『ゼロ時間の謎』

2008年06月21日 00:38

〔仏〕L'HEURE ZERO (2007年)
監督:パスカル・トマ
原作:アガサ・クリスティ
脚本:フランソワ・カヴィリオーリ/ナタリー・ラフォリ/クレマンス・ドゥ・ビエヴィーユ/ロラン・デュヴァル
メルヴィル・プポー/キアラ・マストロヤンニ/ローラ・スメット/ダニエル・ダリュー/アレサンドラ・マルティネス/フランソワ・モレル/クレマン・トマ/ジャック・セレ/ザヴィエ・ティアム/エルヴェ・ピエール

資産家の青年ギヨームは妻キャロリーヌと共に、叔母カミーラの別荘へ毎夏恒例の滞在をする。そこにはなぜか、ギヨームが呼んだ元妻オードも来ていた。離婚によって不安定になっているオードを気遣う為にと、彼女と親しい親戚のトマも呼び出された。近隣のホテルには、カミーラの古くからの友人で著名な弁護士トレヴォーズ、キャロリーヌの友人で怪しい雰囲気のフレッドなどが宿泊しており、なぜだか不穏な空気が漂う屋敷を心配する、カミーラの使用人マリ=アドリーヌもいた。そんな中、以前から心臓の弱かったトレヴォーズがホテルで亡くなり、マリ=アドリーヌの予感が的中したように思えたのだったが・・・。

中学生だった私を、ミステリの世界に引き込んだ張本人アガサ・クリスティ。『そして誰もいなくなった』を読んだ時の、重厚で感極まるような読了感を超える作品は今もまだ無い。と言っても、読書の楽しみに目覚めたばかりで、面白い作品を求めて、有名作家の作品を手当たり次第に読んでいた頃のことだ。例えばこの時に、エラリー・クイーンかはたまたG・K・チェスタトンなんかを読んでいたとしても同じように、『天才があたしの手の中にいる!』と大袈裟な感動をした事だろう。
いずれにしろ、私の浅はかな経験値に抉るような跡を残したクリスティ。当時はほとんど崇拝していたので、クリスティの過度な『女性らしさ』というものにはほとんど気が付かなかった。
そんな訳で、この作品を観て改めて、クリスティの『過度な女らしさ』を思い出した。この映画は、クリスティの多分にロマンチストな要素が大きく反映された作品だったと思うのだ。原作の方は未読なので、これがどれほど原作に沿っているのかは判断不能だが、事件全体としては、その『女性的要素』も含めて、クリスティらしさは十分に活かされていたと思う。
それにクリスティに関しては、この『女性的要素』が重要なのだ。だからこそ、女性ファンも多いのだろう。メロドラマとミステリが交じり合ったような作風だが、ミステリに関しては世界が認める一級品だ。メロドラマも十分に読ませる力量で、ミステリにおける色恋沙汰を、これほど『ソープオペラ的』に仕上げた人も類を見ないだろう。それこそが、クリスティらしさの真髄と言えるのかも。
と言う事を、この映画を観て改めて思った(笑)。要するに、良く出来ている映画なのだ。事件がなかなか起きないところも結構ドキドキさせてね(笑)。一堂に会させての鮮やかな推理・・・は、まぁ、ボチボチという感じなのだが、心理的要素を複雑に利用した展開はお見事だと言える。
その心理的要素を考えつつ、全ての結末を知った後にもう一度見直してみると、M・プポーが不気味なぐらいに秀逸な演技をしている事が解るだろう。M・プポー演じるギヨームの持つ二面性を、実にさり気なく気味悪いくらいに表現している。二度観れば、全く違ったギヨームを通して、作品も全体的に、違った見方をして楽しめると思う。
そしてそのギヨームを通して、必然的に二面性を表す事になるオードを演じるC・マストロヤンニ。マルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーブとの娘だそうだが、ちょっと笑ってしまうぐらい父親にソックリ。母の血は、血はどこに!?いやでもでも、マルチェロ・マストロヤンニは名優であると同時にかなりの『美男子』だった訳なので、それに似ているなら十分か?
作品の本質としてクリスティらしくはあったが、全体の視覚的な『イギリスらしさ』というのはやはり難しい。妙にもったいぶったどん臭いイギリス的印象は薄く、颯爽とテニスをするM・プポーがやけに眩しい(笑)。女性たちも絶妙にスタイリッシュで、やはりおフランスな感じ。とは言え、映画としてイギリスの模倣をしたかったのではないだろうし、余り気にするべき箇所では無いだろうな。
変な話だが、私はこの映画で、あの懐かしの佐野史郎演ずる『冬彦さん』を思い出した(笑)。いやいや違う、久し振りに、アガサ・クリスティーに首まで浸かりたい気持ちになった。

ゼロ時間の謎ゼロ時間の謎
(2008/06/04)
メルヴィル・プポー

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ぽすれん『ゼロ時間の謎』紹介

時間に対する価値の付け方

2008年06月21日 00:30

『時間は神様からの最大の贈り物です。それを得るために働く必要もなく、お金を払う必要もありません。神様は何の条件も付けず、時間を白紙の状態でくださいます。それにどれだけの価値を付けるかは、あなた自身が決めることです。』

良い言葉だ。今読んでいる小説の中で語られた言葉。あるカソリックのシスターが、放蕩を重ねる主人公の心に残した言葉だ。私も何度か、時間の有効活用といった日記を書いたが、要はこういうことが言いたかったのだ。自分が上手く表現できない事を、これほど端的に印象的に的確に表現された文章を読むと、つくづく、小説を読んでいて良かったと思う。

アイルランド好きならば、決して避けては通れない宗教。とりわけ、敬虔なカソリックという世界だ。根本的に無宗教で、あえてどちらかと言うなら、仏教の方が肌に合っていると思う私。特にカソリックは、信仰に於ける良い面よりも、制圧的な事柄や禁欲的な理不尽さなどの印象が強い。要はキリスト教の教えには余り心動かされないのだが、時間に関するこの考え方は気に入った。
『ただそこにある』という意識ではなしに、無償のギフトなのだと思えば、それを生かすも殺すも自分次第なのだという価値観を身近に感じられる。時間そのものに価値があるのではなく、価値を持たせる事が重要なのだと。ただ無為に『価値ある時間』を浪費するのでは無い、何もしなければ時間は白紙であり、無為に過ぎているでもない代わりに、その人の過去の時間には、何ものも描かれてはいないという事だ。そうして無価値な時間の歴史が、長々と刻まれていく。

とまぁ、こんな風に心をぐわっしぐわっしと揺さぶられながらも、本日は仕事帰りに美容院に寄った。前回、美容院の指名制度に困惑しているという日記を書いてから早半年、その後の経過報告を怠っていたわけでもなんでもなく、ただ単に『行っていなかった』というだけ・・・。
何かと日々忙しくしている。美容院に行きたいなぁ〜と思っても、別の用事にかまけてしまう。もう1つ言えるのは、私が非常な電話不精である事だ。電話って、しようしようと思っても、ついつい先延ばしにしてしまうのだ。手紙の類もそうであるが、とかくだらしの無い性分なのだろう。
しかも昨今の美容院は、予約しないと髪を切って貰えない。今週末は空いているから美容院!と思っても、忙しさにかまけて電話をしそびれてしまうのだ。仕事から帰ってくると、ご飯を食べて映画を見て勉強してお風呂に入って・・・、ふと気が付けば、よもや美容院は営業している時間ではない。予約の電話にはほんのちょっとの時間で良いはずなのに、ついつい見過ごしてしまう。
ならば移動中に!と思うのだが、携帯電話で話しながら歩くというのが苦手だ。某CMのように、颯爽と歩きながら長電話なんてのは、私には難しい。そこでつくづく思うのは、移動中は常に急いでいるという事。立ち止まって電話するなどという余裕は、考えたらほとんど無い。
朝の出勤時は言うに及ばず、昼の仕事の後は慌ててバイト先へ。バイト後も、目的の電車目指してひた歩く。家の駅を通る電車がローカル線なので、いつも時刻表に追われるように駅に向かうのだ、乗りそびれたら、最悪30分待つような電車だ。友人と会うときも、大抵は時間ギリギリの移動なので、待ち合わせなどの目的に向かってひたすら突き進む。
大方の現代人がそんなものだろうと思いながらも、なにやら殺伐とした感じがしてしまう。そのため、良く利用するのが携帯メールだ。電車内では、話は出来ないがメールなら打てるから。

慌しい時間の使い方というのは、決して先に挙げたような『価値ある時間』にはならないだろう。勉強して良い仕事に就いて充実した人生を送るという、長期的な価値の付け方もあるだろうが、こうした短時間の上手い使い方、ゆとりのある時間の持ち方も、価値を生み出す根拠となる。
昼の仕事、夜のバイト、その合間を縫って勉強をして、趣味の映画を楽しみ、生きるためにご飯を食べて、人並みの空間を維持するために家事全般をこなして来た。時折友人と合って楽しい時間を過ごし、それでもまだ、時間を上手く使えていなかったのだと思い知る。
いつも先を考えて、こなす事に追われ、過ぎていく時間に汲々とする日々。やる事が次から次へとあって、ふと立ち止まる事すらないなんて、疲れが溜まるのも当然だ。ゆとりのある時間配分、人生にほんの少しでも、深呼吸する瞬間を作る。そうした時間から、次なる価値を生み出せるように。今日は髪を切りながら、そんな事を考えていた。

ちなみに、美容師の指名制度問題であるが、一応の決着がつきそうだ(笑)。
今日もまた『急な予約なので空いている方でお願いします』と逃げを打ったのだが、前回と同じ兄さんが担当してくれた。美容院側が、彼にしておけと決めた模様だ。2度続けてやってくれたし、ロングからショートという過程を経たので、今後はあの兄さんにお願いする事にしよう(笑)。

燃料サーチャージ・再び

2008年06月19日 23:36

先日、高騰する原油価格に伴う燃料サーチャージ値上げの話題を、ラジオのコーナーで取り上げていた。朝の支度の忙しい時間帯に、思わず聞き入ってしまう・・・背筋が寒くなる話題だった。
私がつどつど、『アエロフロート・ロシア』を利用するのは、基本的なチケット代が安いことも然ることながら、『燃料サーチャージ』(以下:油代金)が安い事が、最大の決め手だったのだ。
昨年9月の利用時で、油代金は約18,000円。3ヶ月毎の見直し直後で、その前は16,000円だったそうだ。他社がほとんど25,000円から30,000円近くを提示しているのに、この安さ、少し心配になったくらいだ。ロシアでは、原油以外の燃料が密かに・・・?

ゴールデンウィーク頃は、貯金が底辺で旅行なんてとてもムリムリ。夏こそは!と思いたかったが、日本語教師の教材費、部屋の更新にかかる手数料が、6月7月にまとめて来る。実質金銭が無かった頃、親元へ行く新幹線代などをカード払いしていた分も、どど〜んと今月、来月にまとめてくる。海外どころか日本国内、近場の熱海だって、各駅列車の日帰りも危うい状態だ。来月は誕生月だと言うのに、、、なんとも情けない現実がイヤになる。
それにしても、このニュースを聞いたなら、海外旅行に行くのなんて、むしろ恐くなってしまうかも。なんてったって・・・・

ヨーロッパまでの油代金が、今や往復平均56,000円くらい、だって言うじゃない!!!???

3ヶ月毎の見直しを繰り返し、10ヶ月ほどでこれほど高騰していたとは、驚きだ。ロンドン・ローマ辺りの、西ヨーロッパで最も安い都市限定の往復チケット、オフピーク時の代金は約60,000円くらい。これとほぼ同額の油代金だなんて、もう、逆さにしたって鼻血も出やしないという感じ。
油代金が正式に導入されるまでは、各航空会社が原油高騰の煽りを一手に引き受けていたと言う。当然だな、タクシー会社だって初乗りは上がったが、利用料金と同額の『ガソリン代』は取っていない。しかしその負担額が臆を超えた辺りから、『止む無く』お客様に油代金を『ご負担』いただくシステムを導入したそうだ。臆超えとまで言われたら、仕方が無い、飛ばないよりは甘んじて受け入れようと諦めたものだ。が、その後油代金は上がる一方、それでも何とか上昇率は抑え目でここまで来たのに、さすがに、利用客への負担を航空会社が懸念するほどまでになったという。しかも、下がる見込みも一切無し。
旅行会社なども、『格安パック!』等といって、『30,000円以内』の旅行パックなどを販売しても、いざ支払い時点で倍額を超えてしまうケースもあり、顧客との揉め事も増えているのだとか。そらそうだ、1万円くらい高くなるなら仕方がないが、倍になられたらさすがにこちらも仰天する。

こうした事態を回避するために、油代金の表記を義務付けるという措置が検討されているというが、航空会社や旅行会社からは良い声が聞かれないそうだ。あくまでも『格安』というウリを残したいが、油代金だけで既に格安と言えない金額なので、客離れが心配だそうだ。でもそれって、油代金を知らずに申し込んだお客をカモる気満々です!と、公言しているようなものなのでは?
ビジネスなどで懐が痛まない人はどんどん払うだろうから、表示しようがしまいが関係ない。海外旅行好きは予め油代金を念頭い置いているから、申し込む前に胎は決まっているだろう。価格表示を控えて拾える客は、あくまでも油代金の存在に疎い人に限定されるのでは?
ふふ、不信感だわ、やはり航空会社と旅行会社って、非常な不信感を感じるわ。

顧客が精神的に絶え得るという価格帯を、遥かに超えた原油価格。 様々な商品にその影響が出ているが、この燃料サーチャージって奴が最強なんじゃないの?
現在既に、特に若者の海外旅行離れが始まっていると言う。これまで多額の負担を利用客に強いてきた航空会社だが、減り続ける利用客を前に、よもやこれまでと同等の飛行本数を維持する必要がないところまで追い込まれるかもしれないな・・・なんて思ったり。
だって、私だって海外旅行に行きたいけれど、こうなってはもう、手も足も出ない。宝くじにでも当たらない限り当分無理だろう。ユーロ高、破格とも思えるポンド高、私の希望の国では、行った先でも怒涛の高価格の嵐が待っている。

なんにしろ、航空会社だって困っているはず、旅行会社だって状況は同じだろう。原油という限られた資源に頼ってきたつけが、今、あからさまに襲い掛かって来ているのか。・・・何も今じゃなくてもと、自分勝手な事を思ってみる。車はソーラーカーだとか、エコに鞍替えが進んでいる。移動手段以外でも、地球を守るために、様々な分野で多くの方法が見出されている。
飛行機よ、、、早いところ何か解決策を見つけて下さい。。。だって夏だもの、脱出したいよぉ〜。

カリフォルニアの新しい法律

2008年06月19日 23:18

カリフォルニアで、同性同士の結婚が法律で認められたというニュースを見た。同一国内で時差があるぐらいの面積を保有するだけあって、州ごとに法律の違うアメリカ。あの州知事は、『大勢の方がカリフォルニアに来て結婚式を挙げてくれれば、州の経済も上向く』とかなんとか発言していたが、それもいまいち良く解らない。
カリフォルニア州でだけ夫婦と認められるのか、知事が言っているのが、カリフォルニアに沢山の人が引っ越してくれば良いというのか、アメリカ中のいかなる州に於いても『カリフォルニア州の法律に則って』という言い分が、この場合は普通の結婚と同様通用するのか?等など。

私の無知ぶりはさて置き、ニュース映像では法律解禁(って言うのかしら?)当日の様子が映し出されていた。涙を浮かべる人、純粋に歓喜の表情を見せる人、ただただお互いを見つめ続けるカップなど、とにかく幸せムードが溢れかえっていて、見ていてとても・・・羨ましい(笑)。
やはり、一般的と言われる異性同士のカップルよりは、ここに至るまでに障害も多かったろうし、認められたいという意思も強かったろう。そうした紆余曲折というのは、関係をより強く結びつけるものなのだろう。なんだか、空気の中にハートマークが見えて来そうなほどで、羨ましい!!

しかし、こうした風潮に異を唱える人達はいるもので、祝うべき日を全力で台無しにするが如く、ご大層にも手の込んだプラカードなんか持っちゃって、大真面目に大騒ぎしている。こうした行為は想定され得る事態だったとは思うので、『ああ、やっぱりね・・・』と最初は思っていたが、次々に映し出されるそうした映像を見ていたら、『この人たち、酷くみっともないな』と思えてきた。
大体、他人事に口を出す時点で如何なものかと思うが、事は一個人の愛情問題だ。それを、袖触れ合う事も無かった全くの赤の他人が、とやかく言う筋合いじゃないだろうに、と思うのだ。
ああして大騒ぎしている人達も、自分たちの結婚式に赤の他人が大勢集まって、その結婚は悪の道だ!とか、地獄に落ちる前に救ってやる!とか言われたら、なんと思うだろう?間違いなく余計なお世話だ!と憤慨すると思うのだが、同性同士と言えど、それはよもや、全く同じ観点で観るべき問題じゃなかろうか?時代はこうして進み、価値観はこうして変化していく。

しかしね、私もこういう人達の気持ちは解らないでもない。正直言って私も子供の頃は、同性愛・・・なんて聞いただけで激しく拒否反応があった。その内に成長し、精神も成長し、愛情の対象が『何者であるか』という事には、大した問題は無いじゃないかと思うようになったのだ。むしろそうして誰かと深く想い合えるなんて・・・やっぱり羨ましいのです!!!!
ああして同性同士の結婚に目くじらを立てる人って、自分の価値観を赤の他人に押し付けている理不尽さに気が付いていないのだろうか?神の御心になんて本気で思っているとして、自分だったら救えると思い上がっているのか?自分の価値観が世界で一番正しいと信じてるのか?そんな無責任な自信や、他人を傷つける権利が自分にはあると思っている驕りは、一体どこから来るのだろう?少なくとも、対象者を嫌な気分にさせる事は、十分に理解しているとは思うけど。
心では何を思おうが個人の勝手だ、例えば同性愛の人が許せないとして、個人的に口を聞かない近付かないなど、防御策を張り巡らすのも良いだろう。ただし、相手を不快な気分にさせるのは戴けない、自分だったらどうだろう?と、常に考えてみれば解るだろうに。
結局、同性愛は古来からあって、それが今ようやく認められるようになっただけのはず。子孫繁栄の本能から男女がペアとなった太古の昔から、同性の結びつきを『恥ずかしい』と思わせたのが人間の些末な価値観からだったなら、『正しい事』と思うようにも、いずれは出来るはず。価値観の転換が出来るのも、文明を持つ人間の長所なのじゃないだろうか。

『だって好きなんだもん!』ってのは、何だか素敵な感情じゃないか。人間が人間を愛するという事に、制約を付けるなんて馬鹿らしい。同性愛の人は一生内に秘めた愛情を殺しながら、孤独に生きれば良いのか?まさか『全くの他人』に対して、それほど悲惨な押し付けは出来ないはず。自分が満足なら、同性愛者はそれぐらいの犠牲を払えとは、さすがのプラカード団体も言えないはず、いや、言わないと、同じ人間として信じたい。
私は自他共に認めるロマンチストなので、『愛情』というものに飽くなきロマンスを追い求めるタイプ。だからもちろん、個人的な愛は、神聖で侵さざる領域であって欲しい。『愛』というものには、他人が侵入してよい余地なんて、ありはしないのだ。
もちろん、祝福は別だ。祝う気持ちはきっと、愛を増幅させる効果があると信じている。だから、先日の初日に幸福な日を迎えたカップルも、そしてこれから迎えるカップルも、皆等しく、愛と神と一般市民の恩恵が受けられますよう、他人事ながら、心からおめでとう!と言わせて頂きたい。

『チャックとラリー おかしな偽装結婚!?』

2008年06月18日 23:59

〔米〕I NOW PRONOUNCE YOU CHUCK & LARRY (2007年)
監督:ミデニス・デューガン
脚本:バリー・ファナロ/アレクサンダー・ペイン/ジム・テイラー
アダム・サンドラー/ケヴィン・ジェームズ/ジェシカ・ビール/スティーヴ・ブシェミ/ダン・エイクロイド/ヴィング・レイムス/ニコラス・タートゥーロ/アレン・コヴァート/レイチェル・ドラッチ/リチャード・チェンバレン/ニック・スウォードソン/ブレイク・クラーク/ロブ・シュナイダー

チャックとラリーは消防士、幾つもの危険な任務を共に闘って来た親友同士だ。ラリーは幼い子供が2人いるが、妻は既に他界していた。その元妻が年金の受け取り人のままだったと知ったラリーは、子供たちに何も残してやれなくなると大慌て。手っ取り早く、最近施行されたばかりの『パートナー法』を利用して、年金の受取人をパートナー、つまり男、つまり親友であるチャックに託そうとする。最初は激しく拒否したチャックだったが、親友の為の虚偽行為に加担する事に。しかしあっという間に当局に怪しまれ、2人に対して厳しいな捜査が行われる事に・・・。

アメリカではそこそこの興行成績だったものの、日本では劇場未公開・・・。仕方が無いさ、だってA・サンドラーだもん!いまだに日本での知名度が低い彼だが、アメリカでの人気はかなり高いそう。シリアスもロマ・コメもこなす器用な役者だが、彼の真髄はやはりコメディ。
・・・とはいえ、A・サンドラーのコメディ映画って、何度か観ると飽きる・・・のよね。日本人ウケしないというか、笑いの質が同じというか、、、とにかく飽きたな・・・としんみり思わせる。『A・サンドラーの』と限定するというよりは、『1人のコメディアンの』と言えるかもしれない。
世に有名になったコメディ俳優は、それぞれの個性を生かした作風に多く出る。ジム・キャリーが顔芸なら、トム・ハンクスは飄々とした笑いを、スティーブン・カレルは、やたらと文字数の多い台詞といささかお堅い仕草の笑いを。勿論それで有名になったわけだから、その後もそうした個性で繋げたいのだろうが、同じ作風なので何作も観ると飽きるのよね。
で、大方はシリアス路線に変更していく。ということで!A・サンドラーもその例に漏れず、ちょこちょこシリアス系に顔を出し始めているが、そっちの方は更に日本では影が薄いのでは?それでも、A・サンドラーはまだその枠に舞い戻ってくれる。そんな初心を忘れない姿勢が好きである。なので本作も勿論観る(笑)。そして意外にも?A・サンドラーのコメディ個性は、『ドラマティック・コメディ』とでも言えそうな、割合と筋のしっかりした作品が多いのだ。
というわけで、本作も比較的しっかりしたストーリーは用意されている。導入部分がかなり強引かと思われるが、まぁそこは、コメディですから(笑)、そこまで追求しない。冒頭から中盤頃まで、これは・・・同性愛の方々がご覧になったら、大変不愉快になるのじゃないか?と妙な心配をしたが、後半は何とか盛り返す。もう一押し!という感じもしたけれど。
ラストもベタな感動路線に走らずに、笑いに走ってくれたところは良かった。不愉快になるほどアクの強いコメディはイヤだけど、有名俳優が出ている最近のコメディって、どこかで感動させようという小ズルイものが多くて微妙だと思っていたが、丁度良い加減の笑いで納まっている。
この絶妙なコメディの匙加減を見せてくれた功労者は、私思うにD・エイクロイド。もうほとんど名人芸だわ。いや〜良いわ、間の絶妙さや台詞回しなんか最高、もっとフューチャーされても良い役者よね。ついでにS・ブシェーミが、気持ち悪くてかなり良い(笑)。あんな男に付回されたく無いわ。更におまけに、ノン・クレジットのR・シュナイダー、あれ日本人だそうで。R・シュナイダーだと解って見ると、腹抱えて笑えます。この方もとても芸達者。
男女にこだわらず、『友情』というものの良い形を見せてもくれるこの作品。大いに笑って適度に感動して、やはり地味な印象は否めないが、かなり力のある脇役に固められ、手堅い作品に仕上がっていると思う。デート・ムービーとしても有効じゃないかな?こういう作品に大満足してくれる彼女なら、将来は明るいかも・・・知れません(笑)。

チャックとラリー おかしな偽装結婚!?チャックとラリー おかしな偽装結婚!?
(2008/06/12)
アダム・サンドラー.ケヴィン・ジェームズ.ジェシカ・ビール.スティーヴ・ブシェミ.ダン・エイクロイド.ヴィング・レイムス

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ぽすれん『チャックとラリー おかしな偽装結婚!?』紹介

至高の時間

2008年06月18日 23:58

女性はとかくお買い物が好き!というのは世の定説であるが、私の周りにはそういう女性は余りいない。お買い物より倹約・・・というタイプが多いのは、『類は友を呼ぶ』ということわざ通りと言う事か。。。なんか虚しいなぁ(笑)。
とは言っても、ものの価値観は友人とて様々で、5,000円のスカートを酷く安かったと言う友人もいれば、高い!と驚く友人もいる。ちなみに私は、『高い!』派。スカートなんて、3,000円超えたら高級品よ(笑)。う〜ん・・・笑い事じゃなくて、やはり良い品は長く着られるし、着ている人も美しく見せる。いずれ、きちんと高級品を買える身分になりたいものではある。

私の洋服などの買い方は、どちらかというとかなり『男らしい』ようだ。欲しいものがある場合は希望がかなりはっきりしているので、売っているお店が解っていれば、買い物のために出かけて行っても余り時間が掛からない。むしろ最近は、ネット購入で済ませてしまうかも(笑)。
それ以外では、街中を歩いていてちょっと時間があって、たまたま通りがかったお店で気に入ったものを見つけると買ってしまう。街中を歩いていて、洋服などが買えるほどに時間があることも滅多に無いので、何とか破産しないで済んでいる。
だから新橋に職場があった時などは、新橋の地下街なんかで服を買ってしまったりするのだ。そんな服を着ていて友人に、『(服が)可愛い〜』などと褒められると、何ともバツの悪い思いをしてしまう。頼むから、どこで買ったのと聞いてくれるな、という緊張感も(笑)。
そんな私なので、ウィンドウショッピングなるものの価値観が全く解らない。物を買うために物色するのであって、買う気も無いのにショップのはしごだなんて、あんな疲れる事はしたくない。まして、買うお金も無いのなら、ただ売り物を眺める事に一体なんの意味がある?疲れと共に、なんとも虚しい気持ちになるだけじゃあないのか?と、不思議でならないのだ。買えないと解っている商品に関しては、なんらの興味も沸かない。興味の無い商品は、見る気にもならない。
なので、先日逢った友人との昼食後に、『余った時間は何をする?』という議題が持ち上がった折、『あたしウィンドウショッピングしたい♪』という彼女を、丁重に近所の公園に誘導した。自然に囲まれて彼女もご満悦だったので、結果オーライという事で♪

ただ1つ、唯一、私が『お買い物したい〜♪』と言い出す場所がある。見かけると、立ち寄らずにはおれない場所がある、ストレスが溜まると出かけて行って、ごっそり買い物をしてしまう場所がある。それはもちろん、『本屋』である。恐らく本屋は、私が当ても無く出かけていく唯一の商業施設であり、ただブラブラしてストレスが発散できる、唯一の売り物屋である。
ちなみに、古本の匂いは今でも好きではないので、古本屋に『行くだけ』では全くストレス解消にならなければ、満足の対象でもないのだ。古本屋はあくまで『買うため』に行く。『買いたい!』と思って出かけて行くので、店の大きさの差こそあれ、隅々まで見て3時間ぐらい過ごしてしまう。
普通の本屋こそ、単純にストレスを発散できる場所だ。新刊本の匂いを嗅いで、大量に並ぶピカピカの本を見て、都会のど真ん中でも静かな空間である本屋の中で、気になる本をチェックしてまわる。そんなこんなでこちらもまた、大きな本屋なら3時間くらいはブラブラしてしまう。しかもその間立ち読みは一切しない。気が向けば、いや財布が許せば文庫本の一冊でも買って帰るのが、至高の楽しみなのだ。
女性が楽しむウィンドウショッピングというのは、私の本屋巡りと同じ感覚なのだろうか?と考えたが、私の本屋巡りの場合は趣味的関わりが非常に強いので、服でも靴でもアクセサリーでもという、いわゆるある程度の必需品探しとは、またちょっと違う気もする。
それに、本屋巡りをする時には、極力1人で行きたいのだ。誰かと一緒に行くと、気を使ってしまって落ち着かない。大抵は、長居をし過ぎて嫌な顔をされるので、そうならないようにこちらも駆け足で物色して回る事になる。 これも確かに、友人のウィンドウ・ショッピングに長々つき合わされると、同じ気持ちを私も味わうので良く分かるのではある。
特に私が苦手なのは、散々あちこちの店を引っ張り歩いて、『何も買わないこと』なのだ。これだけ苦労したんだから、何でも良いから収穫して帰らんかい!という、獲物無しの狩りが嫌いなタイプ(笑)。最低限、靴下でも良いから買って頂戴・・・と胸の内で願ってしまう。
その点本屋に行くと、最低でも10冊くらいは買ってしまうものねぇ・・・、これもどうなんだか・・・。

『厨房で逢いましょう』

2008年06月18日 23:02

〔独/瑞〕EDEN (2006年)
監督:ミヒャエル・ホーフマン
脚本:ミヒャエル・ホーフマン
ヨーゼフ・オステンドルフ/シャルロット・ロシュ/デーヴィト・シュトリーゾフ/マックス・リュートリンガー

僅か3席のレストランを持つグレゴアは、子供の頃の憧れだった、立派にせり出したお腹を持つ天才料理人だ。一切の情熱を料理に捧げていたが、偶然親しくなったカフェのウェイトレス、エデンに心奪われる。彼の天才的な料理の腕にほれ込んだエデンは、次第に足繁くグレゴアのレストランへ通うようになるが、そんな2人の仲にあらぬ噂が立ち始め、エデンの夫クサヴァーにもばれてしまう。グレゴアもまた、エデンへの想いに悩み、ある重大な決心をするのだが・・・。

またか。。。またなのか、これじゃ『サスペンス』じゃないの!と言っても、面白かったけど(笑)。正直、カテゴライズは『サスペンス』で決まり!と個人的には思うが、それは確かに誇張しすぎかも?明らかに『大人のロマンス』を押し出した宣伝から、なぜに『サスペンス』になるのか?まぁ、とりあえず観てみて下さい(笑)。フィルムの色合いや雰囲気、落ち着いた演出などはドラマ寄りで、確かに冒頭に、『大人の』と付けたい落ち着いたロマンス映画と言えるのではあるのだが。
とにかくね、長年料理に没頭して、事実天才的な料理人である男でも、あれだけ太ってちゃあ・・・ね?とそんな彼に向かって、『あなたなら普通でもモテそうなのに、どうして結婚していないの?』とサラリと言っちゃうエデン。そんなエデンの無神経ぶりに、健気に耐えるグレゴア。エデンは一体何を求めて彼の元へ来るのか?私には、美味しい料理のただ食いにしか思えなかった。。。モテないわけでもないのだろうが、明らかにオイディプス的コンプレックスを持っていそうな男を、母の仮面を被って手玉に取る・・・というかね・・・。
2人の仲に不満を募らす夫クサヴァーにも、『ただのお友達よ♪ふふ、心配する事無いわ』と繰り返すエデン。そんな戯言が通用するほど、大人の世界は純白じゃありませんよ、と私は思う。
『エデン』という女性主人公の名前、これは・・・余りに直接的過ぎる『イヴ』を回避したが故なのでは?と途中から思い始めた。イヴに翻弄されたアダム(男)、都合が悪くなると、男の側から良く引用されるイヴ(女)の小悪魔的な要素。まさに、ま〜さ〜に、エデンに翻弄された男達。
しかし、物語よりも何よりも、グレゴア役のJ・オステンドルフが、プロの料理人かと思うほど手つきがこなれている。単に料理が上手い素人という枠を、遥かに超えた巧みな手捌き。かつて職場でどれほどあの手捌きを観てきたか、経験から解る玄人手つき、ただ者じゃないわあの役者。
大抵ロマンス映画を観ると『女性』の立場に立って観るので、この映画ほど、男性の立場に共感した事は余り無い。とはいえ、多分に女性的見地から、ではあるのだが。密かに想いを寄せていたエデンと近付いたグレゴアの気持ちの高揚、孤独だった日々に投げかけられた一条の光。この辺だけでも妙に共感してしまうのだが、さらに加えて、『料理を食べてくれる相手』が現れた、という事にどうしようもなく共感。解る、グレゴアの喜びが解ってしまう。
料理なんて、1人で作って1人で食べても全く嬉しくない。特にそれが『やたらと美味しく』出来てしまった時ほど、堪えようも無い孤独を感じる。むしろ自分1人のためになんて、晩御飯でも目玉焼きで十分なのだ。私にとっては『料理と食事』が唯一、孤独を痛烈に感じる事柄であるらしい。
グレゴアの料理が進化した理由も、無意識でも変わった事も、あらゆる事が手に取るように解るので、ラストの展開はもう・・・いつもとは違った意味でクッションを抱きしめながら、どうしようもない怒りに憤っていた。クサヴァーよりなにより、問題はエデンだわよ・・・。
1番心に残ったのは、クサヴァーがグレゴアのレストランで食事をするシーン。単なる料理と食事というものを、あれほど形態や印象を変化させながら見せる演出は初めて。かつては食の世界を志した者としても、ああした至福の表情を浮かべる人を見るのは、何とも胸が熱くなる。
時にグレゴアの料理は官能を呼び覚まし、時に苦悩を味わわせる。料理という媒体を通して、情緒的に描かれる人々の姿。グレゴアの辿った恋の道筋も、同じように様々な食べ物を利用して語られていく。ラストはまぁ、、、清々しいのではあるが、エデン・・・あんたやっぱり、つわものね。まぁ、変に悲劇ぶる主人公より、数段潔い感じもするのだが。

厨房で逢いましょう厨房で逢いましょう
(2008/04/23)
デーヴィト・シュトリーゾフシャルロット・ロシュ

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『ボビーZ』

2008年06月17日 23:40

〔米/独〕THE DEATH AND LIFE OF BOBBY Z (2007年)
監督:ジョン・ハーツフェルド
原作:ドン・ウィンズロウ
脚本:ボブ・クラコワー/アレン・ローレンス
ポール・ウォーカー/ローレンス・フィッシュバーン/ジェイソン・ルイス/オリヴィア・ワイルド/キース・キャラダイン/ジェイソン・フレミング/ヨアキム・デ・アルメイダ/ジョシュ・スチュワート/J・R・ビリャレアル/マイケル・ボーウェン/ジョシュア・レナード

あらすじ参照はコチラ→『ボビーZの気怠く優雅な人生』

とまぁ、あらすじ掲載を端折ってしまうぐらい(笑)、小説を実に上手くまとめた脚本だった。目立つ変更は、ティムが連れて逃げる子供の年齢が大幅に引き上げられた事。現実的に考えれば遥かに都合の良いこの変更は、手際よく物語を収めるためには必要な変更だろうと思われる。
もう1つ嬉しい変更は、小説では巨漢で若干不気味な描写だったブライアン(最初にティムを歓待する小物犯罪者)が、設定を大幅に変更してJ・フレミングになっていたこと!!!やぁだぁ〜、普通のJ・フレミングを観るのってなんだか久し振りで得した気分♪
DVDレンタル開始早々に観たのは、単に簡単に借りられたから・・・ではなくて、小説読了の際に映画の事を調べた折、ティムを演じるP・ウォーカーと、ボビーを演じるJ・ルイスが似ていた事。写真だとかなり似ている。実際に動いている映像を見てみると、やはり酷似という程ではないのだが、その辺の噛合わなさも、脚本では上手くまとめていたと思われる。
しかも、ついていない犯罪者は別として、元海兵隊員で勲章まで貰っておきながら、部下だったか市民だったかを守るために捕虜を殴って辞めさせられた純粋な正義漢、いたいけな子供も捨て置いては置けません!というのが、P・ウォーカーに笑っちゃうぐらいピッタリな役柄だったから。この方、よもやこういう役意外は出来ないのでは?という不憫さすら感じるぐらいはまっている。
しかしP・ウォーカーって、実際かなり良い男なのだが、『それだけ』という印象の薄さ。街中では振り返るほどだろうが、ハリウッドでは幾らでも代わりがいそうな男前で、際立つ個性が薄い気がする。出演作も2本ほど観たら飽きてしまうというか・・・。そんな意見を裏付けるような、そっくりさんとの共演。ちなみに、J・スイスも余りぱっとしないが、なかなかの美男子なのである。
悪徳警官を演じたL・フィッシュバーンは好演していたが、個人的にはトミー・リー・ジョーンズに演じて欲しかった(笑)。小説を読んでいる間は、ずっとこの警官の役をトミー・リー・ジョーンズに割り当てていたものでして(笑)。ティムを追うカウボーイをK・キャラダイン!!なぜだかこの方、私の中の記憶では若い頃のままで停滞していて、現在の姿を見る度に驚く。そうか、歳を取ったんだ・・・といつも思うのだが、また見ると驚く。きっと次に何かの新作で観たら、同じように驚く。
正に小説の映画版で、映像的に格別際立った面白味はなかったので、物語を知ってしまっているとワクワクするような感じは一切無かった。アクション映画としてはソツ無い作りで、逆にいうとこれと言って際立つ面白さは無いかな。原作の映像化という興味は十分に満たされたのではあるが、原作を読まずに映画だけ楽しむ方はいかなる感想を持つか?私には推測不能だ。

ボビーZボビーZ
(2008/04/23)
ポール・ウォーカーローレンス・フィッシュバーン

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『ファウンテン 永遠につづく愛』

2008年06月16日 23:08

〔米〕THE FOUNTAIN (2006年)
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:ダーレン・アロノフスキー
ヒュー・ジャックマン/レイチェル・ワイズ/エレン・バースティン/マーク・マーゴリス/スティーヴン・マクハティ/フェルナンド・エルナンデス/クリフ・カーティス/ショーン・パトリック・トーマス/ドナ・マーフィ /イーサン・サプリー/リチャード・マクミラン

脳腫瘍に冒された妻のイジーを救うため、新薬の開発を急ぐ医師のトミー。しかしイジーの病状に追いつく事が出来ず、気持ちばかりが焦っていた。とうとう入院を余儀なくされたイジーは、自分が綴っていた物語の仕上げをトミーに託そうとする。その物語とは、中世のスペインが舞台。美しい女王イザベルに従う騎士トマスは、宗教戦争に巻き込まれた女王の命を救うため、ジャングルの奥地にあるという、永遠の命を与えてくれる『生命の木』を求めて旅立つのだった。

いや〜、騙されちゃったなあ〜。映画の宣伝も然ることながら、普段は余り軟派な髪型をしないH・ジャックマンがちょっと長髪なのが余りに素敵過ぎて、ついつい冷静な判断力を失ったね。まぁ、冷静な判断力があったとしても、相手役がR・ワイズでしょ、まず観たな、そこは間違い無く。
なんだかとっても素敵なDVDジャケ、宣伝用ポスターなども、美男美女の美しい姿が・・・ありましたけど、これは、全くもって『ロマンス映画』ではないね。
確かに、物語の基盤には1組の男女のロマンスがある。過去(劇中物語)においてはトマスとイザベル、現在においてはトミーとイジー、そして未来においては・・・あえて伏せさせて頂く。運命の相手という存在を通して、ざっくり言っちゃうと生と死というものを描いているのね。生きることと背中合わせの死。過去、未来において特異な生と死の存在を描きつつ、現代においては、生涯の伴侶と決めた人の死を受け入れられない男の足掻きが描かれている。
トミーは、いかにしてイジーの迫り来る死を受け止めるのか?まるで神にでもなろうとするかのように、これまで果たされなかった新薬を追い求めるトミー。反してイジーは、精神的な面から厳かに死を受け入れようとする。トミーに理解してもらう手立てとして、自分の書いた物語を渡したのかも知れない。現在を軸にして差し挟まれる過去と未来の描写は、観客も直面する身近な死を描く上で、過去は生を、未来は死を、ファンタジックかつ隠喩的に表現していたように感じた。
非常に哲学的なのだけど、こうした哲学論みたいなものって、語るべき資格がある人が語って初めて、受け入れられるものじゃないかと思う。監督・脚本をこなしたD・アロノフスキーの考えの1つではあると思うのだが、これをどれだけの人が受け止められるかというと疑問だ。私自信は輪廻転生を『信じたい』人なので、この映画の言わんとしている事も少しは解る気がした。となると面白いとも言えるのだが、この考え方に同調できない場合は、かなりの独りよがりな映画に感じるだろうなぁ?と思われる。ある程度同調していたとしても、結構ドン引きな演出もあったし(笑)。
『さぁ、H・ジャックマンの色気たっぷり堪能するぞ!』と挑んだので(笑)、展開に着いていくのに頭の切り替えに戸惑った。何なに?今この画面の中で何が起こっているの!?というね(笑)。
総体的には、かなりの意欲作でその意気込みは感じたが、製作者側の陶酔感が余りにも強く押し出されていたと言った感じ。この雰囲気で語るには、テーマもやたらと大きかった気がする。気負いこんだ割には、自己満足で終わってるかな?という気がしていささか残念だった。

ファウンテン 永遠につづく愛ファウンテン 永遠につづく愛
(2008/06/06)
ヒュー・ジャックマンレイチェル・ワイズ

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至福を呼ぶもの

2008年06月16日 23:03

唐突だが、お米派かパン派かと言えば、私はどちらかと言ったらパン派だ。選定基準は、パンは時々無性に食べたくなるが、お米はそう思った事が無いところ。焼きたてのパンは、のあの香ばしい匂いを嗅ぐと、もはや買わずにはいられないが、炊き立てのご飯の匂いは『美味しそうだ』と想像は掻き立てられるが、『食べたい!』と感極まるほどの欲求は沸かないのだ。
私の好みのパン遍歴は様々だ。始まりは子供の頃子供の頃、母に『パン屋』さんに連れて行って貰うと、姉は必ずフルーツなどの乗った甘いデニッシュを選び、私は必ず『芥子の実パン』だった。バタールの生地を小さく丸め、上に芥子の実をふんだんにまぶした贅沢な一品・・・と言いたいところだが、姉の所望するいわゆる『菓子パン』の半値以下だったため、不憫に思った母がいつも2つ買ってくれた。子供の頃から甘いものが苦手だった事に加え、シンプルなパンの香ばしさが最高の味わいという、子供らしからぬ味覚の持ち主だったらしい。

黒パン・白パン、エトセトラ、エトセトラ・・・。様々な種類のパンを時々の好みに合わせて食べて来たが、あるドイツ人に『白いパンなんか食べたら死ぬよ』と真顔で言われてからは、暫く黒系に走った。20kg以上のダイエットに成功した上司からも、『痩せたいなら色の白いものは食べるな!』と警告されてからは、かなり長い間、白パンには手を出さなかった。
もともと固いパンが好きなので、食パンの類は滅多に食べない。それにしても・・・、数年の拒絶時期を経て、私はやはり中身が白いパンの方が好きである!と最近は猛烈に思う。焼きたてのバゲッドにバターを溶かして食べるのは、やはり最高なのだ。

貧乏生活が長くて、いかなる事にも『節約』を心がける習慣が出来ているが、幾つかの食材に関しては、譲れないラインというのがある。手を加える事が出来ない素材系統(塩、砂糖などの調味料系統)、素材の味を楽しむ食べ物(チーズやパンなど、コーヒーなどの飲料系統)だ。それでも、一月の食費は3〜4千円くらいなので、平日のランチを入れても1万円を超えないくらい。
しかし今はまっているパンは、1本700円もする。明らかに、3〜4千円では納まらない高価格。基本的にパンは高くても平気な私だが、これを定期的に買い続けるのは至難の業なのだ(笑)。
しかもこのパン、私にしては珍しく食パン系統。このパンの最も美味しい時期は当然『焼きたて期』なのだが、この魔力はかなり強烈で、電車待ちをしながらムシリムシリと、半分ほども食べてしまうほどなのだ。傍から見たら相当不気味だろう、菓子パンならいざ知らず、普通の食パンを駅のホームでむしって食べる女って(笑)。すみません、お行儀悪くて。

さて、今や私の愛情のほとんどを占めている『そのパン』の事を説明させて頂こう。
長時間発酵が自慢の山型パンだ。上層部にはたっぷりと溶けたバターが焦げ付き、側面は少しサクサクとした厚めの皮、そして中は真白でフワフワ、フワフワ、フワフワァなのだ。山型のてっぺんからは、程よく焦げたバターの香ばしい香り、側面からは良く焼けた別種の香ばしい香り、そして中身の真っ白い部分からも、驚くほどの芳醇が溢れ出てくる。パンの切り口に鼻を近づけて匂いを吸い込むと、上層部、中部、側面の匂いが渾然一体となって、芸術的にすら感じるパンの豊かな香りが鼻腔になだれ込んでくる、まさに、至福の一時。
このパンは、トーストせずに食べるのがベストだ。日にちが経ってしまったら、香りを出すために軽く暖める程度が宜しい。白い部分の奇跡的な柔らかさ、それをかみ締める度に口中から鼻梁に抜ける、これまた信じられないほど芳醇な香りを楽しむためだ。私などは、食べながら何度も匂いを嗅いでしまう、相当理性が崩れているらしい、他人には見せられない(笑)。
ちなみに、間にハムだ野菜だを挟んだり、シチューだカレーだを付けて食べるのも否だ。それでも主役になれるパンではあるが、私個人としては、断然そのままパンだけを味わいたい。
匂いを嗅ぐだけで幸せになれる、頬張れば柔らかさとサクサク感のハーモニーに恍惚とする。香り、味ともに正に天下一品のパンなのだ。家に帰ればあのパンが待っている!と思えば、自然と足取りも軽くなるほどに。そう考えれば、たかだか700円なんて、安い物かも知れない。
カツカツの生活においては余り『至福』を感じる事も少ないが、その基準は人それぞれ。高価なものや事柄よりも、個々人の価値観が重要な『至福』。皆さんは、どんな『至福の時間』をお持ちだろうか?


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