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物の価値観
- 2008/01/19(土) 21:40:58
先日、両親と会った際に、『とにもかくにもお金が無い!』という話になった。そこから家族の財政状態の話になっていったのだが、両親は一度として経済的に裕福だった頃は無いが、その使いっぷりは見事にお金持ちのそれだった。
まず、値段を見て買い物をしない。セール品などには余り興味が無い。母は時折、直系50cm程もの銀のお盆や、南米の意味不明な置物(1万くらい)などを買うが、これは母の道楽。ケチケチして人生に潤いが無いぐらいなら、多少苦労しても、そうした楽しくなるものを買いたいそうだ。買うのは良いのだが、全く使わないどころか飾って楽しんだりもしないので、頼むからそういう無駄は辞めてくれ、といつもお願いしてしまう。
反して私は、一円でも安い買い物をしたいので、スーパー3箇所、薬局3箇所を利用している。良く買うものの平均価格は大抵憶えていて、3箇所の中から安い場所で買うのだ。その為、休日は幾つのもスーパーや薬局を回る事もたまにあり、単なる日用品の買出しもこれでなかなか一大行事だったりする。
当然母は、そんな私の行動が理解出来ないと言う。私は、母の無頓着さが理解できない。そんな状態で、貧乏だなどと言って欲しくない・・・が、実際両親はかなり貧乏なので、買い物にもう少し気を使ってくれれば、と思わずにはいられない。
ちなみに私がそこまでするのは、消費者対企業の戦いと感じているからだ!
一円でも安く、これはもう、一般市民の共通する願いであると心得、その道を追求するために、日々企業側と戦っている。一円でも高い価格表示をつけた店でなど、買い物をする道理は無いのだ。その危機感を企業側に感じさせるべく、消費者は団結しなくてはならないのだ!!
と、息切れしそうなほどまくし立てていたら、母が言った言葉。
『あんたそれだけセコく生活してるのに、毎月3000円も寄付しているのは良いわけ?』
詳しくはコチラの日記をご参照いただきたい。
そう来たか・・・。母は何事にも冷めた物の見方をする人だが、私のこの寄付活動に関しては、周囲でも1番理解を示してくれた人。この台詞も、決して意地悪というわけではない。
大抵の人は買い物をする時に、金額をそれだけで判断するのではなくて、品物と比較して考えているのではないだろうか?例えば1斤1000円のパンは高いと思うだろうが、それが最高級の素材ばかり使っていたとしたら、1000円で妥当と考えるだろう。
別の見方とすれば、3000円のお弁当は高いと思うが、3000円のセーターなら安い。3000円のお弁当を買うのは躊躇するが、3000円のセーターなら悩む事無く買えてしまう。その時究極に貧乏でなければ(今のように)、物に比較した値段で損得勘定をすると思うのだ。
その物に見合った価格なら妥当と考えるだろうし、妥当と思える価格より安かったりすれば、それが例え1万円を超えていたとしても、お得感は十分得られるわけだ。だって、ちょっとぐらい貧乏でも、5万円でヨーロッパ10日間の旅が買えるとしたら、迷う事無く購入するでしょ?あれ、しませんか???往復の飛行機代、宿泊、食事全て込みでも???
長くなってしまったが、私にとって月々3000円の寄付金は、全く妥当な、いやむしろ安いぐらいの金額なのだ。僅か3000円で、もしかしたら学校が建つかもしれない、もしかしたら病院が出来るかも知れない、もしかしたら薬がすこしだけ多く買えるかも知れない、もしかしたら、誰かの命が救えるかも知れない。人の命の値段としては、申し訳ないぐらいの金額だろう。学校に通えない子供が学べるようになる、そしてその子供は、より良い未来を手に入れる。そんな1人の人生を芳醇にするための金額としては、高いというものではないはずだ。
そのためになら、私は1円をケチるために走り回れる。例えばそうして3000円を浮かせるのは、決して大変な行為ではないはずだ。別にそれで3000円浮かせているわけでもないのだが、私にとって、寄付の3000円は決して高い金額ではない。
とまぁそんな事を、またしても息切れしそうに語っていたら母がまた1言。
『そんでさぁ、あんたそのお金、ちゃんと使われているわけ?詐欺なんかじゃないんでしょうね?』
母よ・・・。冷めすぎです!
その辺はきちんと調査して、しかるべき団体に託している・・・つもり。
しかしこれからはもっと、寄付金の成果の報告書をきちんと読もうと肝に銘じた。
ジャンル:
- 日記
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