『エヴァ・トラウト』

  • 2008/04/04(金) 08:08:42

エリザベス・ボウエン著/太田 良子 訳/国書刊行会
生後2ヶ月で母をなくし、事業家の父に育てられエヴァ。愛する事を知らず、何か重要な感情も欠如したような彼女は、大柄で人目を引く女性に育った。何かを求めているようで掴み所の無いエヴァは、常に何物かから逃れるように行方をくらまし、周囲を混乱に陥らせていた。そして不意にアメリカへと渡った彼女は、8年後に養子を連れて戻ってきたのだった。


いざあらすじを書こうと思ったら、難しいの何の。1つの事を書き始めると、物語が連鎖して全てを書かなくてはならなくて、1つを端折ると、残りの全てが意味を成さない。長い物語ではあるが、連綿と全てが繋がって切れ目が無い。実際は、8年の時を挟んで2つのパートに別れているのに、1人の人間の人生が決して途切れる事が無いように、エヴァの物語は、エヴァが関わった全ての人を繋げて1つにまとまっていると言った感じだ。
ちなみに、受賞はしていないが、ブッカー賞候補だ。ブッカー賞が苦手な私としてはかなり悩んだが、受賞していないと言うのが決めてになって読むことにした。途中何度か冗長だと感じて斜め読みした箇所もあったが、概ね面白く読めた・・・と思う。
語らずして語る・・・いや、語らずして語らず。物語の中では色々な事件が起こり、エヴァの過去には多くの出来事があり、彼女を取り巻く人々も個性豊かな面々だったようなのだが、殆ど語られる事は無い。あらすじと後書きをじっくり確認されたし。ドラマティックな要素をハッキリとは描かない、この『描かなさ』がかなり斬新だった。
エヴァに関する外観の記述、より深い洞察を得られる思考などは殆ど描かれていないにも関わらず、物語後半にはエヴァという人物がかなり深くまで理解できているのは不思議だ。そして大柄で不器用で、酷く陰鬱なのに奔放さもあるとらえどころの無い女性であるエヴァを、何となく可愛らしくすら感じている事に驚く。エヴァを中心に人々が回る理由が、何となく解る気がした。この作品は言わばエヴァそのもので、作品自体が擬人化してしまったように感じる。
この作品を研究している方にしてみれば、色々と学術的な論点もおありだろうが、私は単純に、孤独を深く抱えた女性が、愛し守るものを得、自力で人間らしさを取り戻す力強い話だと思った、エヴァはいささか陰鬱だが、飄々として他を寄せ付けない姿が、逆にイギリスの資本的上流階級の孤立感とも思えて、父譲りの高潔さなのだろうと判断できる。
だからこそ、だからこそ!あのラストはズルい、ズル過ぎる!!!あ〜れ〜は〜、文学者としてどうなの?許されるの?私はどうしても許せませんね、ズルいですね。文字数まで完璧に揃えたあのラスト、最後の1節。あえてか知らぬが、ラストページの裏は印字無しの無地のまま。続きを読もうとペラとめくってそこに文字が無かった時の衝撃は、思わずベッドから起き上がるほどのものだった。仕掛けられた企みに、まんまと乗ってしまった気分。
延々とエヴァの人生に付き合ったからこそ衝撃なのだが、逆の見方をすると、あれほど淡々と描かずして描いた物語の最後で、これほど衝撃を感じられるというのは確かに凄い。まさに『はぁ!?』というね(笑)。これ以上の印象は残せなかったろうと思えるほどのラストの潔さだが、それでも、ズルいとしか言いようが無いの。あのまま終わっていたら確かに『普通』の物語だし、あの姑息なラストはこの物語を昇華させるほどのインパクトはあったけどね、ズルい(笑)。
とは言いつつも、割に面白く読めたし、ズルいラストだと思いつつも、この著者の切れ味は堪能できた。こちら、ボウエン・コレクションとして今後2冊、併せて3冊のコレクションになる予定。読むな、多分次も読むな・・・(笑)。ちなみに既刊もあるので、機会を見つけて是非に。

エヴァ・トラウト (ボウエン・コレクション)エヴァ・トラウト (ボウエン・コレクション)
(2008/02)
太田 良子、エリザベス・ボウエン 他

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『トリコロール 青の愛/白の愛/赤の愛』

  • 2008/03/20(木) 00:11:42

K・キエシュロフスキ&K・ピェシェヴィチ著/和久本 みさ子 訳/ハヤカワ文庫
交通事故で夫と娘を失ったジュリー。1人だけ生き残った彼女は、亡き夫の遺作となった協奏曲を共同執筆していた友人オリヴィエの中に、新しい愛を見出すのだが。(青の愛)
ポーランド人のカロルは、美しい妻ドミニクのためにフランスへやって来た。しかし言葉の壁に苛まれ、終には離婚を言い渡される。気持ちのすれ違い、語れない愛への想いが、思わぬ悲喜劇を呼ぶ。(白の愛)
純粋な美しさのある女性ヴァレンティーヌ、法律家を目指すオーギュスタン、2人がすれ違いながら暮らす町では、ある老判事が盗聴の罪を犯しながら、人々の繋がりの脆さを1人嘆いていた。(赤の愛)


映画『トリコロール・シリーズ』、3本分のノベライゼーション。全ての物語が少しずつ絡むタイプのオムニバス、これは映画も同じ構成らしいが、今のところは未見だ。少なくともノベライに関しては、単独ではなく、3つまとめて1つの作品と言った感じ。
そのため、1つ1つの話はかなりライトなまとまり。最終的に導き出される答えの為の伏線のようにも感じられる。これらの話が全て90分超えの映画になっているというから、果たしてどのような膨らみを見せてくれるのか、大変興味があるのだ。大抵のノベライは、登場人物の深い心理状態を細かく文字で描ける分、映画そのものよりも膨らみがあると思っていたのだが、映画を観る前ではあるが、それもあっさり覆されてしまった気分だ。
私が映画監督だったとしても、この物語から90分は紡げない。しかしノベライはあくまで映画ありき、本編はきっとより膨らみのある仕上がりなのだろうと期待する。そこからいささか萎ませたのが、今回のノベライなのだろうとね(笑)。
つくづくK・キエシュロフスキーという人は、難解かつ単純なお話を書く人だと思う。相反しすぎだろうか?正直、これ以外に上手い説明が思いつかない。先に書いたように、個々の物語の概要は簡潔かつ明瞭だ。しかしそれゆえ不可解だ。単純過ぎるのだ、話が。しかし、その答えは冒頭にしっかりと明記されていた。導入部でも油断は禁物(笑)。
つくづく上手いなと思うのは、目に見えない概念的存在を、リアルに眼前に浮かび上がらせるその手法。目くらましのように、幾重にも折り重ねられた物語の畝。その下に、ハッキリと感じられるたった1つの要素。物語を語る言葉全てが、その1つの要素を示す隠喩のように感じられる。そして今回の要素は、『運命』という概念を描いてる。
今回は・・・?というか、思うにこのK・キエシュロフスキーという人は、常に避け難い『運命』を主題に作品を作っているように思う。ただ『何に対する』運命なのか?と言う辺りに、違いがあるのかな?今回はズバリ!『運命の愛』。
人を愛すると言う気持ち、代わりの効かない『運命の相手』。物語の主人公達は、それぞれがそうした『たった1人』に出会うのだが、既に別の伴侶がいたり、表面的な障害に苦しんでいたり、ただ相手を知らなかったりする。
文章のそこかしこに隠されるように、しかしハッキリと『これは運命の出会いである』と仄めかされていて、それを前提に読み進むと、全ての行動や台詞に違った趣向と面白さを感じられる。言わば、主人公達が己の『運命』を全うするための物語。偶然に見える事柄も、こうした運命を全うする為には必要不可欠な事柄であるという理論。
個人的な感想としては、排他的な読後感のある『青の愛』、狂騒的で奇想天外な『白の愛』、若い愛と未来への希望を感じられる『赤の愛』。当然最後が一番気に入った。若さと可能性に隠れた判事の不安な人生だが、きっと、ヴァレンティーヌによって一条の光が与えられた事だろうと勝手に安心する(笑)。
物語はこの『赤の愛』で統合を見せ、これまで描いてきた『運命』に対して一応の決着を見せてくれる。と言う事で、どうせ映画を観るなら『3本まとめて』が賢い判断だろう。しかぁ〜し!270分を越す大作となるので、中々思い切れない(笑)。

トリコロール―青の愛/白の愛/赤の愛トリコロール―青の愛/白の愛/赤の愛
(1994/07)
K. キェシロフスキ、K. ピェシェヴィチ 他

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『溺れゆく者たち』

  • 2008/03/12(水) 23:14:44

リチャード・メイソン著/那波 かおり 訳/Book plus
ジェームズは、45年間連れ添った妻を昨晩殺してしまった。完璧だった妻サラとの結婚生活、彼女の殺害を思い出すジェームズの思考は千千に乱れ、やがては50年前の初恋の思い出へと収束されていく。その日、ヴァイオリニストを目指していたジェームズは、公園で公爵令嬢のエラと出会い、2人は恋に落ちた。そして親友となるエリックとの出逢い、揺れ動く友情と愛情。その想い出は、年古りたジェームズにはもはや償えない痛みと苦しみをもたらす。初めて人に対する熱情を知り、相反する憎悪に突き動かされたジェームズの罪とは、一体何だったのだろうか。


18歳から書き始め、21歳にして華々しくデビュー。しかも人間の心の闇を描いた、味わい深いドラマだという。若く豊潤な才能を楽しむのは好きなので、こうした背景に興味を覚えた。確かに、紹介が謳っているように、俊英という言葉が相応しい作家だ。
ただねぇ・・・?変な言い方だが、十九二十歳にしては上手過ぎるのだ。しかも、70歳を過ぎた老人が、現在を後悔しながら過去を振り返るという設定。これもね、上手過ぎるが故に無理を感じてしまった。
70歳の老人ジェームズは改悛する。決して償えない罪に苦しみ、蘇る過去の芳醇な愛の香りに苦しむ。現在の自分を冷静に捉えつつ、過去の自分を第3者の様に感じながらも、やはり冷静に分析して語っていくのだが、余りにその描写や比喩的表現などが上手くて、とても20歳そこそこの青年が書いたとは思えないのね、ただふとその事実を思い出す度に、果たして20歳の若者がどれほど『老い』を知っているのだろうか?と考えてしまう。余りに饒舌でリアルであるから尚の事、事実を追求したくなってしまう。
しかも本当に、全てが上手い。風景や人物など全ての描写が、流麗かつ周到な言葉使いで描写されていく。若き日のジェームズ、エラ、エリックの心の動きも、一般論に固執する事無く、しかしそこから逸脱し過ぎる事も無く巧みに描かれている。キャラクターがいささかステレオタイプだったかな〜?という気はするが、果たしてこれは著者の狙いなのか、はたまた未熟さから出たものなのか?
隠喩や比喩を多用した多少回りくどい言い回しだが、それ以上に美しいと思える文章運び。実に非凡な才能だと思うのだが、年齢を考えるとそれが若干鼻に着く(笑)。余りにも上手い分、それが過ぎると何だか借り物の様な気がしてしまうのだ。隙が殆ど無い鉄壁の文章だったと思うが、その完成度の高さが逆に人真似に感じてしまう。
その上、上手過ぎて文章に若さが無いのだ、当然描くべき年齢の人が書いたならまだしも、20歳で70歳の老人をああも緻密に描写されちゃうと、それだけで若さの欠如を感じてしまう。しかし反面、この『やりすぎ感』が、出来る自分を表現したいという、それこそ真っ当な『若さ』から来る自惚れにも感じられる。
とにもかくにも、滅法文章の上手い作者である。物語はどうか?というとそれはまた別の話。私の場合はとにかく文章にばかり集中して、肝心の物語は流していたというか(笑)。衝撃的なまでの傷跡を残した初恋の物語としては、まずまず面白い出来。
冒頭でジェームズの殺人を告白してしまう、この意図はどこにあったのだろう?それでも楽しませるという自信か、構成上致し方無かったのか?語り部をジェームズにしたとしても、殺人を最後まで取っておく事は出来たはず。そのほうが、意外な結末を2つ用意できる事にもなる。殺人を最初に明かしたおかげで、もう1つの結末を容易に想像できる展開にしてしまうので、やはりこの意図には悩んでしまう。
もちろん、必然的にジェームズが殺人を犯すまでの出来事を、いかに緻密に描くか?という事だけが主題なら、それは間違いなく成功していると思うし、ドラマとしては十分楽しめる。だからこそ、無駄に答えの解るミステリ要素を入れなければ良かったのに、と思ってしまうのだ。カテゴリーとしたら、『青春初恋ドラマ』にしてあげたい。『ミステリ』じゃ評価下がります、『サスペンス』もまたしかり。
ともあれ、この作品が本国で発表されてから10年程が経過している。俊英さに落ち着きも加わっている事だろう。残念ながら次作以降は未翻訳だが、新作も発売された様子だし、次なる翻訳出版を期待している。処女作の完成度の高さから、しかしそれゆえに見え隠れする未熟さから、成長が楽しみな作家だ。

溺れゆく者たち溺れゆく者たち
(2001/02)
リチャード メイソン

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『いい人になる方法』

  • 2008/03/03(月) 21:02:09

ニック・ホーンビィ著/森田 義信 訳/新潮文庫
40歳を過ぎた医師のケイティは、出張先の駐車場から夫に『離婚』の意思を告げてしまう。夫デイヴィッドは怒れる男だ、機嫌の良い時など皆無と言える。それなのに、勢いの離婚話が落ち着いた頃、ヒーラーのグッドニュースという怪しい男と出会って180度方向転換してしまう。デイヴィッドの中から怒りや憤懣の影は消え失せ、慈善事業にまで乗り出した。それまでデイヴィッドの怒りに気圧されて、自分を『良い人』だと思ってきたケイティだったが、グッドニュースとデイヴィッドの新たなる博愛精神によってその土台が脆くも崩れ去る。果たして、ケイティの結婚生活はどうなるのか?実りのある美しい人生って、一体どこにあるのだろうか?


ニック・ホーンビィを初めて読んだのは『ハイ・フィデリティ (新潮文庫)』。文庫が新刊で出た頃だったと思うが、以来、物語が苦手な作家として倦厭していた。余りにマヌケな男達が主人公で、個人的には全く『愛すべきダメ男』とは思えず、単なる本物の抜けサクだと。
この作家の物語は、映画で観るほうが面白いと思う。何しろ、主人公(男性30代前半から半ば)のボンクラさが、映画では多少なりとも和らげられるから。
と、思っていたのだがぁ〜、『天使だけが聞いている12の物語』に掲載されている短編を読んでから、少しだけ見方が変わった。本当はこの人、とんでもなく『上手い作家』なのじゃないだろうか?と。遅いですか?すみません(笑)。
何が上手いって、『人間を描き出す』ことだ。という事は、人間観察と想像力にも、もの凄く優れているのではないだろうか。大体そうでなかったら、キャラクターの考えをこれほど複雑に興味深く描けるはずも無い。大抵どんな作品のキャラクターでも、なるほどそういう思考になるかという、ある程度の『納得感』がある。読みながら推測を重ね、ちょっとばかり突拍子も無い思考でも着いて行けたりする。
離婚を決意し、浮気までしちゃったのに思い止まり、家族のためにと言いつつ、その家族を愛しているのか自信も無く、それでも何とか夫婦を続けようと思ったら、今度は夫が無類の『良い人』になってしまうのだ。
その『良い人振り』は余りに極端で、普通に暮していたはずのケイティは戸惑わざるを得ない。これまで最悪の夫がいたから、自分を『良い人』と思えていたのに、それすら不可能になってしまう。医者という職業からも『良い人』であると思えていたものが、単純な職業的鬱憤から、患者を愛せなくなっているケイティ。これまで自分自身を『良い人』だと思っていたものが、一瞬にして覆される。この作品のプロットの面白さは先ず第一にこの辺りにあるだろう。
そして、無職の夫に対して『医師』という真っ当な仕事を持ち、家族を支える大黒柱が女性であると言う点、これもまた面白い設定だ。この辺は著者自身『男と女に違いはあるの?』という観点から書き始めたというが、やはり違いはある、と私は思う。ケイティの思考はあくまで『女性』であり、その点がこの物語を形作る要点になっているからだ。
だからこそ凄い、これまで『男の思考』を描き続けて来た著者が挑んだ『女の思考』、これは素晴らしい出来だったと言える。ケイティはまさに生きていて、余りにリアルで余りに面白い。だからこそ、ケイティの思考が確実には読めなくて、物語がどう転ぶのか?先が見えないまま興味深く読み続ける事が出来たのだ。それに加えて、良い人と悪い人の境界線やその判断の難しさ、そうした複雑な感情が細やかに活き活きと描かれている。
ただラストに関しては、個人的に不満が残ると言わざるを得ない。ケイティとデヴィッドの夫婦。美しい人生はあるのだろうか?ラスト付近で2人が語る『これから』は余りにも無味乾燥で、家族って『愛』が無くてもやっていけるのだろうか?と疑問に思った。
思い切って別れてしまう事も、より良い人間関係を築く一助になるのじゃないだろうか?ラストの描写は、一抹の安心を呼ぶものか?それともこの著者なりのシニカルさが全面に押し出されただけだろうか。はたまた、『人生ってそんなに甘くも美しくも無いんだよ』という、痛烈なメッセージなのか?
いずれにしろ、少し後ろ向きな解決を得たこの家族の未来が、何となく不穏な状況で見えてしまった気すらした。惰性で繋がっていく家族、そんな印象すら受けたので、いまいち納得が行かないのだ。
確かに家族って、特に夫婦というものは、『燃えるほどの情熱』は時間と共に消火していくものだろう。その代わりに生まれる『愛の形』は、決して『惰性』ではないはず。これは私が独身で、単なるロマンチストだからなのか?認めて頂けるなら、決してそんな冷めたことばかりが結婚ではないと、私は思っていたいのだけど。

いい人になる方法 (新潮文庫)いい人になる方法 (新潮文庫)
(2003/05)
ニック ホーンビィ

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『ジュノ&ジュリエット』

  • 2008/02/24(日) 17:50:58

ジュリアン・ゴフ著/坂本 徳子 訳/河出書房新社
大学に入学した双子の美しい姉妹、ジュノとジュリエット。2人は閉鎖された田舎町から、都会ゴールウェイにやって来た。誰もが振り返るほど美しいジュノは、マイケルという恋人が出来、ジュリエットは大学講師のデイヴィッドに恋をした。新しい生活にも慣れ始めた頃、ジュノに陰湿な手紙が舞い込む。演劇活動への参加、大学での知識探求、新しく手に入れた自由な生活の中で、ジュリエットは子供から大人へ変わっていく自分達を冷静に見つめていた。


アイルランドの新進気鋭作家の処女作だそうだ。男性が書いた美しい双子の姉妹の話。文章運び、物語の全体像、とても女性らしい穏やかな印象で読みやすい。しかし書いたのは男性(笑)。そうなると、なんとも中性的な筆致を持った作家だという事になるが、物語自体は男女問わずに成り立ちそうな感じ。ただ女性を主人公にしたほうが、展開がスムーズだったのだろうと思われる。
あらすじからは、一種サスペンス的なノリなのかな?と思っていたが、実際は普通の青春小説。語り部であるジュリエットが、淡々と『あの頃』を振り返っていく。大学に入ってからの『新しい生活』の中でも、特に印象的な事柄や人々を上手く使いながら、18歳という青春時代の一片が語られる。格別に興味深い出来事や引き込まれる手法が多かったとは思わないが、あっという間に読み進んでしまった。
理由の1つとしては、語り部であるジュリエットが自然体に描かれていた事。大学や家族に対する反抗や、友人達に関する批判的な目線、妙に達観したようなわざとらしい冷めた感情など、こうした年代が描かれる上で多用される攻撃的な雰囲気は潜められ、ただ純粋に、この年齢と様変わりした生活や感情にに戸惑っているかのようなジュリエットの姿が好ましく、また取り付きやすさを感じた。
そしてやはり、この作品の端々に潜む『アイルランド』的要素が私には良かった。地元ゴールウェイをこよなく愛する著者らしく、読んでいるとかつて訪れたゴールウェイの姿が脳裏に浮かぶ。作中では『都会』と匂わせているゴールウェイだが、実際はかなり小さい町。アイルランドの首都ダブリンですら、ヨーロッパ諸国の首都に比べたらかなり牧歌的であるから、それ以外の町といえば言わずもがな。
その反面、町の短い目抜き通りを抜けると広大な湾が広がり、美しい緑も遠目に見え、少し歩けば大きな道路にぶち当たる。自然と都会的雰囲気を気持ち良く融合した、とても居心地の良い町、それがゴールウェイだと私は思っている。
そんなゴールウェイですら都会であり、18歳のジュノとジュリエットにしてみれば世界の中心になってしまうぐらい、彼女等の故郷は小さな町だという設定。どれほど閉鎖的で、どれほど密接な集団意識があったか、こちらも想像に難くない。そんなジュリエットだから、感じる事、想像する事など全てが『アイルランド的要素』から抜けきれないのだ。
特にアイルランドを強調してる訳ではないが、物語に避けがたく染み込んでいるその世界観がたまらなく魅力的だった。
もう1つ、ジュリエットが恋をする講師のデイヴィットは英文学を選考しており、彼の語る文学への思いや考察がなんだか熱くて胸がジーンとした。これは、こうして1つの作品を上梓した著者の、気持ちの奥に潜む文学への思いだったのかもしれない。こちらも、大方はアイルランド文学に傾倒した記述が多く、とても興味深く読ませてもらった。
ジュノとジュリエットは一卵性双生児。全く同じ外見で、同じ人間として育ってきた2人は、この節目となる1年で別々の人格を持った別人なのだと理解する。それぞれの個性を認めたくないジュリエットと、認めざるを得ない事を知っているジュリエット。相反する思いが最終的に融合し、たった1人のジュリエットとなった時物語は終わる。もちろん、ハッピーエンドでね。

ジュノ&ジュリエットジュノ&ジュリエット
(2002/05)
ジュリアン ゴフ

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『クリスマスの食卓』

  • 2007/12/23(日) 12:47:20

メイヴ・ビンチー著/ハーディング祥子 訳/アーティストハウス
クリスマス、それはカソリックを信じる人達にとっては特別な日。キリストの生誕を祝うという名目以上に、それぞれが様々な思い入れを抱えて送る日々。誰もが幸せというわけには行かないが、それでも幸せや奇跡を信じてみたい、そんな人達を綴る15編の短編集。

最初の一歩/十枚のスナップ/「自由の女神」の贈り物/「頑固同盟」/相性テスト/大人の分別/心の窓/接着剤/バラムンディ/いつもと違うクリスマス/クリスマスの空騒ぎ/ピース・メーカー/道連れ/幸せって何?/街で一番のホテル


時たま、どうしてこんな普通の出来事を物語として紡げるのだろう?と思う事がある。そしてそれを、とても羨ましいと思う。劇的な事ばかりが物語として成り立つ訳じゃない、私達が暮すこの世の中の日々が、そのまま描かれる事もあるのだ。
もちろんそれを成し遂げるためには、単に日常を書き留めるだけじゃいけない、それなら単なる日記レベルであるからだ。余りにも普通の事、些細な事であるのに、それが物語として成り立って、読み手を惹き付ける魅力を備えていると言うところに感嘆するのだ。これはそんな作品。しかもとても素敵な作品集だ。アイルランドを代表する女流作家、M・ビンチーの手腕が遺憾なく発揮された、普通の人々のクリスマスの風景。
単に甘ったるく奇跡を強調するでもなく、家族や恋人、友人との心温まる交流をコテコテと塗りたてただけではなく、幾分冷静な視点と判断、それが筆致にもそれとなく感じられる文体で綴られていく。一歩退いたような目線と価値観が心地良く、物語が安っぽくなるのを防いでいる。
『「自由の女神」の贈り物』などは割合とステレオタイプに『クリスマスの小さな奇跡』を物語ってはいるが、その基盤にある主人公の疲れた立場など、ピリリとした要素を忘れていない。
『「頑固同盟」』もまた然りであるが、これはもう著者の手腕の賜物、頑固な老人と少しだけ奔放な女性との交流を通して面白く感動的な物語に仕上がっているが、老人目線のコミカルな温かみがとても良い。
不倫の恋も幾つか描かれているが、これは熟年の女流作家のシビアな目線が上手く効いており、否定するでも無いが、叱咤激励するような再生の姿が多く描かれていたように思う。例外は『幸せって何?』だろうが、これは子供を主役に据える事によって、やはり世の女性達に訴えたい要素がきつ過ぎず伝わる手法になっていると思う。
個人的には、クリスマスに翻弄される中年女性、『母』という立場から描かれた幾つかの短編が気に入った。やはり、著者に一番近い立場というのもあるのだろうか?
『いつもと違うクリスマス』がこの短編では一番だった。クリスマスに関して色々と思い悩む母、その気持ちを全く違ったように受け止める家族。それでも彼等には紛れも無い『愛』があり、それだからこそ、そんな行き違いも面白くまとまってしまうのだ。
ラストを締め括るに相応しい『街で一番のホテル』では、既存の考えに凝り固まってしまった大人を、柔軟でクリスマスに対する固定概念が無い、むしろ通年のクリスマスからそれ相応のクリスマスを楽しんできた子供達が導くという設定か?長年鬱憤として溜め込んできた大人達の思いを、優しい子供達がアッサリと覆す。その視点が余りにも優しい。
そう、M・ビンチーの作品は、結構痛烈な批判や指摘も含まれているように思えるが、それを限りなく優しい祖母的な温かい筆致と雰囲気で覆っているところに良さがあると思う。不倫はいけないよ、自分を持って強く生きなさいと、偏見や悲観は自らを暗い闇に引き込むものだと、希望を忘れてはいけないと、ドライな語り口ですすめていながらも、その端々に優しさとコミカルさを感じる。このなんとも言えない絶妙な筆致が、こうした普通の日々を物語りにする上での、最大の要素なのだろう。
実に素朴で素敵なクリスマスを舞台にした、普通の人々の普通の物語。大げさな奇跡などはいらない。奇跡を生み出すのは人間達なのかも知れない、日々を普通に生きる私達なのかもしれない。幸せを作るのは、そんな普通の人達のほんの少しの気持ちの変化だと、優しく、反面力強く語っているような良書だった。

クリスマスの食卓クリスマスの食卓
(1998/12)
メイヴ ビンチー

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『9990個のチーズ』

  • 2007/12/23(日) 00:18:03

ヴィレム・エルスホット著/金原 瑞人・谷垣 暁美 訳/ウェッジ
もう直ぐ50歳になるしがない事務員のラールマンスは、母の葬式で出会った金持ちのスホーンベーケ氏の勧めで、ベルギーとルクセンブルク大公国における総代理店となる。『実業家』になれたと喜ぶラールマンスだったが、現実はそう甘くは無い。オランダから届いた大量のチーズは全く捌けず、ラールマンスに重くのしかかってくるのだった。


コメディかと思ったら、のっけから母の死への過程や、それに対する主人公のドライな視点、それでいて胸を掴まれるような悲壮感など、シリアスな展開にやられた。全体のトーンとしては全くコメディは無い。どちらかと言ったら、ブラックジョーク・・・というか皮肉?に近い気が?
主人公のラールマンスが、なんとも言えず・・・ちょっと・・・、嫌なヤツ・・・なのだ。自我が強く自惚れていて、そのクセ見ていて哀れを誘うほど周りが見えていない、解っていない。解説や紹介では、憎めない嫌らしさ的に書かれていたが、イヤ、そうか?
かなり冷笑と共に見つめてしまったのだが、ラストにかけては余りにみっともなくて軽い同情すら覚えた。ラールマンス・・・もうっちょっと学ぼうよ〜というね(笑)。
人間なんてこんなものなのかも知れない。自分の知らない上の世界を望みながらも、自分が知っている世界からなかなか抜け出す事が出来ない。そのクセ自分は視野が広いとおごってみたり、別の世界を理解しているつもりになっていたり。ただそんな人だって、本当に全く違う世界に思い切って飛び込める勇気を持った人は少ないと思うのだ。しかも何の準備もなく、根拠の無い(もちろん実績も能力も無い)自信だけを携えて。
それをやってしまう、やらかしてしまうのがラールマンスであり、しかも本当に子供並みの能力しか持ち合わせていないのだ。チーズを売るための知識は一切無いが、『憧れの実業家』のビジョンだけは有り余るほど有るラールマンス。チーズを売る事が先決なのに、事務所を作ったり、タイプライターや机を買ったり、電話を引いたり、『形』ばかり気にしている。
自分は事業主だからとチーズを売って歩くのを拒み、実際はチーズなんか大嫌い!と来ているから尚悪い。おまけに商品を知ろうともしない傍若無人ぶりに苦笑いどころか、本気でイライラしてしまう(笑)。『歩け〜〜!自ら汗を流して最初のチーズを売るんだ!!!』と怒号を飛ばしたくなってしまう(笑)。
『実業家』としては全くもって幼稚なラールマンスの姿を大抵の作品はコメディに仕立ててしまうのだろうが、それをあくまでもシリアスに描きつつ、その裏に読者様々な視点が持てるように仕立てた作品だと思う。私のように若干イライラしつつ読んだり、ラールマンス氏の姿に、中年の悲哀をみたり、感想は様々に分かれるだろう。
そして本当のラストでは、今いる自分の環境に対する感謝を思いだせるような印象だ。それでもラールマンスはやはり捻くれているが、そんな姿からも、『周囲の人』に対する目線を、今一度問うているような気がしてきた。不変な姿、なのだろう。ラールマンスは極端ではあるが、普通に生きる人間のいつの世も変わらぬ姿が描かれているのだろう。そして、自分の周囲にはスホーンベーケ氏もいれば、ラールマンスの家族、そして母や兄のような人々もいてくれる。この作品を読んで、自分の今の姿や、自分を取り巻く人々の本当の姿を探ってみたい、そんな気持ちになった。

9990個のチーズ9990個のチーズ
(2003/06/18)
ヴィレム・エルスホット、谷垣 暁美 他

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『how i live now わたしは生きていける』

  • 2007/12/10(月) 21:47:24

メグ・ローゾフ著/小原 亜美 訳/理論社
産まれた時に母を亡くし、継母との折合いも悪くて摂食障害になったNYに暮らすデイジー。腹違いの妹が産まれた事もあって、イギリスの伯母の家を訪れた。伯母の一家は風変わりで、皆何かしら凡人らしからぬ能力を秘めているようだ。中でも、人の気持ちが読めるエドモンドとデイジーは惹かれあい、お互いを大切な存在として認めるようになる。しかし伯母が留守の際に、折り悪く戦争が勃発。少年と少女達は懸命に子供達だけで生きようとするが、彼らは保護と称して引き裂かれてしまう。愛する者を失った悲しみと、守るべきものの存在。デイジーは幼いエドモンドの妹パイパーと共に、失った幸せを取り返そうと歩き始める。


荒削りな文体なのか上手いのか、判断がつきかねる雰囲気だったが、流れとしては読みやすく惹きこまれる。児童文学としてカテゴライズされているからか、突然始まった戦争の描写は余り激しくないが、もしかしたら、この文体とデイジーによる淡々とした語りが、そう感じさせたのかも知れない。
作者が生み出した『第二次世界大戦を懐かしむ』ような現代の戦争。その姿は果たしてどこまで『現実』として起こりうるのか?考えてしまうところではある。敵の姿は複雑化してうやむやにされているが、一般市民が受ける被害は随分と古臭い印象だ、まさに生身で受ける戦争が描かれている。
しかしこれで良いのだと思う。戦争を知らない世代?果たしてそうだろうか?私達は、そしてもっと幼い子供達だって、戦争は知っているのだ。今まさに、世界の別の場所で戦争は起こっている。それを私達は体感しないだけなのだ。現代に生きる私達はもしかしたら、『戦争』という本当の意味を、戦争が生み出す本当の悲劇がある事を忘れているのかも知れない。『戦争』が引き起こす悲劇は既に、小説や映画の中だけの事と安心しているのかも知れない。
そんな私達に、この小説が持つ戦争の意味を伝えたいのなら、多少古臭くてもなんでも、デイジーが経験した極限の状態は必須であったろうと思われる。愛するものを奪われ、傷つき飢えながら進むデイジーの道。簡単に想像はできなくとも、かつて起こった事実を学んだという知識から物語に共感ができる。
幼い恋にすがりつき、戦争の過酷さを生き抜いたデイジー。離れ離れになってもエドモンドを求めた姿は、デイジー達が過ごした危険な日々とは相容れないほど幼さを感じる純粋なものだった。それまで安穏と生きてきたデイジーは、無為に大人たちに反抗できるほどの心の余裕があったのだと気がつかされる。戦時中という、心の余裕を失った時、デイジーはそれまで抱えていた肉体的や精神的な痛みを無意識に克服してしまう。『生きる』という事、『愛する』という事に生の全てを集約させる日々だったのだろう。
そして大人になったデイジーが見出した生きる場所。そこに込められた力強さになぜだか清々しさを覚えた。そして、架空の戦争であったにも関わらず、それがようやく終息を向かえた安堵感が押し寄せた。

わたしは生きていけるわたしは生きていける
(2005/04)
メグ ローゾフ

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『海に帰る日』

  • 2007/12/09(日) 22:36:52

ジョン・バンヴィル著/村松 潔 訳/CREST BOOKS
長年連れ添った妻を亡くしたばかりのマックスは、自分でも理由は釈然としないまま、幼い頃、夏の日々を過ごした保養地にやってくる。初めてのはっきりとした性への目覚め、人を愛するという事を学んだ思い出のあの夏の日々。そして、今も心の中に鮮明に思い出せる夏の終わりの事件。妻との最後の日々と交錯するように、徐々に鮮やかに思い出される少年の日々は、マックスにとってその後の人生を決定つける布石のように思える日々でもあったのだ。


あ〜、また、やっちゃいましたかね。こちらは、アイルランドを代表する著者が、数度のノミネートの末とうとうブッカー賞を受賞した作品。詩的で透明感のある文章、マックスという初老の男の胸の内を、亡き妻との日々と少年の頃のひと夏の思い出をクロスオーバーさせ、一見あいまみえないような出来事を通して描き出す。そしてその2つの日々は、はっきりとは語られないまでも僅かな相違点を持ち、マックスという人間を形作っている要素を浮かび上がらせる。
気持ちの内を奥深くまで抉る技法、それを持たせる確かな筆致。それは素晴らしいと確かに思う。思うのだがぁ〜・・・・・、マックス、こんな風に細々ふかぶかと自分について、思考について、人々について、人生について、生活について、考えていたら、老化も倍速で進みますよ、と苦しい程に窮屈さを感じてしまった。
元来、そうしたネガティブ思考とは無縁で、またそうありたいと務めている。私は一体何なのだろう?私と言う人間は、いかにして作られたのだろう?果たして、今の私は完璧なのか、幸せなのか?考えるのは良い事だろうが、突き詰めすぎると暗闇に没入してしまいそうだ。
従って、やはりこの作品(ブッカー賞はどうも苦手だ・・・といつも言っているのに手を出す愚か者)は無理である。読み手が悪い、ただその一言。
ただ思ったのは、前に読んだ『バーチウッド』の陰鬱とした暗さとは違い、交々少年なりの駆け引きや鬱積した感情もあったろうが、夏の海を背景としたどこか爽やかな印象は良かったと思う。あれほど悶々とした少年の日々だったにも関わらず、文章中には確かに夏の爽やかさが漂い、短いアイルランドの夏を感じる事が出来た。
読み手の力量不足、実に残念ではある。精進すべきか否か?今後も、このアイルランドを代表する現代文学の書き手の作品は読んでみたい気もするのだが・・・。

海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/08)
ジョン・バンヴィル

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『緑の影、白い鯨』

  • 2007/12/08(土) 15:36:59

レイ・ブラッドベリ著/川本三郎 訳/筑摩書房
世の中にようやく認められ始めた若き作家の『わたし』は、尊敬する映画監督の次作、メルヴィルの『白鯨』の脚本を書くため、監督が暮すアイルランドへやってきた。独特の価値観を持つ島国に暮す素朴な人達との交流は、若き脚本家に新鮮な衝撃と温かさと笑いを、奇矯で知られる天才監督との仕事の日々は、脚本家にとって戦いと敗北の連続だった。著者自信が、名監督として知られるジョン・ヒューストンとの仕事、アイルランドでの暮らしを下敷きに描いた自叙伝とも言える回想と郷愁の物語。


ようやく読めた、幻想的な作品の名手であるブラッドベリのアイルランド連作。その作品の多くは、現実的でありながら幻想世界を感じさせ、独特で風変わりな人々が織り成すシニカルでありながら優しさを感じられる作風だ。そしてこの作品は、実在した映画監督をそのまま実名で登場させ、これまでの作品に無いほど『現実世界』としてアイルランドを取り上げていながら、語り部である『私』は、ブラッドベリ自身のようでも名前は与えられていない。純然たる小説世界であり、またそうでも無い一線を、著者独特の筆致と構成で巧みに紛らわしているのだ。
ブラッドベリのルーツはアイルランドにあるらしい。そして著者自身がアイルランドを訪れた際に非常な感銘を受け、アイルランドについて描きたいとして著した作品だそうだ。そんなアイルランドに対する思いが、しかもこの著者らしい独特の目線で温かく描かれている。アイルランドとアイルランド人に対するその思いや意見は、そのまま一般で言われる『アイリッシュ論』と匹敵し格別新しい意見では無いように思えるが、そこは一流の著者たる力量からか、非常に解りやすくまた共感を覚える描き方でまとめている。
様々なサブエピソードを交えながら、無為な戦いにこそ熱意を燃やすアイリッシュ、敗北から幸せを築く才に長けたアイリッシュ、屈強な雑草のような逞しさと、僅かな太陽でも無いよりは幸せとばかりに咲き誇る夏の花々のような明るさ、試練の時の中で、独特な価値観を見出したコミカルなアイリッシュの姿を描写してくれる。
その描写や台詞の中で、著者自身がある程度の距離を保ちながらも、アイルランドとアイルランド人に格別の優しさと尊敬を抱いていた事が伝わってくる。ラストにおいて彼等に語った『わたし』のアイリッシュ論、思わず感動して泣けてしまった。強く逞しく、決して秀でようとはせず、有りのままの姿を大切に慈しむ彼等に、今まさに世の中で認められ羽ばたこうとしている著者である『わたし』は、忘れてはいけない個人としての尊厳を見出したのかもしれない。
反して栄光と繁栄と溢れるばかりの才能に守られた天才監督には、これまた溢れんばかりの尊敬の念を感じさせながらも、素朴なアイリッシュとは違った描き出しを見せてくれる。人間臭く、ある意味まだ『わたし』が属する世界にある仲間としてのアイリッシュ達と、また別の世界、これから『わたし』が行こうとしている世界の頂点にいるような監督。
傍若無人で若き脚本家を翻弄する監督は、まさに『怪物』であり太刀打ちできない脅威だ。そんな彼の強烈なまでの人間性に圧倒されないように挑む『わたし』の戦い。その敗北を癒してくれるのが、敗北を嫌と言うほど経験し、もはや敗北が土台に無いと物事が始まらないと言った陽気なアイリッシュ達。2つの世界を行き来しながら、『わたし』は自分の求める世界を実感していくのだろう。自分があろうとする未来の『成功した自分』は、きっと天才監督の世界にはいないという事が、語らずして伝わってくるようだった。若き脚本家は、けっして身の丈以上に自分を大きく見せようとせず、あるがままに誇りを持って生きるアイリッシュの事を、生涯忘れずに暮したはずだ。
ブラッドベリらしからぬ『現実的』な物語だ。一風変わったキャラクターも世界もほとんど出てこない。しかしこの作品において、他の作品に良く見られる『風変わり』は、本人達の意識の有無に関わらず、『アイリッシュ』と『ジョン・ヒューストン監督』なのだ。その存在は普通であるはずなのだが、自分の小さな世界に生きてきた『わたし』にとっては、十分に奇異な姿と衝撃度を持ていたらしい。だからこの作品は、一部回顧録でありながら、十分に創作作品としてブラッドベリの『物語』の1つとして数えられる。
余所者をあっけらかんと受け入れるアイリッシュ、しかし、どこかよそよそしさを残した親しみ。それがなぜか心地良い不思議。『アメリカさん』と呼ばれる『わたし』も、けっしてアイリッシュになりたいと熱望する素振りは見せず、余所者として最後まで彼等と接していく。
しかしそれでも、彼等は無二の仲間であると思え、感動的で素っ気無い別れのシーンに繋がっていく。離れていても家族は家族。愛を語りあわずとも、最後まで思い続けられる。そんな存在感をそれとなく作り上げてしまうアイリッシュ達に、『わたし』は自然で圧迫感の無い共鳴を見出していく。これまで読んだ、外国人が描いたアイルランド世界の中で、ダントツで素晴らしい出来栄えで、『アイルランド』の姿を温かく描き出した作品。ブラッドベリの飄々とした作風の中に、深い愛情を感じられた一作だった。

緑の影、白い鯨緑の影、白い鯨
(2007/10)
レイ・ブラッドベリ

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