事だったのだ。

5年ほど前に初めて聴覚異常が出た。丁度30代を超えた辺り。会社の健康診断での発覚だったので、詳しい検査もしないまま時が過ぎた。それでもその診断が出た辺りから、会社の上司から『耳の聞こえの悪さ』に対する批判が出たりし始めた。
以来耳が悪いという自己認識は芽生えたものの、まだまだ周囲を騙せると思ってやってきたのだが、ここ数ヶ月で聞こえなさが悪化。もはや『騙しながら生活して誰にも迷惑をかけない』事は出来ない状況に追い込まれている。
仕事を決める時も耳の状況は予め話していたのだが、今の職場だけは、耳の事を言わずに面接を受けたら受かってしまった。耳の状態をカミングアウトしないで始めた仕事だったが、状況の悪さを思い知るばかりで、苦痛の伴う日々を過ごしていた。
私にとっては聞こえない理由は解っていても、周囲にしてみれば『反応が悪い』としか映らない。何度声をかけても振り返らない私にきっと周囲はイライラしているはずなのだが、会社の人は皆良い人達ばかりで、その素振りを余り顔に出したりはしない。それでも、時折見え隠れする微妙な憤慨の表情に、自分自身が酷い過ちを犯している気持ちになってしまう。
結果として、対人恐怖症じみた感情が芽生え、今では外出するのすら少し恐ろしい気持ちがある。人と接する事も嫌になりつつあるのだが、それも自分自身の問題と、あえて直視しないようにして誤魔化そうとしている。その気持ちの半端さが、余計複雑で自身ですら理解し難い分裂気味な気持ちになって、常に私の中に燻っていた。
何より職場にいると、指示がきちんと聞こえていないという焦りと不安から、本来の私というものはすっかりなりを潜め、おどおどとした自信の無い、無能な私が現れる。聞こえない事で何かミスをしていないかと常に不安で、余計な凡ミスまで連発してしまう。私的にはれっきとした言い訳はあるのだが、そんなもの、会社の上司には通用しないのである。それだからこそ余計に萎縮してしまって、どんどんと悪い方向へ進んでしまう気がする。

私の症状を調べてみると、『感音性難聴』という症状が全て当てはまる。その原因としては様々で、調べるほどに判断は難しい。これは医者に行っても似たような場合があるらしく、生まれながら、姿勢や身体のコリ、血行の悪さ、ストレスなど、要因は様々に考えられるそうだ。その中には『老化による機能低下』というものもあった。
普通に年老いて、身体の機能が低下していく。個人差は様々だろうが、これは生き物としてある程度仕方の無い事だ。誰でもいつかは年を取って、若い頃とは違う自分になっていく。今自分の耳が遠くなって初めて、自らの老いを真剣に考えるようになったのだ。というか、『初めて老いを感じる』という、堪えようも無い大きな衝撃に襲われている。
しかしこれは、始まりだから感じる不安なのだと思う。日々こんな恐怖と向き合って過ごす未来なら、私は全く欲しくは無い。きっとこの状況になれてしまえば、後は安閑と受け入れられる達観した気持ちが芽生えるはずだ。次の衝撃がいつ来るのかは解らないが、その時は今ほど大きなダメージには至らないだろうと思っている。
そうして人は、ゆっくりと老いていく。その中で、もう若くは無い、何でも出来る訳じゃないという重要な事を身を持って学び、毎日をもっと大切に生きていく事ができるのだろう。それだからこそ、年老いた人は賢者の知恵を持つ。若さでは太刀打ち出来ない、深い人間性が身につくのかも。過ぎ去っていく日々の大切さを、自身が消耗していく中から学ぶ。まさに人生は、自分自身が生きて学んでいく舞台なのだと気がつかされる。人生を教えてくれるのは、世の賢人達ばかりではなく、やはり自分自身から見出せるものなのだろう。

『当たり前』がそうでなくなっていく日々。初めて感じる衝撃と共に、人生の儚さや短さも痛感している。こうした事を身を持って実感する機会が早く訪れた事に、感謝しなくてはいけないのかも知れない。年齢が示す『本当の老いの時』を迎えるよりずっと早くその存在を認識できたという事は、後悔の無い毎日を送る決意を生む機会を、より早く見出せた事になる。
身体の機能が低下していくというこの感じ、年齢が理由であろうが、元からの身体機能が原因であろうが、とにかく止むを得ない障害を抱えた危機感は、持ってみて初めて痛感するものなのだ。映画や小説や人からの話で幾ら身に迫って聞いているつもりでも、実際に体験するのとはこうも違うものなのかと、愕然とする思いだ。
少しずつ、自分がこれまで培ってきた価値観や見方が変化している。これまでの自分では思いも寄らなかった変化だ。自分の弱さも痛感している。これほど、自分が弱い人間だとは思っていなかった。ある意味、そうした変化は私にとっての第二の人生になるのかも知れない。
その変化を、良く変えていくのも悪くするのも自分自身。まずは自分の障害を受け入れて、世間と融合させていく事が大事だ。隠そうとせずにオープンに生きる、何事にも、自分をありのままに示せる人でありたい。

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